【157】中華民国とドイツの蜜月は対日敵視政策とあまり関係が無い。
P364で、「ドイツと中華民国の蜜月」という項があります。
「ドイツはまた、蔣介石の中国国民党による中華民国と手を結んでいた。当時、国際的に孤立していたドイツは、資源の安定供給を求めて中華民国ら接近し、武器を売る代わりに希少金属のタングステンを輸入していた。」(P364)
これは、いつの段階の話をされているんでしょうか。
「当時、国際的に孤立していたドイツ」と説明されていますが、シュトレーゼマンによるインフレの克服、国際協調路線で賠償金の緩和も実現し、1925年のロカルノ条約の調印を経て、1926年には国際連盟にも加盟しました。20年代後半以降、ドイツは国際的には孤立していません。
ナチスが政権をとった後の話とすると、1933年以降ということになります。
「昭和八年(一九三三)には、軍事・経済顧問を送り込んで中国軍を近代化させた。ドイツから派遣された元ドイツ参謀総長で軍事顧問のハンス・フォン・ゼークトは…」(P364)
と説明されていますが、ナチス=ドイツはこの段階では、東アジア政策については中立(消極的)に傾斜しはじめていて、「送り込んで」ではなく「蔣介石が依頼して」というべきです。「ドイツから派遣された」という説明も誤解をまねきます。蔣介石が「高額で雇った」と説明すべきです。
ドイツ外務省は、すでに日本との連携を企図していて(1936年には日独防共協定が成立)、ゼークトの中国行きをたしなめているのですが、蔣介石から高額の報酬を受けて、いわば彼は「個人的に」協力をしています。
「…ハンス・フォン・ゼークトは、蔣介石に『日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること。』と進言し、『今最も中国がやるべきは、中国軍兵に対して、日本への敵愾心を養うことだ』とも提案した。これを受けて蔣介石は対日敵視政策をとるようになる。」(P364)
と、ゼークトの進言であたかも蔣介石が「対日敵視政策」をとったように説明されていますが、これは誤りです。
蔣介石の日記がみつかっていて、1931年の満州事変を機に日本敵視政策をとることを決めています。国民党内の問題と共産党勢力一掃のために、対日政策を後回しにしていることがわかっていて、ゼークトの話とは無関係な既定路線です。
「昭和一〇年(一九三五)には、ゼークトの提案に基づき中華民国秘密警察は親日要人へのテロ事件を起こしている。」(P364)
と説明されていますが、この「秘密警察」は藍衣社のことだとは思うのですが、設立段階(1932年)から日本ファシズムに対抗するためにつくられ、「打倒日本帝国主義」「殺絶赤匪」をスローガンに掲げているので、とくにゼークトの提案に基づいたというわけでもありません。
ただ、基本的には蔣介石の提唱する「安内攘外」(共産党や反蔣介石勢力の掃討に力を入れ、日本と戦う準備期間を設ける)を優先としているので、テロの対象は、「親日要人」というより「反蔣勢力」でした(『結社が描く中国近現代』「政治テロの横行」菊池一隆・野口鐵郎編・山川出版)。
ドイツと中華民国との「提携」は34年頃からは希薄となっていて、P364でわざわざ「ドイツと中華民国の蜜月」と説明されている意図がよくわかりません。