『日本国紀』読書ノート(141) | こはにわ歴史堂のブログ

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141】ロシア革命ではまだソ連は成立していない。

 

「アメリカも世界大戦に参戦していたものの、最後の一年間だけで、戦死者も十二万人とヨーロッパ諸国に比べて桁違いに少なかった。これは自国が戦場にならなかったからだが、それでも日露戦争における日本の戦死者よりも多いのだから、第一次世界大戦の悲惨さがわかる。」(P338)

 

これは誤りの指摘ではありません。

むしろ、日露戦争の悲惨さが際立つと思います。当時の日本の人口は4400万人で、アメリカの人口は9200万人です。

日露戦争も自国が戦場にはなりませんでしたが、84000人以上の戦死者で病死者も含めて戦争犠牲者というならば10万人を超えています。

アメリカは人口比戦没者0.13%で日本は0.2%となります。

 

さて、P338以降は「戦後の世界」の説明がされているわけですが、

 

「日本もまた大きな犠牲を払うことなく(戦死者は三百人)、多くの利権を得た国だった。加えて、ヨーロッパ諸国への軍需品の輸出が急増し、それにつれて重工業が発展した。さらに、大戦前、ヨーロッパから様々なものを輸入していたアジア地域も、戦争により輸入が困難になったことから、日本に注文が殺到し、結果、日本は空前の好景気を迎えた。」(P338)

 

と説明されていますが、事実と少し異なります。

日本の好景気、いわゆる「大戦景気」は、戦争中、のことで、戦後は1920年の恐慌をむかえ、「空前の好景気」を迎えたアメリカとは対照的な状態になりました。

しかも日本の経済構造は、寄生地主制と後の財閥となる一部企業による経済支配が進んでいた時代なので、好景気の利益はそれらが吸い上げ、一般への利益配分は進まず、異常な物価高と品不足をまねきました。

加えて、ロシア革命に干渉するシベリア出兵が計画されると、米の買い占めが起こり、富山県を発端にした「米騒動」が全国的に広がりました。

寺内正毅内閣はこれに軍隊まで出動させて鎮圧しましたが、対応ができず、これを背景として本格的な政党内閣、原敬内閣が発足します。

シベリア出兵、米騒動の説明がまったくなく、唐突にP347で「大正デモクラシー」の話がなされ、「日本で最初の本格的な政党内閣」の原敬の話が出てきます。

通史は、ネタフリとオチが大切ですが、シベリア出兵・米騒動の説明なく原敬内閣成立を説明するのはかなり無理があります。

 

「なお、この戦争中、後の歴史を大きく変える二つの出来事があった。」(P339)として「ロシア革命」を取り上げ、「石炭に代わって石油が最重要な戦略物資となった」と説明されています。

 

「経済学者のマルクスが唱えた共産主義を信奉するレーニンが武装蜂起し、政権を奪って皇帝一族を皆殺しにしたのだ。」(P339)

 

日本史の通史ですので、ロシア革命を簡略化して説明するのはわかりますが、簡略化と単純化は異なると思います。これでは「皇帝一族を皆殺しにした」のがロシア革命であるという説明です。

 

日露戦争中にすでに革命運動が始まっていたことを日露戦争中にネタフリをしておけばここでの話にうまくつながったのに残念です。

明石元二郎を中心とする「明石機関」の活動で、日露戦争中に日本はロシアの革命活動家を支援していて、後のロシア革命に日本は一定の「貢献」をしています。

ロシア革命は二段階です。

大戦の長期化で、国民の間で厭戦気分が広がり、首都で労働者や兵士が暴動を起こし、国会でも立憲民主党を中心に臨時政府が樹立され、皇帝ニコライ2世は退位します。これが二月(三月)革命です。

社会主義左派ボリシェヴィキのレーニンも亡命先から帰還し、革命の過激化が予想されました。そこで臨時政府はより広範な市民層の取り込みをはかろうとして社会革命党や社会主義左派メンシェヴィキを入閣させ、社会革命党のケレンスキーを首相としました。しかし臨時政府は戦争を継続したため、多くの労働者・兵士からなるソヴィエト(評議会)の離反をまねき、これを指導するボリシェヴィキが武装蜂起してソヴィエト政権を樹立しました。これが十月革命(十一月革命)です。

