19世紀初め、スペインの植民地支配下でヌエバ・グラナダ副王領(現在のコロンビア共和国)の民衆は重税と抑圧に苦しめられていた。解放者シモン・ボリーバルは300年近くにも及ぶスペインの圧政に抗し、自由を求める人々とともに壮絶な戦いを始める。艱難辛苦の末に彼らを待ち受けていたものとは?感動の歴史ロマン!
主な登場人物
シモン・ボリーバル
この物語の主人公。ベネズエラ・カラカス出身。南米有数の大富豪の御曹司で恩師ロドリゲスの教えに従い、祖国の独立運動に参加する。腹心のサンタンデールとともにコロンビアの解放を目指し、宿敵スペイン軍と死闘を繰り広げる。温厚で涙もろい反面、冷徹で几帳面な性格。便秘の持病があり毎日下剤を飲んでいる。最愛の妻マリアを失くしてから生涯独身を貫く。
フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール
ボリーバルの右腕で彼が最も頼みとする名将。コロンビア・ククタ出身。ボゴタの名門校サンバルトロメ学院で法学を修め、18歳で祖国の独立戦争に参加。以来、ボリーバルの下で頭角を現し、ボリーバルの南米解放闘争を支える。現実的な性格で合理主義者。ちょび髭がトレードマーク。大柄で小柄のボリーバルと並ぶとどちらが大将か分からない。最愛の妻トゥリアは美貌で評判。
ホセ・アントニオ・アンソアテギ
解放軍の将校。コロンビア独立に貢献するが30歳の若さで急逝。
ホセ・アントニオ・パエス
ベネズエラ出身の軍人でボリーバルより7つ年下。粗野な性格で読み書きもできない文盲だが、勇猛果敢な将軍で知られる。ボリーバルと対立し、彼の行動を妨害する。ベネズエラ独立後は独裁者となる。
シモン・ロドリゲス
ボリーバルの家庭教師。早くに父母を失くしたボリーバルを養育し、彼のよき理解者となる。祖国独立運動に参加し投獄され、亡命先のヨーロッパで教え子と再会後、ボリーバルに南米解放の戦いに立ち上がるよう諭す。
ホセ・マリア・バレイロ
スペイン軍の司令官。色白の美男子で25歳という若さながら数々の武功を立てる。ボヤカの戦いでボリーバル率いる解放軍と対決。
マリア・テレサ・ロドリゲス
ボリーバル唯一の妻でスペインで知り合い熱愛の末に結ばれる。が、ベネズエラに帰国後わずか1年で熱病で他界。ボリーバルを南米解放に向かわせた直接・間接の原因を作った。
解放者!
南アメリカ大陸の北部に位置する国・コロンビア。
かつて黄金郷(エル・ドラード)伝説を生み出したこの地は、温暖な気候と肥沃な大地、豊富な資源に恵まれており、16世紀の半ば、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたスペイン帝国のコンキスタドール(征服者)たちに征服されるまで、先住民チブチャ族の文化が栄え、ペルーのインカ帝国にも劣らぬ高度な文明を持ち、平和な暮らしを営んでいた。
チブチャ族はタイロナとムイスカの二つの氏族に分かれ、ムイスカ族の都・バカタ(現在のコロンビア共和国の首都ボゴタ)はアンデス山脈の海抜2640メートルの高原に位置し、赤道直下にありながら温帯性気候に属し、年間平均気温は摂氏15度前後、年中春か秋のような気候で「常春の都」「天国に最も近い都」と呼ばれる。
クリストファー・コロンブス
現在のコロンビアに初めて到達したヨーロッパ人は、クリストファー・コロンブスの第2回航海に参加したスペイン人アロンソ・デ・オヘーダであり、1500年、カリブ海沿岸のラ・グアヒーラ半島に到着し、1525年7月29日、ロドリーゴ・デ・バスティーダスがサンタマルタに最初の植民地を建設した。
1533年6月1日、ペドロ・デ・エレディアによってカルタヘナ・デ・インディアスが建設され、スペインによる植民地支配が本格的に開始される。
