『日本国紀』読書ノート(166) | こはにわ歴史堂のブログ

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166】仏印進駐の内容が正確ではない。

 

「日本は仏印ルートの遮断を目的として、昭和一五年(一九四〇)、北部仏印(現在のベトナム北部)に軍を進出させた。これはフランスのヴィシー政権(昭和一五年)【一九四〇】にドイツに降伏した後、中部フランスの町ヴィシーに成立させた政府」と条約を結んで行なったものだが、アメリカとイギリスは、ヴィシー政権はドイツの傀儡であり日本との条約は無効だと抗議した。しかし日本はそれを無視して駐留を続けた。」(P381)

 

と説明されていますが、仏印進駐の話が不正確で一面的です。

日本は、フランスがドイツに敗退したことをうけて仏印の「援蒋行為」中心を要求しました。フランスはこれに応じたのです。6月29日、日本は西原少将を団長とする輸送停止状況監視団をハノイに送りました。これに対して参謀本部の永富少将は仏印への武力進駐を主張し、西原は日本軍の通過及び飛行場使用を認めるように迫りました。

現地の仏印当局はこれを拒否したので、松岡外相は駐日フランス大使アンリと交渉し、日本は仏印におけるフランスの主権の尊重、領土保全を約束し、フランスはハノイの飛行場の使用、兵力5000の駐留、軍隊の通過容認の協定が成立しました(松岡=アンリ協定)

ところが、「現地指導」と称して仏印に乗り込んだ永富少将はあくまでも武力進駐にこだわります。中国・仏印国境に待機していた第五師団は協定を無視して越境、侵入、6月23日から二日間、フランス軍と戦闘をおこなって武力進駐を強行しました。

外交も軍の意向も無視し、統帥部(参謀本部)が独走した例となります。実際、海軍はこの動きに憤激し、護衛艦を引き上げたので、陸軍は海上護衛無しで上陸をするという異常事態になっています。

「南進」については、軍が明らかに政府のコントロールを逸脱して展開していくことになっていきます。

 

仏印進駐はアメリカとイギリスが無効だ、と非難したどころか、日本軍も「ヴィシー政権」との条約を無視しておこなわれたものだったのです。

 

「『援蒋ルート』をつぶされたアメリカは、日本への敵意をあらわし…」(P381)と説明されていますが、これとほぼ同時に結ばれた日独伊三国同盟に対してだけにアメリカは「敵視」していたわけではありません。

1939年以降、日本への「経済制裁」は、1939年5~10月に陸軍航空部隊が実施した重慶への無差別爆撃にも理由があります。さらに9月から西尾大将を総司令官とする志那派遣軍を組織し、援蒋ルート遮断のための華南で南寧作戦を展開しています。

中国軍の反撃は激しく、さらに1940年5月~10月、再度の重慶無差別爆撃をおこないました。

二度の重慶への無差別爆撃は国際的な非難を浴びるようになり、これらが「特殊工作機械と石油製品の輸出を制限、さらに航空機用ガソリンと屑鉄の輸出を全面禁止する。」(P381)ということをまねいたのです。

 

「日本は必死で戦争回避の道を探るが、ルーズベルト政権には妥協するつもりはなかった。」(P382)

 

と説明されていますが、「戦争回避の道を探る」といっても、実際は日中戦争を早く終わらせようという焦りから戦争の拡大と無差別爆撃をおこない、ルーズベルト政権に「妥協するつもりはなかった」というより、日本側に日中戦争に関して「妥協するつもりがなかった」と言うべきかもしれません。