 

実は、革命政権の樹立と皇帝一家処刑は、別なんです。

処刑は19187月。革命政権樹立よりかなり後になります。

新政府の「平和に関する布告」「土地に関する布告」を出し、憲法制定議会のための選挙を実施したら、ボリシェヴィキが大敗し、社会革命党が第一党になりました。

レーニンは議会を即時解散、ほぼ軍事クーデターのような形でボリシェヴィキ独裁体制を建てました。これが19181月です。そして3月にドイツと単独講和をむすんで戦争をやめました。

これに対して各国は、革命が自国への波及をおそれて干渉戦争を開始しました。

日本も干渉戦争をおこないます。これがシベリア出兵です。

ボリシェヴィキは選挙結果を否定、つまり民意を無視した政権を樹立したわけですから、外からの干渉戦争に加え、内からの反革命運動を引き起こします。

こうして、反革命勢力によって皇帝ニコライ2世一家が奪われ、政治利用されることをおそれてひそかに殺害するに至ったのです。

 

「三月革命で臨時政府が誕生したが、戦争を継続したため、それに反対する国民の声が高まり、十月革命によって兵士・農民の支持を得たボリシェヴィキが武装蜂起して政権を奪った」、というくらいの説明にしておけばよかったと思います。

 

というか、簡潔化した説明よりも、以下に続く説明が完全に誤っています。

 

「人類史上初の一党独裁による共産主義国家『ソヴィエト社会主義共和国連邦』(ソ連)の誕生である。この革命により、ソ連はドイツとの戦争をやめ、国内の制圧に力を注いだが、内戦によって、夥しい死者が出た。」(P339)

 

どうも百田氏は1917年の十月革命によってソ連が成立したと誤認されているようで、

ソ連の成立は内戦を抑え、対外干渉戦争を退けた後の1922年です。

ですからドイツとの戦争をやめるブレスト=リトフスク条約はソ連が締結したものではありませんし、国内の制圧に力を注いだのもソ連ではありません。

この段階では、ソ連ではなく、ロシア=ソヴィエトと言うべきかもしれません。

 

「石油が最重要な戦略物資となった」という説明でも、ちょっと不思議な解説がおこなわれています。

 

「実は両陣営に石油を供給していたのはアメリカだった。アメリカはそれで多くの外貨を獲得した。」(P340)

 

「両陣営」というのは、イギリスやフランスだけではなくドイツにも石油を供給していた、ということでしょうか。

第一次世界大戦で敵対する二つの勢力に石油を売っていた「あくどい国」、という印象を与えかねない表現です。

1914年に世界大戦が始まると、イギリスは真っ先に「ドイツの経済封鎖」を実施しています。

イギリスは世界に突出した海軍力を有しています。地中海・北海全域の海上封鎖・臨検が可能でした。8月にはアメリカ合衆国に対しても禁輸・制限品目リストを用意しています。この禁制品はかなり「包括的」で、食料品なども禁止していました。

効果はてきめんで、1915年の段階で、ドイツの貿易は輸入では55%も減少し、輸出も前年比53%となります。

1917年の段階では北海及びアドリア海(オーストリアの領海)を通じてのドイツへの物資輸送は完全にゼロとなりました。

イギリス海軍は、大戦前から海軍艦艇の燃料は石炭から石油に転換していましたが、ドイツはまだ石炭でした。燃料革命が遅れていたドイツにとって「石油」の輸入が途絶えたことももちろん打撃でしたが、自給できている「石炭」を上回る量を戦争では消費し、この輸入途絶が戦争継続を不可能においやりました。

いや、それよりも経済封鎖による食糧の輸入途絶が問題でした。

食糧不足を引き起こし、戦略的にはこちらのほうがドイツにとってはるかに深刻で、実際、大戦末期の暴動やドイツ革命の引き金となっています。