【165】「バスに乗り遅れるな」の説明が誤っている。
「両国軍はあっという間に撃破され、イギリス軍はヨーロッパ大陸から駆逐され、フランスは首都パリと国土の五分の三を占領された。それを見てイタリアもイギリス、フランスに宣戦布告した。」(P380)
イタリアが参戦したのは6月10日です。パリが占領され、フランスが降伏したのは6月14日です。ドイツとフランスが休戦協定を結んだのは21日。
「それを見て」イタリアがイギリスやフランスに参戦したのではありません。
「ドイツの破竹の進撃を見た日本陸軍内にも、『バスに乗り遅れるな』との声が上がり、新聞もそれを支持した。そして同年九月、近衛文麿内閣は『日独伊三国同盟』を締結した。朝日新聞は、これを一大慶事のように報じた。」(同上)
「バスに乗り遅れるな」という標語を、「ドイツの破竹の進撃」に乗り、ドイツと同盟を結ぶことを意味していると誤解されています。
1940年6月、近衛文麿は枢密院議長を辞任し、「新体制運動」というのを展開します。
これは、ナチスやイタリアのファシスト党にならって大衆組織を基盤とする「指導政党」をつくり、既成政党政治の打破、全国民の戦争協力への動員をめざす革新運動でした。これをみた立憲政友会、社会大衆党、立憲民政党らの政党、各団体が「バスに乗り遅れるな」を合い言葉に、解散して「新体制」に参加・合流していったのです。
陸軍が「バスに乗り遅れるな」とドイツとの同盟を進めた言葉ではありません。
(インターネット上(Wikipedia)でも三国同盟締結に向けての陸軍の動きを「バスに乗り遅れるな」と説明されていますが適切とはいえません。)
これを見た軍部は、近衛の首相就任に期待して米内内閣を退陣させました。
近衛は7月、陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣就任予定者と会談し、「欧州大戦介入」「ドイツ・イタリア・ソ連との連携」「積極的南方進出(南進)」を三つの内閣の方針とすることを定めて第二次近衛内閣が組閣されたのです。
「近衛文麿内閣は『日独伊三国同盟』を締結した。朝日新聞は、これを一大慶事のように報じた。しかしこの同盟は、実質的には日本に大きなメリットはなく、アメリカとの関係を決定的に悪くしただけの、実に愚かな同盟締結だったといわざるを得ない。もっともアメリカのルーズベルト民主党政権はこれ以前から、日本を敵視し、様々な圧力をかけていた。」(P380)
と説明されていますが、なぜ、アメリカが日本を「敵視」するようになったかの説明がありません。
日中戦争は泥沼化の様相を呈するようになったにもかかわらず、第一次近衛内閣は「国民政府を対手とせず」と声明し、さらに日中戦争の目的を「後付け」して日・満・華3連帯による「東亜新秩序」建設にあることを表明しました。
これは東アジアにおける自由貿易圏の確立をめざしていたアメリカ・イギリスを刺激してしまいました。
当然、日米間の貿易額はここから減少し始めていきます。
このタイミングでドイツが第一次近衛内閣に防共協定を強化し、イギリス・フランスを仮想敵国とすることを提案してきたのです。
日本とドイツの接近を受けて、1939年7月、日米通商航海条約の破棄を日本に通告し、翌年失効して軍需資材の入手が困難となったのです。
1939年9月に、ドイツのポーランド侵攻に始まった第二次世界大戦に対しては、阿部信行内閣も米内光政内閣もドイツとの軍事同盟には消極的で「欧州大戦不介入」の立場をとり続けていました。
一方、日中戦争はどんどん深刻化していて、必要とする資源・軍事物資は、台湾・朝鮮の植民地、満州国及び中国の占領地からなる「経済圏」(円ブロック)の中ではとうてい充足できる状態にありませんでした。この時点で、欧米およびその植民地からの輸入にたよらなくてはならないのが現実でした。
阿部・米内内閣が「欧州大戦不介入」をとっていたのは実に合理的で、ドイツと連携してしまえば、欧米との対立が明確になり、日中戦争を遂行するための「軍需物資」が得られなくなるからです。
ところが、ヨーロッパでのドイツの優勢をみて日本の陸軍を中心にドイツとの結びつきを強め、イギリスとアメリカとの戦争を「覚悟の上で」南方に進出し「大東亜共栄圏」の建設を図り、石油・ゴム・ボーキサイトなどの資源を得ようという主張が急激に高まることになったのです。
南方進出は、当然東南アジアなどに利権を持つ欧米との対立を深めます。かえって日本に対する経済封鎖を強めることになったのです。
日米、植民地に利権を持つ欧米、それぞれ大国のエゴの衝突・連携がアジア・太平洋での「戦争」をもたらしたのであって、アメリカの非のみを鳴らすのは一方的で全体を見失う説明です。
日独伊三国同盟の締結に対する新聞への批判も一面的です。
「これを一大慶事のように報じた」と説明されていますが、何より一大慶事であるかのように説明し、ドイツとの同盟を説いてきたのは軍部、近衛内閣と松岡外相でした。
ドイツとの連携は、アメリカとの対立を深める、ということを第一次近衛内閣のときに理解していたはずです。
ですから、阿部信行内閣も米内光政内閣も「欧州大戦不介入」をとり、欧米との対立からこれ以上の輸入が減らないようにしてきたのです。
それを軍部が、ドイツの優勢をみて、アメリカ・イギリスとの衝突覚悟で、方針を転換させ、第二次近衛文麿内閣を成立させたのです。
「『援蒋ルート』をつぶされたアメリカは、日本への敵意をあらわにし…」(P381)
と説明されていますが、ドイツと軍事同盟を結んで「敵意をあらわにし」たのは日本のほうだったことを忘れてはいけません。
日独伊三国軍事同盟が、アメリカとの対立が予想されていたのに、締結に持ち込まれた背景には、駐独大島大使と松岡外相の交渉およびその結果の不正確な政府への説明がありました。
「ドイツと同盟を結んでも参戦するか否かは秘密議定書で日本が選択できるということが担保できている」と御前会議や枢密院会議を説得、アメリカ・イギリスとの対決を避けたい海軍もそれでしぶしぶ賛成に回りました。
しかし、これは実はシュターマー特使が「私信」で松岡に伝えたことにすぎず、同盟締結を成立させるために松岡が「約束」としたものだったのです。
「ドイツとソ連の開戦は無い」「アメリカは日本との戦争にふみきらない」ということを松岡は説明していました。
(『虚妄の三国同盟 発掘日米開戦前夜の外交秘史』渡辺延志・岩波書店)
これらの誤った、「前途明るい」日独伊三国同盟であるというプロパガンダしていた政府や陸軍の情報操作に目をつぶり、マスコミの報道を一方的に批判するのは適切ではありません。