『日本国紀』読書ノート(153) | こはにわ歴史堂のブログ

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153】満州は中華民国の一部であり、リットン調査団の報告書の説明が一面的である。

 

P359P360にかけて、唐突に「満州は中華民国のものか」という問いかけから始まる説明が行われています。

これはどういう意図でこのようなことをおっしゃっているのでしょうか。

 

「『九ヵ国条約』は、中国(China)の門戸開放、機会均等、主権尊重の原則を包括したものだったが、実はこの条約におけるChinaに『満州』が含まれるかどうかについては曖昧なまま放置されていたのだ。」(P359)

 

と説明されていますが、根拠の無い独特な解釈です。

世界史における清末から中華民国の成立の過程を知っていれば、このような言説にはいたりません。

まず、孫文が191211日に南京で中華民国の建国を宣言しました。

この段階では、清帝国はまだ存在しています。清は袁世凱を起用して中華民国臨時政府と交渉させ、袁世凱は宣統帝溥儀と皇室の身分、生活保障の約束と引き換えにその退位を承諾するとともに、自らの臨時大総統就任、臨時約法(中華民国の制定した憲法ともいうべき基本法)の遵守、共和政の採用を約束します。

この時、さらに「清の版図の維持」と「五族協和」も約束しました。

その後、北京と南京の政府が合流し、袁世凱を首班とする中華民国が北京に成立しています。中華民国は、清が列強と締結した諸条約の継承を宣言し、1913年までに列強も中華民国を国際的に承認しています。

 

「南京に臨時政府を建てた孫文が、『中華民国は清朝の領土を引き継ぐ』と宣言した。ただし、これは孫文の一方的な宣言にすぎず、そもそも女真族の土地であった満州全土が、この宣言一つで中華民国の実効支配下に置かれたはずもなかった。」

 

と、説明されていますが、はい、そうですとしか言いようがありません。これは1912年の段階の話で、その清朝は宣統帝の退位で滅亡し、袁世凱の北京政府と、孫文の南京政府が合流し、事前の「約束」通り、袁世凱が孫文より臨時大総統の地位を宣統帝の退位と引き換えに譲り受けられました。

明確にに清帝国はその版図ごと中華民国に継承され、関係列国も清帝国時代の諸条約・利権をそのまま引き継ぐことと引き換えに中華民国を承認しました。

(そもそも百田氏も、冒頭に「関東軍主導のもと、満州は中華民国から分離され…」と説明されていて、満州が中華民国の一部であることは認識されていると思うのですが…)

 

「中華民国の体制は非常に弱く、その支配は限定的で、満州に限らず、広い版図の大半の地域に地方軍閥の割拠を許していた。」(P360)

 

という説明は、袁世凱の死後、後継争いが起こってからのことです。

 

満州は中華民国のものではないかのような言説は、当時も現在も否定されています。

よって「九ヵ国条約を盾に日本を非難し…」(P360)という説明は不適切で、「九ヵ国条約にもとづいて…」と説明すべきでした。

 

「この時、(リットン)調査団は『満州における日本の権益の正当性』や『満州に在住する日本人の権益を、中華民国が組織的に不法行為を含む行ないによって脅かしている』ことを認める報告書を出している。つまり満州事変には相応の発生事由があったと、国際的に見做されたことになる。」(P360)

 

と説明されていますが、これはあまりに一面的で一部の切り取りです。これだけの説明では不十分で誤解を与えかねません。

報告書は全部で10章あり、「満州に日本が持つ権益は認めるべき」であり、「国際社会や日本は中国を近代化できる」と述べられていて、「日本が武力を、中華民国が不買運動や挑発を行使していては平和は訪れない」と一部「日本への配慮」を示しつつ、「柳条湖事件及びその後の日本軍の行動は自衛的行為とはいえず」、「満州国は住民の自発的独立によって成立したものとはいえず」、「満州国の存在は日本軍が支えている」と結論付けています。

リットン調査団の報告書は、日本が主張した「自衛のための行動」「満州国は満州の人々による独立国家である」ということは明白に否定したものなのです。