『日本国紀』読書ノート(149) | こはにわ歴史堂のブログ

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149】張作霖爆殺事件には諸説は無く、事件の首謀者は関東軍参謀である。

 

関東大震災後の話と、前の話を混同されていましたが、関東大震災後、第二次護憲運動の話は無く、治安維持法の制定についても触れられていませんでした。

 

「昭和の前半は日本にとって暗く陰鬱な時代となるが、その兆候はすぐに現れる。」(P350)

 

と説明され、昭和四年(1929)の世界恐慌の話に入られています。

実は、1927年の「金融恐慌」の話が出てきません。

加藤高明内閣の後、憲政会総裁となった若槻礼次郎が内閣を組織しますが、関東大震災で決済不能となっていた手形(「震災手形」)の処理の審議中、大蔵大臣の不用意な発言から取り付け騒ぎが起こり、金融恐慌が起こってしまいました。

若槻は、緊急勅令によって不良債権を抱えていた台湾銀行を救済しようとしましたが、対外政策に「協調的」な若槻内閣を嫌った枢密院の了承が得られず、総辞職することになってしまいました。

そして、その後をうけたのが政友会総裁で陸軍出身の田中義一でした。

『日本国紀』は、「昭和」「統帥権干犯問題」「満州事変」の中の記述が、時系列に沿って説明されていないので、時系列を整えて以下、説明します。

 

田中内閣は、緊急勅令を得て支払い猶予を実施し、日本銀行から多額の融資を引き出して金融恐慌をしずめました。

このころ、中国では国民党の蔣介石が、国民革命軍を率いて中国を統一しようと「北伐」を開始していました。田中内閣は、外交官・軍人を集めた「東方会議」を開催して満州における日本の権益を、武力を用いてでも守ることを決定します。

袁世凱の後をついだ段祺瑞に、すでに多額の借款を与えて影響力を華北・満州に日本は及ぼしていましたが、段祺瑞の後、後継をめぐる軍閥の争いが起こります。日本は張作霖を支援しました。

こうして国民党との戦いなどを通じて他軍閥が倒れていく中で、とうとう張作霖が北京政府の実権を握ります。

ところが、このころからイギリスやフランス、とくにアメリカなどが張作霖に接近するようになったのです。日本から離れて、とくにアメリカの支援を受けるようになり、南満州鉄道に対抗して、平行線の建設に着手し始めました。

また、日本は、蔣介石の「北伐」に対抗するため、三度にわたって「山東出兵」をおこない、第二次出兵に際しては国民党軍と戦闘をおこなっています。

こういう武力をともなう日本の派兵は、まったく説明されていません。

このころ、満州及び関東州で力を持っていたのが関東軍です。

もともと1919年に関東都督府が関東庁に改組されたとき、遼東半島租借地と南満州鉄道及びその沿線を守備する陸軍部が関東軍として独立し、大陸進出の急先鋒となっていました。

張作霖が国民党軍の戦いで敗れると、この関東軍の中で、張作霖を排除して満州を直接支配する計画が台頭するようになったのです。

 

「もとは馬賊」「権謀術数に長けた」「徴収した金をすべて自分のものとしていた」とし、「物資の買い占め、紙幣の乱発、増税など」の行為をしていたと強調されて、「張作霖爆殺事件はそんな状況下で起こった。」(P355)

 

と説明されています。これではまるで、張作霖が悪行を重ねていたため、爆殺されても仕方がなかったと言わんばかりの印象を与えてしまいます。

もともと張作霖はロシアと手を組んで諜報活動をしていたところ日本軍に捕らわれ、処刑されかけた人物です。しかし、参謀次長だった児玉源太郎が張作霖を利用することを考え、処刑せずに今度は日本側のスパイとしたのです。その時の連絡役が、当時、陸軍少佐だった田中義一でしたからおもしろいところです。

日本軍との癒着は日露戦争以来で、満州の実力者となってからも深い関係にありましたが、アメリカ・イギリス・フランスに接近して、もともとの中国の利権を回収しようとしたため、関東軍は独断で張作霖排除に動いたのです。

『馬賊の「満州」張作霖と近代中国』(澁谷由里・講談社学術文庫)

『張作霖爆殺 昭和天皇の統帥』  (大江志乃夫・中公新書)

 

「事件の首謀者は関東軍参謀といわれているが、これには諸説あって決定的な証拠は今もってない。」(P355)

 

と説明されていますが、まったくの誤りです。

事件の首謀者は関東軍参謀「といわれている」ものではなく、事件の首謀者は関東軍参謀河本大作であることはわかっています。

このことは諸説があるものではありません。

「諸説ある」というのは、歴史学上の議論となっていることで、『歴史学研究』や『史学雑誌』などでこれに異論を提唱している歴史学者は一人もいません。

あたかも歴史学上、諸説あるかのように説明するのは避けるべきでした。

 

そもそもこの事件は昭和天皇も知るところとなり、元老西園寺公望は真相の公表と厳重処分の意向を田中義一に伝えています。

爆破方法の詳細もすでに判明していて、調査におもむいた国会議員も、爆破に使用された電線などが日本軍の監視所から引かれている事実も明白となり、弁解不能という感想も残しています(『三代回顧録』松村謙三・東洋経済新報社)

爆破にかかわった軍人のヒアリングもおこなわれていて、書簡「奉天に於ける爆発事件の真相」として鉄道大臣にも伝えられ、田中首相・小川鉄道相らを中心に「特別調査委員会」も設けられています。

斎藤関東軍参謀長も、河本大作による陰謀であることは明確で、残りの調査はどのような方法をとったかの調査であったことを「張作霖列車爆破事件に関する所見」で示しています。

しかし、閣僚や陸軍から反対されたため、首謀者の河本大作を停職にしただけの処分としました。田中義一のこの事件への対応に昭和天皇は不満を示され、田中内閣は総辞職することになったのです(『西園寺公と政局』第一巻・原田熊雄・岩波書店)