入植者たちは沿岸部に住む獰猛なカリブ族の襲撃に悩まされ、勇猛果敢なカリブ族を徹底的に虐殺しながら沿岸を平定し、コロンビア内陸部のアンデス高原に「黄金の男(エル・ドラード)」がいるとの噂話を耳にした。
ムイスカ人の「黄金の筏」
それはチブチャ族の氏族・ムイスカ族であり、彼らは優れた冶金技術を持ち、金の装飾品に身を包み、金粉を体に塗りつけ、金塊やエメラルドを惜しげもなくグアタビータ湖に投げ込む“儀式”を行なっているという噂だった。
ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ
1536年4月、スペインの征服者(コンキスタドール)であるゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダはサンタマルタ総督フェルナンド・デ・ルーゴの命を受け、約600名の兵を率いて、コロンビア中央高原の遠征に乗り出した。
遠征隊はコロンビアを南北に縦断する大河マグダレーナ川を苦心惨憺の末に遡上し、1537年3月、ムイスカ族の住むサバナ・デ・ボゴタ(ボゴタ平原)に到達した。
そこはムイスカ族の都バカタが栄えていたが、ゴンサロはムイスカ族の内紛に乗じてバカタ征服を計画し、1538年8月6日、ゴンサロの軍はムイスカ軍を殲滅し、ここにサンタフェ・デ・ボゴタ(現在の首都ボゴタ)を築いた。
ゴンサロはこの地を自らの故郷・グラナダ(スペイン語で柘榴の意味)に因んでヌエバ・グラナダ(新しいグラナダの意)と命名し、黄金伝説発祥の地であるボゴタ北東のグアタビータ湖に到着した。
同じ頃、ベネズエラからオリノコ川を遡ってボゴタに到着したドイツ人ニコラス・フェーデルマンと、エクアドルからボゴタにやってきたインカ帝国の征服者フランシスコ・ピサロの部下セバスチャン・デ・ベラルカサルがグアタビータ湖でゴンサロと遭遇する。
当時のスペイン国王カルロス1世には南アメリカ大陸の開発資金がなかったため、ドイツのヴェルザー銀行にベネズエラの開発権を譲渡し、同銀行に依頼されたフェーデルマンが黄金を求めてコロンビアにやってきたのである。
この三者による戦利品の獲得競争は、カルロス1世の調停により、三者のいずれにも勝利は与えられず、ヌエバ・グラナダの支配権はサンタマルタ総督の息子に与えられた。
16世紀、コロンビアを探検したスペイン人は、
「ここには我々が求めているものが何でもある」
と書き記している。
気候が温暖で資源に恵まれたこの地を圧倒的な武力で征服したスペイン人に対し、先住民たちはカリブ族のように抵抗した部族もあったが、馬と火器と鉄製の鎧に身を固めたスペイン兵の敵ではなかった。
新大陸には馬も車輪も鉄器も存在せず、先住民インディオの多くはチブチャ族のように温和で従順な性質であり、野蛮な征服者たちの侵略と虐殺には為す術もなく蹂躙されるしかなかったのである。
男たちは剣で切り裂かれたり、猛犬に喰いちぎられたり、二頭の馬に両脚を縛りつけられ胴を裂かれたり、生きたまま焼かれたりした。女たちは容赦なく犯され、異人の子を産み落とした。
どうも、コロンビアにやってきたスペイン人は、殺人鬼や強姦魔のような凶暴な人物が多かったようだ。それは、この時代のヨーロッパは戦乱が絶えず、傭兵として各地を転戦していた猛者が多かったからであろう。
バルトロメ・デ・ラス・カサス
スペイン人たちの蛮行を告発し続けたカトリック司祭のバルトロメ・デ・ラス・カサスは、スペインのコンキスタドールはコロンビアで特にひどい悪さをした、と訴えている。
著書『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の中で、
