医療現場で活躍する犬がいる。セラピー犬と呼ばれ、長期入院で気分が沈みがちな子どもの心を癒やしたり、手術を怖がる子どもの不安を和らげたりするのが主な役割だ。9年前に日本初の「大病院専属のセラピー犬」として活動を始めたベイリーは、高齢のためまもなく引退する。そんなベイリーが最後に任されたのが、重い病と闘い続ける少女、ゆいちゃんが受ける大手術のサポートだ。手術前後に直面する心身の苦痛をケアしながら、病を一緒に乗り超えていく姿を追った。
日本初のセラピー犬ベイリー最後の大仕事
神奈川県立こども医療センターには、月曜日から金曜日の朝9時に2頭のセラピー犬が出勤してくる。11歳のベイリーと2歳のアニーだ。入念な消毒を済ませると、普通なら犬が決して立ち入れない病棟へと向かう。
この病院に入院している子どもはおよそ400人。脳腫瘍や白血病の治療で、生まれてから一度も病院の外に出たことがない子もいる。セラピー犬の役割は、長期の入院で心が沈みがちな子どもたちに寄り添い、治療に前向きになってもらうことだ。
若いアニーは1日かけて、病室にいる子どもたちを一人一人訪ねて回り、自力では起き上がれない子や、手術を終えたばかりの子を癒やす。子どもたちはセラピー犬と一緒にいると、不思議なことに痛みまで軽くなるという。
先輩のベイリーは9年前に日本初の「大病院専属のセラピー犬」として活動を始め、これまで3,000人以上の子どもたちを支えてきた。しかし、ベイリーは人間ならもう80歳のおじいちゃん。最近は体力が落ち始め、まもな引退することが決まっている。
そんなベイリーだが、後輩には任せられない子どもが1人だけいた。重い病と戦うゆいちゃんだ。小腸に重い病気を患う10歳のゆいちゃんは、生まれてまもない頃から入退院を繰り返し、生死の境をさまようこともあった。ベイリーはそんなゆいちゃんに6年以上も寄り添い、支えてきた。
大きな手術を目前に控えているゆいちゃんを退院まで見届けるのが、引退間近のベイリーに任された最後の大仕事。しかも今回受けるのは根本的な治療につながる大手術だ。
手術への不安で表情が硬いゆいちゃんだが、ベイリーがやってくると笑顔になる。ゆいちゃんは入院中に日記を毎日つけていて、その中に気持ちを綴っている。
「ベイリーがきてくれて緊張が少しほぐれた。ベイリーをさわっていると落ち着く。明日は手術。少し緊張しているけれど頑張る。」(ゆいちゃんの日記)
手術前の不安や手術後の苦しみに寄り添うベイリー
闘病を続けてきたゆいちゃんが大手術を受ける日。不安そうなゆいちゃんの元に早朝出勤でベイリーが駆けつけると、緊張した病室の空気が一気に和らいだ。
笑顔になったゆいちゃんは、看護師の森田優子さんからベイリーのリードを任され、手術室へ向かう廊下を自分の足でしっかりと歩き出した。
ベイリーが付き添えるのは手術室の前まで。しかし、ゆいちゃんが手術室に入ったあとでも、閉じられた扉を見つめたままベイリーは動こうとしない。
「ベイリー、ゆいちゃん大丈夫だからね。」(森田さん)
森田さんに促されると、ベイリーはようやく歩き出して手術室から離れた。
5時間に及んだ手術は無事に成功。しかし、ゆいちゃんは痛みがひどくてほとんど眠れず、翌朝になってもグッタリと横になっていた。しばらくは、刺すような痛みが続くという。
そこに、森田さんに伴われてベイリーがやってきた。痛みで体が動かないゆいちゃんのために、ベイリーがベッドに乗って添い寝をした。そのときの気持ちをゆいちゃんが日記に記している。
「ベイリーが来てくれてゆいの横に寝てくれた。ベイリーが大きいから人間みたいに思えた。おなかは痛いけどベイリーがいるとリラックスできてうれしい。ずっと一緒にいたい。」(ゆいちゃんの日記)
30分後、森田さんがそろそろ行こうとベイリーを促すが、ベイリーは動こうとしない。いつもは森田さんの指示に忠実なベイリーだが、引っ張っても従わないのである。そうしているうちに、ゆいちゃんが眠りにつくと、安心したベイリーがようやくベッドから離れた。珍しく指示に従わなかったことについて、森田さんはベイリーの行動に理解を示す。
「ベイリーが自分がそこに求められているというのが分かっての行動なので、今までの経験値から考えてるのかもしれないなと思いますね。」(森田さん)
医療関係者も驚くセラピー犬の能力
ベイリーは10年前に、アメリカで医療犬として特別な訓練を受けている。訓練は1年にも及び、森田さんも一緒にトレーニングを受けていた。
セラピー犬の役割は、つかず離れず患者に寄り添うこと。吠えたりかんだりしないことはもちろん、人に甘えてなめたりするのも厳禁だ。ベイリーはどんな状況でも興奮せず、森田さんの指示に従って行動できるよう、徹底して教育されたのだ。
当初、受け入れる側の病院は慎重な姿勢を見せた。安全面や衛生面を心配する声も多く、その効果に疑問の声があがったが、ベイリーは想像を超える力を発揮し始めたのである。
脳腫瘍で何度も手術を繰り返す男の子はベイリーと会って笑顔を取り戻し、意識障害で話したり、体を動かしたりできない男の子は、ベイリーが寄り添うとうっすらと目を開けて反応を示したのだ。こうして、次第に医師や看護師の信頼が深まっていった。こども医療センターの町田治郎さんもベイリーの役割に期待を寄せる。
「子どもたちも本当にリハビリも頑張るとか、勇気を与えているんだなと思いますね。大事なスタッフの一員と考えております。」(町田院長)
ベイリーは9年間、まるで子どもたちの不安や苦しみを分かっているかのように、寄り添い続けてきたのだ。
なぜ犬は人を癒やすことができるのか?
