【146】ワシントン会議における日英同盟の説明が誤っている。
「大正一〇年(一九二一)から翌年にかけて、アメリカでワシントン会議が開かれた。参加国はアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中華民国で、これほど大きな国際会議が開かれたのは初めてのことだった。」(P345)
と、説明されていますが、少し意味がわかりません。
直近のパリ講和会議は三十ヵ国以上が参加しています。なぜ、「これほど大きな国際会議が開かれたのは初めて」とおっしゃっているんでしょうか…
「議題は、列強が再び第一次世界大戦のような悲惨な戦争を繰り返さないための軍縮だった。」(P345)
と説明されていますが、このような説明は誤解をまねきます。
まず、この会議は国際連盟が承認していない会議です。
集まった国々は、太平洋と東アジアに権益がある国のみです。
「第一次世界大戦のような悲惨な戦争」を回避するならば、陸軍の軍縮を話し合うべきで、国際連盟は承認せず、陸軍の軍縮は話し合われず、東アジア・太平洋に利権のある国だけが集まる会議でした。
ということで、「議題」は次の三つです。
「太平洋問題の調整」「中国問題の解決」「軍縮」
ヴェルサイユ条約によって南洋諸島・マーシャル諸島の委任統治権を得た日本は太平洋に利権を得ました。これはフィリピン・ハワイに利権を持つアメリカとの「対立」をまねく可能性がありました。アメリカなど列強は多国間条約によって太平洋の安定を図ろうと利害の調整を進めようとしました。
山東半島の権益はヴェルサイユ条約によって日本に帰属することが明記されています。
しかし、中国では反対運動が激化していました。山東問題だけでなく、中国をめぐっての列強の対立が国際的な安定を揺るがすことを回避しようとしました。
第一次世界大戦で参加国の経済は低迷し、日本も大戦中こそ好景気でしたが戦後は恐慌に陥りました。しかし、軍備だけはどこの国も維持したままで、財政を圧迫していました。戦後の経済的不安定を解決するために各国とも軍縮が必須でしたが、軍縮は一国ではできません。多国間で行おうと考えました。
さて、
「この会議で『中国の領土保全』『門戸開放・機会均等』が成文化される(九ヵ国条約)。つまり列強も現状以上の中国への侵略を控え、ビジネス的な進出に切り替えようというものだった。これには中国大陸進出に出遅れたアメリカの意向が色濃く反映されていた。」(P346)
そして「日英同盟」の破棄に言及し、
「この同盟の破棄を強引に主導したのはアメリカだった。中国大陸の市場に乗り込もうと考えていたアメリカは、日本とイギリスの分断を目論んだのだ。」(P346)
という史料に基づかない推論を断言されています。
『近現代日本経済史要覧』には、中国に対する列強の投資費が示されています。
【1914年】
イギリス 38%
ロシア 17%
ドイツ 16%
日本 13%
フランス 11%
アメリカ3%
【1931年】
イギリス37%
日本 35%
ソ連 8%
フランス6%
アメリカ6%
ドイツ 3%
あたかもアメリカの経済進出のために日本の進出をおさえようとしていたかのような説明をされていますが、実際は圧倒的にイギリスと日本の投資額が増えて、中国における非軍事的な経済的進出はイギリス・日本の独占といっても過言ではありません。
九ヵ国条約の経済的恩恵はあきらか日本とイギリスが得ました。
そもそも、二十一ヵ条要求後の第一次世界大戦中の日本の大陸への進出と、それを列強に認めさせていく過程が、ご存知ないのか意図的なのか、まったく説明されていません。
1916年には第4次日露協約を締結し、極東における日露の特殊権益を相互承認しました。
大隈内閣の後の寺内正毅内閣では、袁世凱の後継者となった段祺瑞に対して巨額の経済借款を与え(西原借款)、段祺瑞政権を通じて日本の権益の浸透を図っています。
また、イギリスの地中海派兵要求との取引では、山東半島の権益と南洋諸島の権益をイギリス・フランスに認めさせています。
日本の中国進出を警戒していたアメリカとも1917年、石井=ランシング協定を結び、中国の領土保全と門戸開放、地理的な近接性ゆえに日本は中国に特殊権益がある、認めさせています。
さらにはロシア革命に干渉するシベリア出兵も1918年から開始し、大戦終了後も、他列強が撤兵したにもかかわらず、1922年まで日本は撤兵をしていません。