「大勢のスペイン人がインディアス各地からこの新グラナダ王国(筆者注・現在のコロンビア)に蝟集したが、彼らの多くは邪悪かつ残忍な人物で、とくに、人を殺し、血を流すことにかけては札付きの連中であった。(中略)したがって、彼らがこの新グラナダ王国で行なった悪魔のような振る舞いはその内容も量も、じつに凄まじく、また、そのときの状況や特徴からして、あまりにも醜悪かつ由々しいものであったので、それまでに彼ら自身が、またほかのスペイン人が別の地方で行ない、犯してきたじつに多くの、いや、すべての非道な所業をはるかに凌いでいた」
と告発しているほどで、よほど目に余る状況だったことが推察される。
さらに悲惨を極めたのは征服者たちが旧大陸から持ち込んだ天然痘や麻疹、インフルエンザやチフスなどの疫病の大流行であった。
未知の伝染病への免疫を持たなかったインディオたちは、虐殺の次に襲いかかってきた疫病の猛威に曝され、その多くが朽ち果て、滅び消えていった。
16世紀後半、ペルー副王カスタニェダは本国に宛てた手紙の中で、こう書き残している。
「街道の両側は大量のしゃれこうべで埋まっている。息が詰まりそうな死臭が漂い、空には死肉に群がるハゲタカどもが恐ろしい鳴き声を上げて飛び交っている……」
スペインの植民地支配がいかに苛烈を極めたかは、16世紀当時、コロンビア全土に600万人はいたとされるインディオが、17世紀初頭には50万人程度にまで激減してしまったことを見ても分かる。
かろうじて生き残ったインディオたちは、征服者の奴隷に甘んじるか、人里離れた険しいアンデスの山奥や奥深い密林の中に逃れ、息を潜めて細々と生き延びるしかなかった。
コロンビアのアンデスに暮らすインディオの酋長は、
「スペイン人は聖書とランス(槍)を持ってやってきた」
と吐き捨てるように語る。
スペイン王室は植民地支配を円滑に進めるために「エンコミエンダ制」を導入した。
エンコミエンダ制とは、植民地のインディオを入植者に委託(エンコメンダール)し、入植者がインディオを保護・教化する代わりに彼らの労働力を利用してもよいという制度である。
「インディオの保護」を謳ってはいるが、実態は奴隷制度と変わらない。入植者がインディオの支配者として振る舞い、保護・教化・労賃の支払いといった義務を履行しない場合が多く、強制労役(エル・ミタ)の制度と相まって、インディオを搾取したに過ぎなかった。
インディオたちは鉱山や農園での重労働に使役され、厳しい環境に耐え切れずに人口が減少すると、入植者たちは彼らの代わりにアフリカ大陸から黒人奴隷を輸入した。
彼らの末裔はアフロ・コロンビアーノ(アフリカ系コロンビア人)として、現在も総人口の約2割を占めている。
スペインの過酷な植民地支配は、じつに300年近くもの間続いた。
1717年5月27日、スペイン植民地政府はペルー副王領から分離してヌエバ・グラナダ副王領を設置し、ムイスカ族の都バカタがあった地に現在の首都ボゴタを建設する。
ヌエバ・グラナダ副王領は財政難のため、1723年に廃止されるが、1739年に再び創設された。
1781年3月16日、ソコロ地方(現在のサンタンデール県)で、タバコ税などの重税と物価高騰に苦しむヌエバ・グラナダの市民が立ち上がった。
「コムネーロスの乱」と呼ばれるこの反乱は、クリオーリョ(現地生まれの白人)が主体だったが、虐げられていたインディオや奴隷も加わり、参加者は2万人に膨れ上がり、反乱軍の要求も重税撤回から独立にまで膨らんだ。
ボゴタ副王フローレスは、反乱軍とボゴタ郊外シパキラで会談し、税の減免と反乱指導者の免責を約束したが、フローレスはこれを反故にして反乱軍の司令官ホセ・アントニオ・ガランを捕らえると、見せしめのためボゴタで四つ裂きの極刑に処した。
この大規模な反乱は失敗に終わったが、19世紀に入り、本国スペインではカルロス4世と息子フェルナンド7世の対立に付け込む形で1808年、ナポレオン・ボナパルトの率いるフランス帝国軍に侵略され、ナポレオンの兄・ジョゼフがスペイン王位に就任すると、フランス傀儡のスペイン王室への忠誠を拒むラテンアメリカ植民地で独立の動きが加速していく。