犬が持つ「不思議な力」に、最新の科学が迫り始めている。
ハンガリーのエドベシュローランド大学では犬に人間のさまざまな声を聴かせ、脳の活動を調べる実験を行った。その結果、犬の聴覚野には人間の声色から感情を読み取る場所があることが分かってきたのだ。
まずは、犬に人の笑い声やうれしい声を聞かせると、聴覚野の活動が活発になる。つぎに、不機嫌な声を聞かせると、活動は低下した。
似たような仕組みが、人の脳にも備わっている。つまり、犬には人間と同じように、人の喜怒哀楽を読み取る能力があると考えられるのだ。
さらに、4年前にアメリカの科学雑誌サイエンスに掲載された研究が、世界の研究者を驚かせた。発表したのは犬の研究の世界的権威、麻布大学の菊水健史さん。ほかの動物にはない、犬だけが持つ人との特別な関係を明らかにした。
菊水さんの実験に参加したのは、犬とその飼い主。互いに見つめあったときに人の体内で、脳の下垂体から「オキシトシン」というホルモンが分泌されることが分かった。相手への愛情を深め、絆を強めるホルモンである。
オキシトシンには心を癒やしたり、体の痛みを和げたりする働きもあり、犬と見つめあったときに人間の体内のオキシトシンは3倍以上に増加。これが、犬のセラピー効果の大きな理由だと考えられるのだ。
さらにこの実験では、人と見つめあうことで、犬の側にもオキシトシンが分泌されていることが分かった。これまで、オキシトシンは同じ種の動物同士が見つめあったり、触れ合ったりしたときだけ分泌されると考えられてきた。しかし今回、人と犬というまったく違う生き物の間でオキシトシンを分泌しあい、絆を深める仕組みがあることが初めて確認されたのだ。菊水さんもこの実験結果には驚かされたと語る。
「その結果を見たときほんとに驚きました。まさか犬と人の間にオキシトシンと絆を結ぶような関係性が生まれているとは思ってなかったんですね。オキシトシンが出る絆というのは非常に特別で、人と犬の間に、親子であったりとか、夫婦であったり、あるいは家族であるというような、非常に強い、強固な絆ができてきてるということを意味してます。」(菊水教授)
人と犬の体の中にある絆を作る特別な仕組み。それこそが、犬が人に寄り添い、心を癒やしてくれる理由だったのである。
オオカミはどのようにして犬へと進化したのか?
人の心を癒やしてくれる犬の存在。人と犬の特別な関係は、いつから始まったのだろうか?
旧石器時代、農耕が始まった頃の遺跡に、人と犬がともに暮らしていたことを示す最古の証拠がある。遺跡に埋葬された女性の骨には、手元に犬の骨があった。女性は、犬を抱きかかえるような姿で埋葬されていたのだ。12,000年前のこの頃、すでに犬は人にとってなくてはならない存在だったのである。
人と犬の最初の出会いは、さらに時代をさかのぼる。氷河期の厳しい環境で人の身近にいたのがオオカミだが、このオオカミこそが犬の祖先。当時、人とオオカミは食べ物をめぐって敵対する関係だった。
では、人とオオカミはどのようにして協力関係を築くようになったのか?
