『日本国紀』読書ノート(145) | こはにわ歴史堂のブログ

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145】二十一ヵ条要求の説明が一面的である。

 

「…袁世凱の中華民国政府に対して、ドイツが山東省に持っていた権益を譲ることなどを含む『二十一ヵ条要求』を出す。それは一部の希望条件を除き、当時の国際情勢において、ごく普通の要求だった。しかも最初は日本と中華民国双方納得の上での話だったものを中華民国側から『要求という形にしてほしい。やむなく調印したという形にしたい』という申し出があったので、日本側は敢えて『要求』という形にした。」(P344)

 

一部のホントの話を紹介してそれが全体であるかのように語る、というのはウソと誇張と同じとは言いませんが、不正確な説明と同じです。

 

「これは日本の外相だけでなく、中国に詳しいアメリカ外交官のラルフ・タウンゼントも認めていることであり、また孫文も『二十一ヵ条要求は、袁世凱自身によって起草され、『要求』された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である』と言っている。」

 

と続けて説明されています。

 

これではまるで、日中双方納得して結んだ「条約」だったのに、袁世凱が自分の立場が悪くなるから「要求」という形にしてほしい、と日本にお願いして、おひとよしの日本が「じゃあそれでいいです」ということにしたものが「二十一ヵ条の要求」だった、みたいな印象を与えてしまいます。

 

まったく違います。

(二十一ヵ条の要求、は第一号から第五号まであり、第一号、第二号に複数の条項があり、それらを合計して二十一ヵ条としているものです。)

 

まず、「当時の国際情勢において、ごく普通の要求だった」という「当時の国際情勢」に、実は日本が乗り遅れていて、ここでいう「当時の国際情勢」は1900年代の話なんです。「普通の要求」が、この段階ではもう「前時代」の国際常識になりつつ時代であった、ということを忘れてはいけません。

中国の領土保全、という国際合意は、第一次世界大戦後の九ヵ国条約で成立しますが、実は第一次世界大戦が始まった段階で、「中国の領土保全」はイギリスやフランス、ロシア、そしてアメリカも合意していたことでした。

このことは日本も承認しないと、「国際常識」に乗り遅れます。

ですから、これが第四号「中国の領土保全のための約定」に示されています。

 

日本は少し焦っていました。中華民国政府が成立した後、清国の時代に得ていた利権をそのまま引き継ぐ必要があります。その外交的手続きを日本は第一次世界大戦が始まるまでに完了できていなかったのです。

改めて「日露戦争で得た権益」を確実に継承することを確認する必要がありました。

とくにこのままだと旅順・大連の租借期間は、1923年に満了してしまうのです。

ですから、「二十一ヵ条要求」のうちの第二号「南満東蒙での日本の地位明確化」というのは、ちょっと時代遅れになりつつありましたが、いちはやく出して中国に承認させなくてはならない「当時の国際情勢において、ごく普通の要求だった」のです。

 

第四号はまったく問題なし、第二号も、これだけならば、実は、すんなり通っていた話で、何も無理な要求ではありませんでした。

ところが、第一次世界大戦が始まり、日本はさらなる権益を得るチャンスを得ることになり、ドイツの山東半島を軍事的に占領することに成功しました。

しかし、山東半島の利権はドイツと中国の間で成立している「契約」ですから、日本がドイツの租借地を占領したからといって、日本のものにそのまま利権がスライドされるわけではありません。講和条約で敗戦国のドイツに中国が返還要求すれば中国に返還されます。利権の他国譲渡は、「租借」契約では禁止されていることですから、山東半島への攻撃と同時に、中華民国政府と利権獲得の交渉をしなくてはなりませんでした。

これが第一号「山東半島処分に関する条約」の内容です。

 