アントニオ・ナリーニョ
1810年7月20日、アントニオ・ナリーニョがボゴタ副王を追放し、最高執政評議会を設置して「クンディナマルカ共和国」の独立を宣言する。これがコロンビアの独立記念日である。
その後、ナリーニョを中心とするボゴタの独立派は中央集権制を主張し、カミロ・トーレスを中心とするカリブ海沿岸の独立派は連邦制を主張。両者の対立と混乱に付け入る形で1814年2月、スペイン本国でフェルナンド7世が即位して絶対王政が復活する。
独立派は王党派に各地で連戦連敗を重ね、ボゴタの独立政府は崩壊に追い込まれた。独立派指導者のナリーニョは捕らえられ、スペインの監獄に投獄された。
シモン・ボリーバル
この時、ベネズエラで独立戦争を指揮していたシモン・ボリーバルは、カルタヘナの共和国政府から解放軍の最高司令官に就任するよう打診される。要請を快諾したボリーバルは王党派の牙城であるクンディナマルカ地方の奪還作戦に着手する。
ボリーバルは1814年末にはスペイン帝国軍との降伏協定を取り付け、王党派に占拠されていたボゴタを解放したが、1815年2月、フェルナンド7世は勇猛な将軍パブロ・モリーリョ指揮下の王党軍1万の大軍を派遣。カルタヘナにおける4ヵ月にもわたる激戦の末、解放軍は壊滅し、ボリーバルは命からがらカリブ海の島ジャマイカに亡命した。
亡命先のジャマイカでボリーバルは南アメリカ独立の大義と統一を訴える書簡「ジャマイカからの手紙」を記す。この時点で、長く苦しい独立への戦いは始まったばかりであった。
1816年5月、独立派最後の拠点であったボゴタが陥落。カミロ・トーレスをはじめとする独立派活動家多数が王党軍に処刑され、モリーリョ将軍の徹底的な弾圧は、これまで独立に消極的な姿勢だった人々の反感を招き、ヌエバ・グラナダ全土で独立の気運が高まっていく。
物語は独立戦争真っ只中の1819年2月から始まる。この年、ボリーバルは故国ベネズエラ東部のアンゴストゥーラで独立派代表者による会合を開き、2月15日に「アンゴストゥーラ大会議」を開催する。
この席上、統一されたコロンビア共和国の独立と、ボリーバルの大統領就任、解放軍の指揮権をボリーバルに委任することで意見が一致し、ここにようやく独立勢力は一本化され、本格的な独立運動に向けて歩調を合わせることができたのである。
1819年2月15日、ベネズエラ・アンゴストゥーラにおいて――
アンゴストゥーラ(現在のシウダ・ボリーバル)はベネズエラ・ボリーバル州の州都であり、町の北を流れるオリノコ川の港町として1764年に建設された。
周辺は鬱蒼たる密林に囲まれたベネズエラ東部の要衝であり、1817年7月17日、ボリーバルはアンゴストゥーラを攻め落としてここに革命政府の拠点を置き、以後、ティエラ・フィルメ(大陸の意味だが、ここでは現在のベネズエラとコロンビアを指す)解放の戦いを推し進めていくことになる。
町の高台にはコロニアル様式の教会や建物が建ち並び、その一角にある白亜の洋館は息を呑むような美しい夕焼けで鮮やかな紅色に染まり、見る者に郷愁と望郷の念を抱かせた。
広い食堂の大きなマホガニーの机には白い清潔なテーブル・クロスが敷かれ、銀の燭台には蝋燭が灯されていた。
厨房では、肥えた黒人の女中が牛の肉の大きな塊を焙っていた。肉の焼ける匂いが風に乗って屋敷の中に広がっていた。
フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール
食堂の椅子には、フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール将軍が座っていた。漆を塗ったような将軍の黒髪はいつもぬれぬれと光っていて、ちょび髭は将軍の大柄な体躯に似合わぬ可愛らしさで愛嬌を添えていた。
