『日本国紀』読書ノート(147) | こはにわ歴史堂のブログ

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147】明治時代から大正時代にかけての社会問題にまったく触れられていない。

 

「日本で最初の本格的な政党内閣を作った原敬は爵位を持たない最初の総理大臣になった(そのため平民宰相)と呼ばれた。」(P347)

 

原敬内閣の成立がたったこれだけです。

第一次世界大戦が始まると、造船・化学などの工業が発達、生糸・綿糸の輸出も大幅に伸張し、空前の好景気を迎えました。

しかし、多くの利益は後の財閥となる企業に吸収され、大部分の労働者への利益還元は滞り、物価高が人々の生活にのしかかりました。

農業も寄生地主制の影響で生産は停滞し、寺内正毅内閣のシベリア出兵を見越した投機的な米を中心とする農産物の買い占めが起こり、物価高にさらに追い打ちをかけていました。

これを背景に富山県を出発点として米騒動が全国に広がり、軍隊まで出動させて鎮圧したものの、寺内内閣は引責辞任せざるをえませんでした。

こうして立憲政友会を中心とする原敬の本格的政党内閣が始まったのです。

 

しかし、この内閣も、1920年に始まる戦後恐慌で、財政的にゆきづまり、また党員の関係する汚職事件も続出しました。政党政治に憤激した一青年により東京駅で原敬が暗殺され、かわって高橋是清が政友会総裁となりましたが、政権内の対立から短命に終わります。

さて、このころ、労働運動も活発になり、友愛会は1919年、大日本労働総同盟友愛会となり、翌年には日本最初のメーデーも実施されました。

しかし、戦後恐慌の影響もあり、労働争議が頻発し、1921年には日本労働総同盟が結成されました。

それまでの労使協調路線から階級闘争路線に変化することになりました。

農村でも小作料引き下げをもとめる小作争議も頻発し、1922年には日本農民組合が結成されました。

後の財閥となる一部企業への利益集中、寄生地主制による小作と地主の貧富の差の拡大など、1920年代はこれらの矛盾が表面化した時代でした。

また、ロシア革命の影響を受けて社会主義運動が高まりました。

1922年には堺利彦や山川均らによって日本共産党がコミンテルンの日本支部として非合法に結成されました。

1920年には、婦人参政権の実現をめざす新婦人協会が平塚らいてう、市川房枝らによって組織されました。

また、被差別部落の住民たちへの社会的差別を自主的に撤廃しようとする運動も本格化して全国水平社ができました。

 

『日本国紀』で語られる歴史は、「誰か」の歴史ではありますが、日本の人口の八割以上を占める「人々」の歴史の説明は圧倒的に希薄です。

社会や経済の動きの説明無く歴史の説明をすることには無理があります。

 

「大正一四年(一九二五)には、普通選挙法ができた。これにより納税額による制限が撤廃され、満二十五歳以上の男性は全員参政権を持った(ただし女性には参政権は与えられなかった)。」(P347)

 

と説明されていますが、これも先に説明した労働運動、小作争議、社会主義の広がり、婦人参政権運動などに触れておけば、普通選挙がなぜ実現したかもわかりやすかったはずです。

また、普通選挙法と同時に制定された、治安維持法の説明が皆無です。

無産政党を非合法化し、後に強化されて言論を弾圧するこの法律に触れていないのは問題です。

また、シベリア出兵などロシア革命に干渉していた日本でしたが、同じ年に日ソ基本条約を締結し、日本はソビエト連邦を承認しました。この説明が無いのも不思議です。

 

「明治維新からひたすら富国強兵に励んできた日本であったが、大正時代になってようやく国民が娯楽や愉しみを享受できるようになった。」(P348)

 

と説明されていますが、大戦後の恐慌を受けて、娯楽や愉しみを享受できたのは都市の一部の市民たちだけでした。

大企業と中小企業、都市と農村との間の格差が開いたのもこの時期です。

「二重構造」と説明されるようになり、この解決が政治課題となっていました。

個人の消費は増大し、いわゆる大衆消費社会が生まれたともいえますが、農家や都市労働者の生活水準は低く、大企業で働く人との差が大きく開きました。