ここで日本政府は「不思議な動き」をします。

青島のドイツ軍に対して宣戦布告したのが823日。ところが外務大臣の加藤高明は日置駐中公使の再三の要求にもかかわらず交渉を始めませんでした。

青島を占領したのが117日。そして11日になってようやく閣議を開きます。

18日になってから日置公使にようやく「交渉ヲ開始セラレ差支ヘナシ」と発令されます。

 

さっさと「第二号」の交渉を第一次世界大戦前に始めていればよかったのに、国際情勢が変化したため「第四号」を入れなくてはならなくなり、第一次世界大戦が始まってドイツに宣戦するなら、早くに「第一号」の交渉をしなくてはいけなかったのに、なかなか交渉指示を出さない…

 

なぜ、加藤高明は、「第一号」の交渉を遅らせたのか…

もう、この話をすると、ああ、そーゆーことね、て、なっちゃうんですが…

加藤高明は、立憲同志会の政治家です。

実は、1225日に衆議院の解散・総選挙が始まっていたんです。

一号・二号・四号をまとめて示して政府の強気の外交成果を示して、選挙を有利に進めるという「選挙戦略」に外交を用いたんです。

 

「外交」を「政治」に利用すると必ず国益が損なわれます。

しかも、「第一号」の交渉をドイツ宣戦前から始めていなかったことが、さらに「要求」を拡大してしまうハメになりました。

それは軍部の介入をまねいたのです。

山東半島の軍事占領、という成果をもって、中国に対する要求を高めるように求め始めました。

参謀本部の明石元二郎次長は1915129日付けの寺内総督宛書簡で、

 

「ワガ提議ハ十分強硬ニコレヲ貫徹スル必要コレアルベク、モシソレワガ要求ニシテ容レラレズバ、断乎トシテ教師団ヲ燕京ノ城郭ニ進メ候コトハ数ヶ月ヲ待タズシテ解決イタスベク」

と記しています。

兵力を用いてでも要求を貫徹することを主張しているのは明白です。

とても「日本と中華民国双方納得の上での話だった」という「交渉過程」ではなかったことがわかります。

実際、海軍は艦隊を派遣していますし、陸軍はこの時期に合わせて満州駐屯軍の交代を名目に軍を動かしています。

 

さらに123日、日置公使は加藤外務大臣に、交渉の意見書に「懸引上引誘条件」を記していて、それによると、

 

一、膠州湾の還付

二、袁世凱大総統の地位及び政府の安全の保証

三、日本国内及び日本法権下の国民党など留学生、不謹慎な日本商人取締の厳重励行

四、袁大総統及び閣僚の叙勲

五、税率改定の提議についての同意条件

 

を示し、「山東出征中の軍隊による威力」もあわせて説いています。

 

袁世凱の大総統としての地位保証、というのは日本政府側から求めていたことがわかります。「二十一ヵ条要求は、袁世凱自身によって起草され、『要求』された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である。」という孫文の言葉は、交渉の舞台裏を知らないゆえの推測にすぎません(袁世凱と対立し、日本政府にも革命分子と考えられていた孫文が知らないのはあたりまえ)

 

第二号の交渉が遅れ、第一号の要求は、軍部のさらなる強硬案をもたらし、そして第五号を付け加えなくてはならなくなりました。

第五号は、「その他」ですが、中央政府に日本の政治財政軍事顧問を招聘する、中国内の日本の病院・寺院・学校に土地所有を認める、さらには中国南部の鉄道敷設権、などを求めています。

これは「領土保全」の第四号に矛盾しますし、当然、イギリスやフランス、アメリカに知られると困ります。

ですからこれを袁世凱には、他国には秘密として付記したのです。

 

「この『要求』の経緯は外部には漏らさないという密約として交わされた条約だったが、袁世凱はそれを破って公にし、国内外に向かって、日本の横暴を訴えた。」(P344)

 

と説明されていますが、これも不正確です。

「この要求」とは、第五号だけの話です。

第一号から第四号までは、すでにイギリスやフランス、アメリカにも伝えているんです。袁世凱が暴露したのは秘密条項の「第五号」です。

ですから、

 

