ついさっき「違和感」は「覚える」に決まってるだろ!と口走ったけど・・・

 
ネタ元はマークさんだったか、これは失敬(笑)
 
が、ふと思った。
「○○感を感じる」は果たして間違いだろうか?と。
 
違和感はいいとしても、例えば「焦燥感」。
「遅刻しそうになって焦燥感を抱いた」
「遅刻しそうになって焦燥感を覚えた」
「遅刻しそうになって焦燥感を感じた」
 
何となく最後が一番しっくり来るのは気のせいだろうか?
「抱いた」だと「恋心を抱いた」と言うように「淡い感情」みたいな気がする。
「覚えた」だとやはり「自覚した」的でやはり弱い。
「ちょっと時間が押して来たなぁ〜」くらいの感覚なら「覚えた」でもいいけど、焦燥感はそもそも切羽詰まった状況であるから、尻に火がついた状態としては「覚える」はやはり弱い。

「感じた」だと「ヒシヒシ」と感じた様子が伺える。
「焦燥感」という言葉の性質上、「ヒシヒシ」ではないだろうか?
 
 
では「○○」に応じて「覚えた」や「感じた」を使い分けるのが正解だろうか?
 
違和感、焦燥感、距離感、罪悪感、親近感、嫌悪感、疎外感、清潔感、不潔感などがあるが、この中で自然に「覚えた」と使いたくなるのは親近感のみである。また親近感であれば「わく」という表現もあろう。
親近感は「ヒシヒシ」と感じるものでもなかろうし、何となく感じるものだからだろうか。

 
やはり「●●感」の述語につき、一律に決めるのは難しく、使い分け説に傾きたくなる。
 

 
このような事を考えていたら興味深い記事を見つけた。
 
 
《抜粋》
 
勘違いをされてる方、少なくないんですが、上記した勘違いには2通りの誤解があるようです。

1、「違和感」は「覚える」ものではないのか?

違います。「違和感」とは「感覚」のことを指します。「なんか変だな~」と「感じる」のです。少し細かく分析してしまうと、「和」という漢字は「平和」にも見て取れるように、「穏やかであること」、「トラブルなどがない状態」を表す漢字です。聖徳太子が「和をもって尊しとなせ(わをもってたっとしとなせ)」と言ったのは有名ですね。はい。この「和の状態」と「違う」「感覚」だから「違和感」です。要は

なんだかしっくりこないよね~

って感覚ですね。そう「感じている」ので「違和感」は「感じる」が正確な表現です。覚えてどうするのってね。何を暗記してんだかって話です。もちろん、間違ったまま市民権を得た表現と言うのは日本語には沢山あります。これに通じるのは

「的を得る(まとをえる)」

という表現ですね。的は「射る」ものです。的を「もらって」も重たいだけです。でも、少なくない日本人が「的を得た表現ですね~」とか言っちゃってるんですけど、誤解です。「的を射た表現」が正しい日本語です。

2、「2重表現」ではないか?

はい、このご指摘も完全な間違いです。
「2重表現」ってのはですね、「消防車の車」とか「夕日の太陽が…」って表現です。要は「かぶっちゃってる表現ですね。「消防車」ってのはその段階で
「火事などを消火に行く『車』」
って言う意味があります。なので、「消防車の車」って言っちゃうと、「火事などを消火に行く車の車」って言ってるのと同じになっちゃうんです。

これを「2重表現」と言います。

で、「違和感を感じる」が2重表現ではないか、というご指摘ですが、一応これは違います。
「違和感」とは「感覚」のことを指します。2重表現とは「意味の重複」の時に使われる指摘なんです。「違和感」は名詞。「感じる」は動詞。先ほど、「違和感とは「なんだかしっくりこないよね~」と言う意味です、と書きましたが、それで言うと、「違和感を感じる」とは

「なんだかしっくりこないよね~と感じる」

と言ってる訳です。普通でしょ?これは2重表現ではないんです。
《終了》
 
まさに我が意を得たりである。これを読んでも件の「多数派」は自説をまげないのだろうか?
 
また、真逆の主張もあった。
 
 
《抜粋》

「◎◎感を感じる」

 

何年も前からよく目にしたり、耳にすることがあたりまえとなりました。

 

ですが、私はこの書き方に、どうしても強い違和感を覚えてしまい受け入れられません。

 《終了》

違和感はともかくとして、否定派ながら「よく目にする」と認めている部分が共感できる。

但し「どうしても強い違和感を覚えてしまい受け入れられません。」という主張は当方は感じない。

 

自分としては、前者の主張である『「違和感」は「感じる」が正確な表現です。』に軍配を上げたい。


言葉については多数派が正しいとか少数派が間違いという頭デッカチなジャッジは不要である。


仮に「三割程度の人しか使っていない」としても日本国民の三割なら三千万人超である。

ましてや三割を正確にカウントした人もいないだろう。


比率の問題ではなく「たくさんの人が使ってる」と言っても過言ではない。


件の妙なとこが潔癖なエセヒューマニストは答えは一つしかないと思い込む偏狭さを露呈しているが、言葉であれば複数の正解があるのもまた事実なのである。