アメリカがどうこう、と百田氏は説明していますが、そんな問題ではなく、アジア及び太平洋の「平和と安定」の鍵は日本が握っているのは明白です。
第四次日露協約、英仏との秘密協定による山東省・南洋諸島進出、石井=ランシング協定、シベリア出兵の話がまったく出てきていません。
ワシントン会議の九ヵ国条約は、この石井=ランシング協定の破棄であったことにもまったく触れられていません。
さらに日英同盟の破棄に関する説明が著しく誤認されていて不正確です。
「日本とイギリスの分断を目論んだのだ。」
「そしてもう一つ、いずれ日本と戦うためにも、イギリスとは切り離しておきたいという意図もあった。」(P346)
そもそも日英同盟は、「アメリカを交戦国の対象から外す」と明記されている同盟です。すでに1911年の段階で、アメリカも交えてこれは確認されていて、ワシントン会議で突如言い出した話などではありません。
「イギリスは同盟の破棄を望んでいなかったが、日本の全権大使、幣原喜重郎は『四ヵ国条約』を締結すれば国際平和につながるだろうと安易に考え、これを呑んで、日英同盟を破棄してしまった。」
「日英同盟こそは日本の安全保障の要であり、日露戦争に勝利できたのも、この同盟があったればこそである。しかし幣原は、その重要性も、また変化する国際情勢における日本の立ち位置やアメリカの思惑も、まったく理解していなかった。」(P346)
と説明されていますが、まったくの事実誤認です。
日英同盟は二回の更新をへて、1923年に失効しました。
締結は1902年で、次に1905年、そして1911年に更新されています。
第二次同盟では、日英同盟の範囲をインドにまで拡大することと引き換えに日本は韓国を保護国化する承認を得ました。
第三次同盟ではアメリカが交戦国の対象外になります。
ところが、辛亥革命をきっかけに東アジア情勢をめぐる日英の「温度差」が出てくるようになりました。辛亥革命に対して、日本とイギリスの考え方が対立し、イギリスは孫文と清国の仲介を図るようになりました。
このあたりから、双方、日英同盟の重要性が低下するようになり、両国の東アジアにおける行動の制約になりつつありました。(『日露戦争と新聞-「世界の中の日本をどう報じたか」』片山慶隆・講談社選書メチエ)
日英両国の対立は、パリ講和会議での「人種差別撤廃提案」をめぐる問題で決定的となりました。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12443302398.html
百田氏は、これをアメリカとの対立であるかのように説明してしまって、ほんとうはイギリスが激しく反対したことにまったく言及されていませんでした。
1921年には、日英同盟がそもそも国際連盟規約に抵触するのではないか、という議論も起こり、日本でもイギリスでも、日英同盟の廃止が望まれていたのです。
「イギリスは日英同盟の破棄を望んでいなかった」という説明は適切ではありません。
もちろんイギリス外相バルフォアは、四ヵ国条約締結に際して「日英同盟を存続すればアメリカに誤解され、破棄すれば日本に誤解される」と述懐しています(『裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記』(波多野勝・草思社))が、日英同盟の存続を願っての発言ではなく、外交上の調整の難しさを嘆く発言です。
幣原喜重郎は「変化する国際情勢における立ち位置」を「まったく理解していなかった」のではなく、変化する国際情勢に合わせて、制度疲労していた日英同盟を四ヵ国条約へと発展解消してのです。
「日英同盟が破棄されたことで、日本は後にアメリカと戦う時には単独で対峙しなければならなくなった。これこそアメリカが望んでいたことだったのだ。」(P345~P346)
という説明にいたっては意味がよくわかりません。
アメリカと戦う時は、イギリスに対しても同時に宣戦布告しています。真珠湾の攻撃と同時にマレー半島にも上陸しています。
当初の戦争目的になかった後付けの「植民地の解放」などはあきらかに東南アジアのイギリスを対象としているわけで、日本のアジア・太平洋への進出過程において、日英同盟はしかるべくして失効したのです。
二十一ヵ条要求の説明のときには、外務大臣加藤高明の名前すら出てこなかったのに、突如、ここでは幣原喜重郎を登場させて非難しているのも不可解です。
複雑な国際情勢をふまえず、幣原一個人の考えで1920年代の外交が展開したかのように説明するのはたいへん不適切だと思います。