「欧米列強は条約の裏事情を知りながら、日本を糾弾した。」(P345)

 

という説明も誤りです。「裏事情を知りながら」ではなく「第五号を知らなかった」ので「糾弾した」のです。第一号から第四号は聞いているが、第五号なんて知らないぞ、と、不信感を表明しました。

加藤外務大臣は210日、駐英公使に「第五号は希望にしかすぎません」と弁明していますが、加藤は第五号を取り下げず、そのまま袁世凱に認めさせています(後には撤回されます)

しかし、イギリスとフランスはちゃんと承認しています。アメリカだけが「不承認」を発表しました。

 

「第二号」の要求はもっと早くに確認すべきもの。

「第四号」は諸外国を納得させるために「中国の領土保全」を認めたもの。

「第一号」はほんとうならば、ドイツに宣戦する前から交渉すべきこと。

それを延期したため、軍部の要求が高くなってしまって「第五号」を入れなくてはならなくなったこと。

そして「対外強硬論」で「強い政治家」を演出し、総選挙を利用して、本来ならば別々に示して交渉すべきことをまとめて「要求」してしまったこと。

「第一号」から「第四号」も各国は認知していたのに、秘密のはずの「第五号」を袁世凱に暴露されてしまったこと。

よって弁解のために「袁世凱から求められたこと」で、「第五号は希望にすぎない」と弁解したこと。

 

これが「二十一ヵ条の要求」の実態でした。

現在の研究では、事細かくここまでちゃんとわかっていて、他国の外交官や政治家が「推測」ではない「史料」がしっかり残しています。すでに十分議論されていることをふまえて説明がされてきています。

 

『加藤高明』(櫻井良樹・ミネルヴァ書房)

『日本歴史』日本歴史学会144号「対華二十一ヶ条要求条項の決定とその背景」(長岡新次郎)

『史林』573号「参戦・二一ヵ条要求と陸軍」(山本四郎)

『対華二十一ヵ条要求とは何だったのか』(奈良岡聰智・名古屋大学出版会)

「対華二十一ヵ条要求-加藤高明の外交指導」(島田洋一)

(※島田洋一論文は、ご本人がブログで公開されています。)

 

「現代でも『二十一ヵ条要求』は日本の非道さの表われとする歴史教科書があるが、これは誤りである。」(P345)

 

と、断じられていますが、いったいどの教科書のどの記述が、「日本の非道さの表われ」と説明しているというのでしょうか。

日本の教科書は、現在きわめてニュートラルに記述されていて、いずれも文献・史料に基づいた記述がなされています。あいまいな推測や無根拠の話を排除した結果のものです。以下、山川出版の『詳説日本史B(P321)を引用します。

 

「続く1915(大正4)年、加藤外相は北京の袁世凱政府に対し、山東半島のドイツ権益の継承、南満州および東部内蒙古の権益強化、日中合弁事業の承認など、いわゆる二十一ヵ条要求をおこない、同年5月、最後通牒を発して大部分を承認させた。加藤による外交には内外からの批判があり、大隈を首相に選んだ元老の山県も、野党政友会の総裁原敬に『訳のわからぬ無用の箇条まで羅列して請求したるは大失策』と述べて加藤を批判していた。」

 

少なくとも、加藤外交に一定の批判を感じますが、ここに「日本の非道さ」を示す表現は無いように思います。

 

以下は蛇足ですが。

 

孫文は正義、袁世凱は悪、という考え方は、現在ではおこないません。

孫文革命勢力も袁世凱政府も、どちらも日本政府の支援を得ようとしていて、孫文も二十一ヵ条の要求の内容とほぼよく似たことを日本に打診しています。

「袁世凱が起草したものだ」と非難していますが、自分も日本に歩み寄ろうとしていたことを糊塗とする言説だと考えればよいと思います。