同じもの、違うもの | 世界はあたしのお庭なの

同じもの、違うもの

テーマ:My life

世の中の人達って、すっごく勘違いしてるから困る。
他人と自分との違いや、実は…同じだったのねってところが全く分かってない。
世の中の多くの人が他人と「同じ」と思っていることろって、本当は全く同じじゃなかったりするし、他人と「違う!!」と思っているところが本当は同じだったりする。 
ここが分かってないと、嫌わなくていい人を嫌ってしまったり、本当は好きになる要素が全くない人を好きになったりもしてしまう。
無意味な非難や称賛をしてしまったりね。
それって馬鹿でしょ。


今日は…よーへいとヨネヨネの同じところ、違うところを文章化して、ちょっとだけ比べてみようと思う。
あたしの脳内のまとめにもなるしね。
二人を材料として使ってしまうけれど、それがあたしなので~。


二人の傾向として一番強く表れているものを比べてみる。

よーへいは基本的に野性的、本能的、衝動的。
ヨネヨネは基本的に知性的、理性的。

野性的、本能的、衝動的な傾向にあるよーへいは、リアルではそれをほぼ出していないものの、あたしに対してはそのまんまを出してくる。
例えば…腹が減ったら食べる、性行為をしたくなったらする(常にな気もする)、眠たくなったら寝るというように、自然に起こる欲求に対して凄くストレートで素直。
欲しいものがあったら手に入れるというのもその一つで、よーへいにとって欲しいものに属するあたしは、手に入れるものなんだよね。
あたしの気持ちや意志がある無しに関わらず、よーへいは自然に起こる欲しいという欲求に対してもストレートで素直なので、手に入れる方向に自然と動いていく。

過去世ではホントそのまんまで。
あたしを手に入れるためなら周りにどんな影響が出ようと全く関係なく、ひたすら手に入れるために動いて、あたしを自分のものにしていたわけだよ。
ただね、決してあたしを蔑ろにしていたわけではなく、あたしの心を満たそうとしていた。
それがないとあたしにぶっ飛ばされるのは当然なわけで…。
満たしてくれていたものの、よーへいの場合は周りへの影響が予想以上に酷くって、その酷さをあたしに全て押し付けてあの世へ行ってしまったのが縁の切れ目。

野性的、本能的、衝動的な部分はその人の個性であり、本来は良いも悪いもないのだけれど、そういった傾向が強くなりすぎて周りへを影響を全く考えられないようだと、その個性は酷く迷惑なものになってしまうことになるね。

昨日は「今後は個性の時代」的なことを書いたけれど、単に個性を出す時代ってことではなくて、この世界に害のある影響を出さないというのが大前提にあるんだよ。
自己主張と我が儘の違いみたいなものだね。
「自分はこういう人間である」と表すのには、人の賛同や称賛はいらないし仲間もいらない。自分一人で十分なんだよ。
だけど、我が儘な主張は周りを巻き込んでしまう。
だから自己を主張する場合は、周りが勝手に誤解していたらならそれを解く必要も出てくる。周りの勝手な誤解から、自分ではない自分が他者によって生産され続けてしまうからね。
自分を表すには、他人を入れない必要がどうしても出てくるんだよ。
もしも自分のことを語る誰かがいるとしたら、それは自分のことを分かってる人間だけ。分からない人間に語る権利を与えては駄目なの。自分ではない自分がまるで真実かのように世間に広まってしまうから。
けれど…単なる我が儘な主張の場合は、そんなものはどうでも良いわけで。
むしろ良いように周りが自分を語ってくれたなら好都合。最悪、周りが好意的に語ってくれる自分は本物と信じ込んでしまう。
そうなったらもう手に終えない。
状況は全く違うけれど、こちらも自分ではない自分が周りによって生産され続けことになるね。
まあどちらにしても…分からない者は人を語らないというスタンスが必要になってはくるけど。
現代は分かってないのに語る馬鹿が多いから、真実とは違うものばかりが溢れてる。どうしようもないよ。

この二つの違いがしっかり分かってないと、何が害に当たるのかが全く分からないし、そもそも個性というものもがどういうものなのかも分からない。
これは頭で考えて分かるものじゃない。
人とのぶつかり合いを通して、自分感じ、考え、判断して身に付けていくもの。
それ以外では身に付けられない。
絶対にそうだと言い切ってもいい。
ただ…幾らぶつかっても馬鹿だと何も身に付かない。
ぶつかった時に、相手がどんな人かを知っていくこと。相手の主張は正当か理不尽かをじっくり観察しながら分析する。
同時に、自分自身に生まれた感情の分析をしたり、自分の主張自体も正当か理不尽かを公平な視点で見れるようにならないとね。
相手ばかりを一方的に悪く思ったり、好き嫌いだけで見てしまうようでは、何度他人とぶつかり合っても身に付くものなんて一つもない。


