【158】コミンテルンは1930年代に方針を転換し、「暗躍」はしていない。
『日本国紀』の中で、たびたび「コミンテルン」が出てきます。
コミンテルンは1919年3月、レーニンの主導で、モスクワで設立されました。いわゆる第3インターナショナルのことで、当初は「世界革命」をめざすものでした。
しかし、第一次世界大戦の敗戦国のハンガリーやドイツての革命はいずれも失敗で、アジアの民族運動支援も失敗します。
唯一、1919年のカラハン宣言によってソ連が好意的に民衆に受け入れられたことを背景に、中国での共産党結成に成功します。
しかし、「世界革命」への期待は薄れ、コミンテルンの存在・役割は大きな転機をむかえることになります。
レーニンが死に、スターリンが共産党書記長となると、「一国社会主義」に路線が変更され、コミンテルンの役割は、「ソ連国家」の擁護が主目的となり、スターリンの意向をそのまま反映する機関と変化していきました。
「コミンテルンは世界の国々すべてを共産主義国家に変えるという目的のもと…」(P365)
と説明されていますが、1930年代以降はコミンテルンは、この目的を事実上放棄しています。
日本の場合、日本共産党も、コミンテルン指導による武装闘争方針に失敗し、1933年には獄中にあった佐野学、鍋山貞親らが「転向」を表明しています。
日本共産党の方針であった天皇制打倒・帝国主義戦争反対、コミンテルン指導を批判し、一国社会主義の立場をとって「天皇制のもとの一国社会主義革命」「満州事変を国民解放戦争に導く必要性」を説くようになりました。
「そのため、活動の重要拠点を植民地や、中国大陸に移すという路線変更を行なっていた。」(P365)
という説明も誤りで、「世界革命論」を放棄して「一国社会主義」にうちり、ソ連国家を守るために、むしろ資本主義国との連携も視野に入れ、ファシズムに対抗していく、という選択肢をとるようにかわります。
これが「人民戦線」方式というもので、各国の共産党と中道政党とが手を組み、連立政権を立てるという方法です。
1935年にはフランスとソ連は相互援助条約を結び、翌年、社会党・急進社会党に共産党が協力してブルムを首班とする人民戦線内閣を成立させています。
同じ方法で、スペインでもアサーニャ人民戦線内閣が成立しました。
いわゆる、第2次国共合作は、この人民戦線方式に則ったもので、国民党と共産党が連立して日本のファシズムに対抗していく、という方針です。
「暗躍するコミンテルンと中国」(P365)で、説明されていますが、1930年代にはコミンテルンは「世界革命論」は放棄していて、「暗躍」や「陰謀」というよりも、明確に反ファシズムの「連携」に舵を切っています。