【152】中国に対する幣原外交を誤解していて、満州事変の説明が表面的である。
「被害を受けた日本人居留民が領事館に訴えても、前述したように、時の日本政府は、第二次幣原外交の『善隣の誼を敦くするは刻下の一大急務に属す』(中国人と仲良くするのが何よりも大事)という対支外交方針を取っていたため、訴えを黙殺した。」(P357)
「それどころか幣原外務大臣は、『日本警官増強は日支対立を深め、ひいては日本の満蒙権益を損なう』という理由で、応援警官引き揚げを決定する。」(P357)
いずれも、当時の国家主義団体や右翼、一部マスコミの政府非難と同じような論調の説明で少し驚きました。
満州でのテロや日本人襲撃などの話が2000年に入ってからインターネット上の説明に増えるようになったのですが、いずれも当時の右翼団体や国家主義者などが喧伝していた内容の引用で、一次史料の裏付けのあるものは少なく、これらの言説をもとにした説明はどうしても一面的になります。
また、ここで「幣原喜重郎」という一人の政治家の名前をあげて非難しているところにも違和感をおぼえます。
なぜ、日本政府、という説明にしないのでしょうか。日本政府だけではなく、軍部もこの方針には同調していたのです。
というのも、この場合の「善隣の誼」とは、共産党及び国民党左派をのぞいた国民党政府に対する「誼」のことだからです。
当時の日本政府、および軍部の考え方は、日本や欧米に対するテロ・襲撃事件は国民党ではなく、国民党と列国を分離・対立させようとする「共産党勢力の工作」と考えていたからで、日英米仏伊5ヵ国と蔣介石との「協定」で「外国人の生命財産の保障」を約束させ、蔣介石に治安維持をさせる、という列国との共同歩調の枠組みの中での話でした。
1920年代、中国では主権と列強におさえられていた様々な権益を回収しようとする動きが活発になっていました。その大きな背景は1919年のソ連による「カラハン宣言」の影響が大きいのです。
ソ連は、ロシアが中国に持っていた権益を全面的に放棄する、と宣言しました。
以来、中国民衆はこのソ連の「態度」に共鳴し、「政権が変われば、前政権の条約は引き継ぐ必要は無い」という考え方が広がり、ソ連・共産党と連携しようという考え方が生まれていました。
孫文が、「連ソ・容共・扶助工農」を唱えたのもこれが背景にあります。
それを蔣介石が不服に思い、孫文死後、国民党内の主導権を握り、反共に転じていました。
英・仏・米は蔣介石を支援し、日本も最初は蔣介石を支援しようとしていましたが、関東軍による張作霖爆殺後、その子の張学良がしだいに日本の排斥に動き、満蒙の権益にこだわる日本への反発を強め、満鉄によって奪われていた権益を回収するために、満鉄に並行する鉄道を敷設していったのです。
「…張学良はこの後、満州に入植してきた日本人と朝鮮人の権利を侵害する様々な法律を作った。また父の張作霖が満鉄に並行して敷いた鉄道の運賃を異常に安くすることで満鉄を経営難に陥れた。」(P356)
と、満鉄の損害を一方的に説明されていますが、張学良政権の「排日」と国民党への歩み寄りは、反共・民族的利益回収で利害が一致したためで、とくに過度の排日は張作霖爆殺事件による日本側の敵対行動のいわば「自業自得」の側面もあったことを忘れてはいけません。
また、百田氏は「幣原外交」の対中融和的態度を非難されていますが、これも当時の国家主義団体や右翼勢力の言説とたいして内容が変わらず、当時の日本政府の方針を正確に説明していません。
若槻礼次郎内閣(外務大臣幣原喜重郎)も、実は「満蒙の権益」固守は賛同していて、立憲民政党の大会では「いかなる犠牲もかえりみず、完全として決起せねばならぬ」と演説していて、満蒙の権益を固守する考え方に立っていました。
「韓国併合により当時は『日本人』だった朝鮮人は、中国人を見下す横柄な態度をとっていたといわれ、中国人にしてみれば、長い間、自分たちの属国の民のような存在と思っていた朝鮮人が、自分たちよりもいい暮らしをしているのが我慢ならなかったと考えられる。」(P358)
