『日本国紀』読書ノート(167) | こはにわ歴史堂のブログ

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167】アメリカが一方的に経済制裁をして日本を戦争に追い詰めたのではない。

 

「前年の昭和一四(一九三九)には、日米通商航海条約破棄を通告し、航空機用ガソリン製造設備と技術の輸出を禁止していた。」(P380)

「…昭和一五年(一九四〇)、特殊工作機械と石油製品の輸出を制限、さらに航空機用ガソリンと屑鉄の輸出を全面禁止する。」(同上)

 

と、アメリカの経済制裁を一方的に説明されていますが、これらの背景には日中戦争の拡大、それにともなう重慶への無差別爆撃、仏印への強引な(海軍すら憤慨する)武力進駐、日独伊三国同盟の締結などがありました。

 

これをうけて第二次近衛内閣は、「日米交渉」を始めました。

これを「日本は必死で戦争回避の道を探るが…」(P382)と説明されています。

いわゆる野村吉三郎と国務長官ハルとの交渉です。

しかし、その一方で、外相松岡洋右は三国同盟提携強化のためにドイツ・イタリアを訪問しています。

外交は「二重性」があって当然ですが、一方で和平を唱え、一方で進出の手をゆるめない日本の姿勢は、国際的信用を低下させます。

松岡外相は、帰途、モスクワで日ソ中立条約を締結します。『日本国紀』では、どういうわけかこの時期の「北進」つまり、ソ連との対立から宥和への話が出てきません。

ノモンハンでの衝突(1939年5月~9月)の話もありませんでしたし、この日ソ中立条約締結の話も希薄です。

これは明らかに「南進」を進めるための北方の平和の確保がねらいでしたし、アメリカやイギリスもそのように判断します。

1941年6月、ドイツが突如不可侵条約を破ってソ連に侵攻しました。同年7月、御前会議が開かれましたが、軍部の強い主張で、「対英米戦覚悟ノ南方進出」だけでなく、情勢が有利になれば対ソ戦(北進)を決定しました。

内々の決定だけではありません。陸軍はすぐに行動に出ました。

シベリア・極東ソ連の占領計画を策定し、70万の兵を満州に集結させて「関東軍特種大演習」を実施しています。

日ソ中立条約を結びながら、独ソ戦が開戦されるや、ソ連の背後を狙う行動は、ソ連の不信もまねき、後の和平交渉の停滞や敗戦間際のソ連侵攻の遠因ともなります。

 

アメリカが日本を追い詰めていくような印象を与える説明がされていますが、日本のこのような「外交・対外姿勢」が自らを追い詰めていった側面も否めません。

むしろ、政府内部にも対米強硬派と宥和派があり、軍部内部にも強硬派と宥和派に分かれて対立し、それぞれの統一されない行動が国際的な不信を高めていました。

(これがナチスとは決定的な違いで、日本はとてもファシズム(全体主義)とはいえないところです。このことをここで説明しておけば、後の東京裁判の不当性と、マッカーサーの誤解の氷解もうまく説明できたのにと残念に思います。)

 

近衛文麿は、松岡洋右の対米強硬路線が、アメリカを中心とする経済制裁と「余計な対立」をもたらしていると考え、松岡洋右など対米強硬派を内閣から除くためにいったん総辞職して第三次近衛内閣を成立させました。

ところが、軍部はこの政府方針を汲み取らず、今度は「南部仏印進駐」を実行しました。

 

「アメリカのルーズベルト政権はこれを対米戦争の準備行動と見做し、日本の資産凍結令を実施した。イギリスとオランダもこれに倣った。そして同年八月、アメリカはついに日本の石油輸出を全面的に禁止したのである。」(P381)

 

「アメリカがいつから日本を仮想敵国としたのかは、判然としないが…」(P382)と説明されていますが、これははっきりしていて、アメリカのルーズベルトが明確に「東亜新秩序」建設と「南進」を阻止することを明確にしたのはここからです。

すでに説明したように「ワシントン会議の席で、強引に日英同盟を破棄させた頃には、いずれ日本と戦うことを想定していたと考えられる。」というのはあくまでも百田氏の推論にすぎず、「それを見抜けず、日英同盟を破棄して、お飾りだけの平和を謳った『四ヵ国条約』を締結してよしとした日本政府の行動は、国際感覚が欠如していているとしかいいようがない。」(P382)という説明は誤りで、すでに日英同盟は日本にとってもイギリスにとっても不要なものになっていて、「四ヵ国条約」の締結は、軍縮によって財政破綻を回避しようとする世界的な動きの中でとられたものです。むしろ国際感覚に合致していたというべきでしょう。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12444188757.html

 

そもそも百田氏が説明されているように、ルーズベルトは「自分が選ばれれば、外国との戦争はしない」という「公約」を掲げて当選しました。

 

「彼は『日本から戦争を仕掛けさせる方法』を探っていたはずで、日本への石油の全面禁輸はそのための策であったろう。」(P383)

 

というのは、百田氏の想像でしかなく、よくいわれる「ルーズベルト陰謀論」にすぎません。ルーズベルトは、「公約」を守り、1939年から1941年まで一貫して「武力行使」によって日本を屈服させるのではなく「経済制裁」によって日本の東アジア・東南アジア進出を阻止しようとしたのです。

それを武力によって打開しようとしたのは日本(軍部)でした。

ここから軍部はプロパガンダを展開します。

「ABCD包囲陣」という術語を使い、日本を不当に圧迫していると国民に訴えました。

陸海軍には「報道部」があり、各新聞社にそれぞれ担当をつけていて、新聞社も陸軍省・海軍省付きの記者を用意していました。

新聞社の中でも、陸軍省付き、海軍省付きの記者がそれぞれ意見を異にしていて、マスコミの中でもそれぞれの立場の「空気」を反映した記事が書かれていました。

このことを前提にして当時のマスコミ報道を説明すべきで、一方的に「日本の新聞各紙は政府の弱腰を激しく非難した。」「戦争を煽る記事や社説、あるいは兵士の勇ましい戦いぶりを報じる記事が紙面を賑わせていた。」と説明するのは不適切です。

政府が戦争を回避しようとしたのに新聞が国民を扇動した、のではなく、政府が戦争を遂行するに当たって国民の理解を得るため、マスコミを利用した、というべきでしょう。

 

「日本はそれでもアメリカとの戦争を何とか回避しようと画策した。」(P383)と説明されていますが、9月6日の御前会議では、日米交渉の期限を10月上旬と区切り、交渉が成功しなければ対米開戦に踏み切る、という「帝国国策遂行要領」を決定しています。

 

ちなみに「アメリカのルーズベルト政権はそれまでの交渉を無視するかのように、日本に対して強硬な文書を突き付けてきた。」(P384)として、1127日の「ハル・ノート」の説明をされていますが誤りです。「それまでの交渉」の中で、すでに日本側に「日本軍の中国からの全面撤退などを要求」しています。

ですから、近衛内閣は、妥協点を見出せないまま10月半ばを迎えたのです。

そして、日米交渉の妥結を強く希望する近衛首相と、交渉打ち切り・開戦を主張する陸軍大臣東条英機が対立し、1016日に内閣は総辞職することになったのです。