【161】佐藤賢了の「黙れ事件」を完全に誤解している。
「『支那事変』は確固たる目的がないままに行なわれた戦争であった。乱暴な言い方をすれば、中国人の度重なるテロ行為に、お灸をすえてやるという感じで戦闘行為に入ったものの、気が付けば全面的な戦いになっていたという計画性も戦略もない愚かなものだった。」(P375)
一部正しく一部誤りを含む説明です。
満州事変の柳条湖事件が関東軍参謀による計画的謀略でしたが、日中全面戦争の契機となった盧溝橋事件は非計画的・偶発的なものだったとは明確にいえます。
しかし、その背景となった根本的な事情には、「中国人の度重なるテロ行為に、お灸をすえてやるという感じ」のものではなく、日本が「華北分離・支配」の企図を明確に示して兵力を華北に動員しつつあったこと、中国が「抗日」への民族的統合が進み、
満州から華北へさらに侵略を進める動きを封じようとした相互の情報の接点が北京郊外にあった、という事実を忘れてはいけません。
「中国人の度重なるテロ行為」があったというならば、満州国建国以来の抵抗運動を各地で弾圧していた日本の動きも当然あったことも説明すべきですし、中国側の非人道的なふるまいを説明するならば、日本による平頂山事件のような一般人への虐殺行為にも言及しておかなくてはならないでしょう。
当時の日本軍は、中国を軽侮し、「一激で解決できる」(杉山陸軍大臣の言・『昭和天皇独白録』より)と安易に武力発動・拡大しました。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12445761012.html
盧溝橋事件の結果、中国全体で抗日の気運が高まり、上海・長江流域での抗日運動は日本側の予想を上回るものになりました。
7月29日に起こった通州事件は、この文脈で説明すべきで、日本の傀儡であった冀東防共政府の中国兵が、この抗日運動に連動して反乱を起こしました。
「…中国人部隊が、通州にある日本人居住地を襲い、女性や子供、老人や乳児を含む民間人二百三十三人を虐殺した事件である。」(P366)
「この事件を知らされた日本国民と軍部は激しく怒り、国内に反中意識が高まった。」(同上)
という説明は一面的で背景の説明がまったくありません。
その契機になったのは、抗日運動の激化におどろいた関東軍が飛行隊を出撃させて華北一帯を爆撃した際、冀東防共政府の兵舎を誤爆したことでした。
また、中国民衆は、通州でアヘンの密売がおこなわれていたことにも不満と憤激をおぼえていて、保安隊の反乱に乗じて通州への暴挙に出ました。
日本軍は、誤爆や通州でのアヘン売買には触れずに、この事件の残虐性を宣伝して、「反中」意識を高めることに利用しています(「通州事件」信夫清三郎『政治経済史学』297号)。
「支那事変が始まった翌年の昭和一三年(一九三八)には、『国家総動員法』が成立した。」(P375)
「ちなみにこの法案の審議中、趣旨説明をした佐藤賢了陸軍中佐のあまりに長い答弁に、衆議院議員たちから抗議の声が上がったが、佐藤は『黙れ!』と一喝した。議員たちの脳裏に二年前の二・二六事件が浮かんだことは容易に想像できる。佐藤の恫喝後、誰も異議を挟まなくなり、狂気の法案はあっという間に成立した。」(同上)
こんな誤りをどうして堂々と説明されているのか驚くばかりです。
通称「黙れ事件」を完全に誤認されています。
1938年3月3日の衆議院の委員会での出来事です。
政友会の板野友造議員が、法案に基本的に賛同しながらも、国民への理解を深めるために十分な説明を要する、というような内容を説いて、陸軍に説明を求めます。
これに応えたのが、当時軍務局軍務課国内班長であった佐藤賢了中佐でした。
「あまりに長い答弁に」とありますが、政府委員のような演説で答弁ではない、と委員長に発言を止めるように議員から声が上がったのですが、委員長はかまわず続けてください、と促しました。それで「止めろ」「続けろ」の野次が飛び始め、それに対して佐藤が「黙れ!」と発言したのです。
これに対して議場は騒然とします。
「黙れとは何だ!」と議員たちは猛反発。「佐藤の恫喝後、誰も異議を挟まなくなり…」という説明はまったくの誤りで、佐藤は「不適切発言」をその場でちゃんと取り消すことになります。
このままでは法案通過は難しいと考えた政府は、翌日の委員会には司法大臣・陸軍大臣に加え、近衛文麿首相や内務大臣、海軍大臣まで異例の総出で対応し、杉山陸軍大臣は昨日の佐藤の発言に遺憾の意をあらわし、異例の「陳謝」をしています。
「狂気の法案はあっという間に成立した。」と言われていますが、3月3日の「黙れ事件」後、陸軍の陳謝、説明、質問、討議が続けられ、3月16日にようやく委員会で可決され、本会議に上程されたのです。
なぜ百田氏がこのような誤解をされているのか、まったく不思議です。