と説明されていますが、「~いわれ」「~と考えられる」とあるように、いずれも百田氏の推測にすぎません。
韓国併合を言外に正当化するような説明をふまえ、「朝鮮人が中国人を見下す横柄な態度をとっていた」、「自分たちよりも(朝鮮人が)いい暮らしをしているのが我慢ならなかった」ということが示されている一次史料を見たことがありません。
どのような根拠でこう説明されているのかちょっとわかりません。
逆に、1910年~1931年にかけての朝鮮人入植者の実態について説明した論文・研究はたくさんあります。
一般にこの時期の朝鮮人移民に関しては二段階で説明します。
第一段階は1910年の韓国併合直後から満州へ移動した人々、第二段階は1919年の「三・一独立運動」以後に満州に移動した人々です。
弾圧・支配の抵抗としての移民(逃亡)のほかに、韓国併合にともなう日本の「土地調査事業」と「産米増産計画」などの植民地政策が由来の移民がありました。
調査事業によって土地を失い、農民たちの貧困化が進みました。
1918年の米騒動をきっかけに、日本は朝鮮での米の増産計画を進め、そのための土地改良・整理を進めます。これを契機に朝鮮半島のモノカルチュア化が進み、地主による土地集積が進みました。とくに日本政府がとった、日本人が朝鮮に移住し、朝鮮人が満州に移住する、という「換位政策」が移民を後押ししています。
これらの移民は、土地を失い、生活の糧を求めての移民でしたので「いい暮らし」をしていたとはとてもいえない状況でした。
「中国人から執拗な嫌がらせを受けていた朝鮮人入植者は、日本政府に対して『日本名を名乗らせてほしい』と訴える。最初は日本名を名乗ることを許さなかった統監府も、やがて黙認する形で認めることとなる。」(P358)
という説明も違和感をおぼえます。
というのも、「創氏改名」の研究も現在ではかなり進んでいて、設定創氏(届け出による氏の設定)の比率は、朝鮮80%、日本国内15%、満州は20%弱なのです。
満州での朝鮮人の改名率は圧倒的に少ないのが実際でした。百田氏は、どういう根拠でこれを説明されているのかよくわかりません。
『日本帝国をめぐる人口移動の国際社会学』(蘭信三編・不二出版)
『新訂増補・朝鮮を知る事典』(平凡社)
『朝鮮における産米増殖計画』(河合和男・未来社)
『植民地朝鮮の日本人』(高崎宗司・岩波書店)
ちなみに「最初は日本名を名乗ることを許さなかった統監府も、やがて黙認する形で認めることとなる。」とされていますが、「統監府」ではなく「総督府」の誤りではないでしょうか。
「日本政府の無為無策では南満州鉄道や入植者を守れないと判断した関東軍は、昭和六年(一九三一)九月、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の仕業であるとして、満州の治安を守るという名目で軍事行動を起こした。」(P358)
と説明されていますが、これでは関東軍の謀略が、あたかも政府の無為無策にかわって、満鉄や入植者を守るための軍事行動であったと言わんばかりです。
他の説明でもそうですが、当時の国家主義者や右翼団体の主張や、政府・軍部の秘密主義から正しい情報を知らずに排外主義をあおった当時のマスコミの論調とよく似た説明で、満州事変の本質的説明になっていません。
そもそも、満蒙問題の解決とそのための軍事行動の計画は、張作霖・張学良の排日政策以前から計画されていたことです。
1827年には、木曜会が結成され、翌年には、帝国自存のために満蒙に独立した政治権力を樹立する(『現代史資料7・満州事変』(みすず書房))、ということを決定しています。満鉄の権益維持や入植者保護は、この目的実現のための「口実」として利用したにすぎません。
『消えた帝国 満州』(山口重次・毎日新聞社)
『浜口雄幸と永田鉄山』(川田稔・講談社選書メチエ)
『満州事変と政党政治』(同上)
『政党内閣の崩壊と満州事変1918-1932』(小林道彦・ミネルヴァ書房)