この謎を、ロシアの研究所が解き明かそうとしている。ロシア遺伝学の父、ドミトリー・ベリャーエフ博士が始めた研究は、繁殖の難しいオオカミの代わりにキツネを使用しているが、オオカミと同じくイヌ科の動物で非常に凶暴である。
キツネはなかなか人にはなつかず、手を出すと飛びかかり威嚇をする。しかし、この研究所の飼育場には、様子の違うキツネがいた。人にはなつかないはずのキツネが、まるで犬のように尻尾をふって喜んでいるのだ。檻から出して抱きかかえてもまったく平気である。
このペットのようなキツネは、1958年から現在まで継続している繁殖作業から産まれた。まず、キツネが赤ちゃんを産むと、その中から比較的穏やかなキツネを選別。そのキツネが成長して子どもを産むと、再び穏やかなキツネを選び出した。こうして、穏やかなキツネを選んでは育て続けたのである。
変化が現れたのは、実験開始からおよそ6年。6世代目のことだ。キツネは人を怖がらないどころか、甘える仕草を見せるようになった。研究者がキツネの血液を調べたところ、攻撃性を生み出すコルチゾールというホルモンに変化が現れていた。普通のキツネに比べると、穏やかなキツネのコルチゾールの値はおよそ半分。これが人になつく理由だと考えられている。
実験のキツネが16世代目になると、見た目まで犬のようになり、耳が垂れさがるものや、尻尾が巻き上がるものまで現れたのである。現在のキツネは56世代目で、人の指示を理解し、研究者の指示で「ふせ」や「お座り」をしてコミュニケーションがとれるようになったのだ。
その秘密は脳にある。
記憶や学習を司る、脳の海馬(かいば)という場所では、新しい神経細胞が生まれることで記憶や学習の能力が高まる。人なつっこいキツネは、新しく生まれる神経細胞が通常のおよそ2倍。脳が若々しい状態を保っているおかげで、記憶や学習の能力が高まっているのだ。
私たちの祖先が何世代にもわたって、穏やかなオオカミを選んで育ててきたことで、同じことがオオカミでも起こったと考えられる。オオカミは、人のそばにいれば食べ物が手に入りやすくなる。人にとってオオカミは、外敵の接近を知らせてくれるありがたい存在だった。助け合いながら一緒に暮らすうちに、オオカミは犬に進化したのだ。こうして、種を超えて絆を深める特別な仕組みが育まれ、切っても切れない仲になったのである。
手術後の苦難を和らげるベイリー
腸の大手術が無事に成功したゆいちゃん。しかし新たな苦しみと闘っていた。つらいのはヒリヒリとした、のどの渇き。腸が働きを取り戻すまで、点滴で栄養はとれるが、口からは一滴の水さえ飲めないのだ。
早く水を飲めるようになるためには、なるべく体を動かし、腸の働きを促す必要があった。しかし、ゆいちゃんには術後の痛みがまだあり、短い距離の移動でも車いすに頼って歩こうとしない。
そこで、ベイリーの出番である。ベイリーを引き連れた森田さんが現れ、ゆいちゃんに話しかけた。
「ベイリーとちょっと歩いてみる?」(森田さん)
ゆいちゃんはおそるおそる立ち上がると、ベイリーのあとについて歩き始めた。ベイリーはゆいちゃんのスピードに合わせて何度も立ち止まりながら、ゆっくりと先導する。ゆいちゃんも必死についていき、50メートル以上ある病棟の周りを1周できた。そのときの様子は日記にも書かれている。
「ベイリーと一緒にナースステーションの周りを1周した。とても痛かったけど、ベイリーが一緒にいるから頑張れた。ベイリーありがとう。」(ゆいちゃんの日記)
手術から2週間。傷口もしっかりとふさがって、ようやく水を飲む許可が出た。最初は100mlで、これが1日分の量だ。全部飲んでも気分が悪くならなければ、腸が働きを取り戻した証拠である。
ゆいちゃんは渡された水をゆっくりと飲み始め、8時間かけて無事に水を全部飲みきることができた。手術後の大きな山を乗り越え、ベイリーもゆいちゃんの膝枕で安心した様子を見せた。
手術から53日目。ゆいちゃんが退院の日を迎えた。食事もしっかりできるようになり、予定より1か月以上も早まった。6年間支え続けてくれたベイリーともお別れ。
この日のために、ゆいちゃんはベッドの上でビーズのネックレスを作っていた。ベイリーへの感謝を込めたプレゼント。見送りに来たベイリーに渡し、別れを惜しみながら病院をあとにする。ベイリーはゆいちゃんが去っていったドアをいつまでも動かずに見つめ続けていた。
3,000人の子どもたちを支えたベイリー
夏休み最後の日。自宅に戻ったゆいちゃんが、宿題の自由研究をまとめていた。テーマは「病院で働く犬」。ベイリーのすごさを学校の仲間にも伝えたいとゆいちゃんは言う。
「ベイリーとか、頑張っている子たちは、すごいんだよって。」(ゆいちゃん)
翌日、集団登校の集合場所へ笑顔で向かうゆいちゃん。夏休み明けの通学は間に合わないと言われていたが、予定よりも早く新たな一歩を踏み出せたのだ。
そして10月。こども病院でベイリーの引退式が開かれた。ベイリーが9年間に見守ってきた、たくさんの子どもたちが感謝を伝えたいと参加。会場には元気になったゆいちゃんの姿もあり、ベイリーに向けてスピーチを行った。
「私はベイリーと6年くらい一緒にいます。私にとってのベイリーの存在は友達です。ベイリーがそばにいてくれると、入院中のつらいことも忘れさせてくれました。おつかれさま、ベイリー。ありがとう、ベイリー。これからはゆっくり休んでね。おいしいものをたくさん食べて元気でいてね。」(ゆいちゃん)