ヨネヨネは…。
知性的で理性的。
だから感情や衝動で突っ走らずに、自分を深く探ろうとするし、相手に寄り添おうともする。 
ヨネヨネの優しさは、そういった傾向から生まれるものでもあると思う。

ここだけ書くと公平に相手を見れていてとても良いように感じるのだけど、知性的で理性的傾向が強い場合は、絶対に意識しなきゃならないところがあって、それが出来ていないと自分が全く無くなってしまうんだよ。
そして、困った影響を周り及ぼしてしまうこともある。

絶対に意識しなきゃならないものは、自分の本音。 
野性的、本能的、衝動的な部分だね。 
よーへいの場合はこの部分が強く出すぎてしまったために、自分のしていることが周りを酷い状態にしていても放置しっぱなしになっていた。 
それはとても困る。 
ヨネヨネの場合は知性的、理性がな傾向が強いために大事な相手や、何が美しい行為なのかを考えすぎてしまうから、自分の中にある野性的、本能的、衝動的なものから生まれる欲求が抑えられてしまい、その中にしかない個性が出なくなってしまっているんだよ。
野性的、本能的、衝動的なところにも自分の個性ってあって、そこが出なければ本当の自分が出ているとは言えない。

よーへいにも知性的、理性的な部分は当然個性としてあるわけだけど、野性的、本能的、衝動的なものが知性的、理性的な部分を抑え込んでいたために、出にくいものになってしまっていた。
知性的な部分すらも、野性的、本能的、衝動的なものに染まっちゃって、過去世ではずるーいところがやたらと強調されてしまっていたからね。
理性的な個性が弱々だったからだね。
バランス悪すぎ。

ヨネヨネの場合は、野性的、本能的、衝動的な部分が抑え込まれててバランスが悪い。 
だから、心の中にあるかもしれない怒りや憎しみ、嫉妬心が出にくくなっている。 
世の中に対しても沢山持っているはずの苛立ちが、知性的、理性的な部分によって抑えられて、無意識にも美しいものに変換しようとしてしまってる。
さらけ出してしまうことに罪悪感のようなものがあるのかな?と思うし、あたしに嫌われる怖さがあるのかなとも思う。 
そういったものがあるようだと、野性的、本能的、衝動的なものから出来ている自分の個性は一生出てこない。

よーへいは知性的、理性的な個性が薄々だったから子供っぽさを凄く感じたし、ヨネヨネは野性的、本能的、衝動的な部分が薄々だったからおじいちゃんぽく感じたし。
大人の男らしさというものを用いて二人にアドバイスするとしたら…。
よーへいは知性的、理性的な個性を生かして個性の表現の幅を広げることで、人を深く包める落ち着いた男性の包容力が出てくると思う。
ヨネヨネは野性的、本能的、衝動的な個性を生かして個性の表現の幅を広げることで、激しさから生まれる情熱的な想いを表せるようになると思う。

個性を出すって、実はとても精神力がいることなんだよ。
大概は多数派に潰されるからね。
個性!個性!って、個性という言葉を現代人は馬鹿みたいに使うけれど、そんな簡単に使える言葉じゃないんだよ。
例えば…ボーッとしてなにもしない人がいたとして。
その人がボーッとし続けるには、周りから役立たずとか、気が付かないとか、ボーッとしてばかりとか、馬鹿なの?等々批判的な言葉を気にせず、人に合わせず、そのままの自分で生ることが出来なきゃ無理だよね。
生きるにはお金はいるし、食べなきゃならないい、家や服も必要だから、生活が一通り出来る能力がないと駄目だしさ。
ボーッとする個性を持つ人であっても、ただボーッとしてるだけでは生きていけない。
個性を維持するには「自立」出来てなきゃいけないんだよ。

野性的、本能的、衝動的、知性的、理性的等々…。
人間は色んなものを自分の内に持っている。
自分の内にある全てを偏ることなく裸のままで出したのが個性。
常識や概念という覆いを被っているものは個性ではないね。
世の中が言う「善悪」や「正しさ」、「醜さ」や「美しさ」等々と自分の思うそれらが重なっている場合は、常識や概念に囚われていないかよくよく見てみないといけない。
世の中の常識や概念等でなくても、誰かから影響を受けたものじゃないかどうかを、しっかり見てみないといけない。
自分と他人は違うの。自分と世の中も違う。
本当は認めなくない醜さが自分の中にあったとしても、それが紛れもない自分だけのもの(個性)であったなら……世界にただ一人しかいない自分の一部なんだよ。
そんな自分の一部を大事に思って出せる人があたしは好きだね。
汚かろうが醜かろうが、あたしは好き。
そういうのを隠してる奴なんて阿保かと思うわ。 
つまらない、くだらない人間だなって。