『日本国紀』読書ノート(154) | こはにわ歴史堂のブログ

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154】五・一五事件の助命嘆願運動は、マスコミの報道だけが煽ったのではない。

 

「これは昭和恐慌による経済的苦境の中で、ロンドン海軍軍縮条約に不満を持った海軍軍縮条約に不満を持った海軍の急進派青年将校を中心とするクーデターで、首相官邸、内大臣官邸、立憲政友会本部、日本銀行、警視庁などを襲撃して、犬養毅首相を射殺した事件である。」(P361P362)

「この事件の背景には、世界恐慌による不景気が続き、農村の疲弊や政党政治への不満が民衆の中に充満していたこともあった。」(P362)

 

と説明されています。あれ? 変なこと言うなぁ、と思いました。

というのも、P350でこのように説明されているからです。

 

「政府は恐慌が脱出するために、金融緩和に踏み切るとともに積極的な歳出拡大をし、農村漁村経済更正運動を起こし、インドや東南アジアへと輸出を行ない、欧米諸国よりも早く景気回復を成し遂げた。」(P350)

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12444761232.html

 

この「政府」って、犬養毅内閣のことなんです。五・一五事件の背景の説明で「世界恐慌による不景気が続き」という説明は明らかに矛盾です。

「欧米諸国よりも早く景気回復を成し遂げた」という表面的な成果を誇示せず、「その裏で農村が疲弊していた」「利益は財閥や地主などに独占されていた」と実情を説明しておくべきだったとも思います。

 

「軍人が共謀して首相を殺害するなど許しがたい暴挙だが、それ以上に驚くのは、当時の新聞が犯人らの減刑を訴えたことだ。」(P361)

 

百田氏の感想ですから、べつにこう説明されてもかまいませんが、首相殺害という大事件よりも、新聞が犯人の減刑を訴えたことのほうが「それ以上に驚く」という説明にむしろ私などは驚きます。

「新聞が犯人の減刑をうったえたことには驚かされるが、軍人が共謀して首相を殺害するなどは許しがたい暴挙だ」と説明すべきではないでしょうか。

 

「この報道に煽られた国民の間で助命嘆願運動が巻き起こり、将校らへの量刑は異常に軽いものとなった。」(P361)

 

という説明は著しく不正確です。

まず、五・一五事件が勃発した段階で、完全な報道管制がしかれました。

国民の間に事件が知らされたのは5月17日になってからです。

発表は司法省・陸軍省・海軍省の3省で発表されました。

しかし、ここでの発表で荒木貞夫陸軍大臣は驚くべきことに犯行に一定の理解を示したのです。

 

「純真なる青年が、かくの如き挙措に出でた心情について涙なきを得ない。」

 

裁判も異様でした。犯行に及んだ士官候補生はもちろん軍籍を剥奪されていましたが、軍部は彼らに襟章の無い制服を新調し、海軍将校は真っ白な新しい軍服を着用していました。軍をあげて「義挙」であるかのような演出をしていたとしか言いようがありません。

犯人の一人中村海軍中尉の公判中には、戦闘機3機が公判廷上空を低空で飛行します。

被告らは「我らが捨て石とならば」を繰り返し、市原陸軍士官候補生は「対立政党の腐敗、財閥の利権独占、東北地方の不作を放置すれば、国家にとってこれより大なる危険はない」と強調、軍人である裁判官判士は公然と涙を流しています。

実は、各新聞はこの様子を記事にしていて、裁判官判士が「体を震わせて泣いていた」と描写しています。

これらの記事が国民の犯人に同情を招いたことは否定できないと思いますが、東西朝日新聞・新愛知新聞(現在の中日新聞)・福岡日日新聞(現在の西日本新聞)はいずれもかなり厳しく犯行を糾弾しています。

「それ以上に驚くのは、当時の新聞が犯人らの減刑を訴えたことだ。」(P361)

と説明されていますが、「犯人の減刑を訴えた」新聞はいったいどれだったのでしょうか。

「助命嘆願運動」が広がった背景に、愛郷塾の「農民決死隊」が事件に荷担していたことが大きいと思います。五・一五事件は、軍部だけでなく民間人も参加していて、新聞は軍の暴挙には攻撃的論調でしたが、民間人には同情的でした。

 

新聞報道によって助命嘆願運動の激化と犯行将校らへの量刑が軽くなったと説明し、それが二・二六事件の「後押し」となったと説明するのは、事件の全体像を歪めてしまうと思います。

むしろ軍部の犯行将校・候補生に対する同情的対応に、軍部内の急進的な国家改造への意思を感じます。