ヌエバ・グラナダのロサリオ・デ・ククタ出身の将軍は、今年で27歳になる。父親はカカオ農園を経営する裕福なクリオーリョであり、将軍は13歳でボゴタの名門校コレヒオ・マヨール・デ・サンバルトロメ学院に入学、法学を修めた秀才だった。
18歳の若さで独立運動に身を投じ、下士官から始まってボリーバルと出会い、以来、ボリーバルの“右腕”として幾多の戦塵にまみれてきた。云わば、ボリーバルが最も頼みとする勇将であった。
小柄なボリーバルと並ぶと、一体どちらが大将で下士官なのか分からぬほど、堂々たる風采の将軍は、今年で36歳になるボリーバルの後輩だ。ロンガニーサ(ソーセージ)という渾名を持つ痩身のボリーバルと、彼より年上のような印象を与える骨太の将軍は対照的であり、解放軍の下士官どもが、
「どっちが将軍だか分からねえや」
などと憎まれ口を叩いているのを耳にして、将軍が憤慨するのを苦笑しながらボリーバルは言った。
「人は見かけによらず、とはよく言ったものだ。なるほど、君と私が並んで歩けば、大方の将兵は君が真の将軍だと思うだろうよ。ルソーも言っている。些細なことを気にかけたり、恨みっぽい気性の人間は、常に弱く惨めであるし、精神の高揚はつまらぬことを無視することで得られる、とね。私が多くの友人に恵まれたのは、彼らに寛容だったからで、この例は一般化しうるものだよ」
この日も、ボリーバルはサンタンデールと食事を共にしながら、サンタンデールの報告に相槌を打ち、聞き手に徹していた。
「あの者たちは人の噂が好きなのです。下士官の誰が洗濯屋の女房と出来ているとか、花屋の娘と兵士が駆け落ちしたとか、しまいには荷物を運ぶロバが妊娠したとか、つまらぬことばかり私の耳に入ってきます。これから大事な作戦が始まるというのに、少し軍紀が乱れているような気がします……」
ホセ・アントニオ・アンソアテギ
サンタンデールの話を受け流していると、そこにボリーバルの腹心の部下であるホセ・アントニオ・アンソアテギ将軍がやってきた。ボリーバルはアンソアテギに目を向け、(少し肥ったな)と思った。
ヌエバ・グラナダの解放に多大な功績を残したアンソアテギは、この年の11月15日に急逝してしまうのだが、この時すでに病魔に肉体を蝕まれていたのかもしれない。
「ところで、君の御内儀は健やかかね?」
ボリーバルはサンタンデールに訊いた。サンタンデールの妻トゥリアは、その美貌が評判であり、最愛の妻マリア・テレサ・ロドリゲスを亡くしてから生涯独身を貫いたボリーバルも、人妻でなければ手を出していたかもしれない、と思い苦笑した。
「おかげで家内は健康そのものです。戦場に出向く良人の私が、いつも心置きなく戦えるよう尽くしてくれる、よく出来た妻です。ただ、こうも夫婦の生活が甘いものとは思いませんでしたな。妻に未練ができると、後ろ髪を引かれる思いでして……」
などとお惚気を聞かせるサンタンデールにボリーバルは微笑をもって報いたのみである。
これからボリーバルはサンタンデールをヌエバ・グラナダ(現・コロンビア)のカサナーレ地方に潜入させ、独立派の残党を糾合して解放軍を結成し、コロンビアの解放を目指す作戦であった。
もとより、生命の保証はない。王党派の手先はこの地にも多くいて、独立派は見つかり次第投獄され、悪くすれば即決で処刑だ。ボリーバルにも何度、刺客が差し向けられたか分からない。
翌朝、まだ夜が明けきらぬうちにサンタンデールはアンゴストゥーラを出発し、ベネズエラ西部のマンテカールに向かった。
サンタンデールが去ってすぐ、ボリーバルの率いる2500名の部隊もアンゴストゥーラを離れ、アプーレにおいてモリーリョ将軍の王党派軍と交戦した。
2500の将兵のうち2千名はクリオーリョ、奴隷、黒人、先住民であり、残る500名は主にイギリス人を中核とする外人部隊であった。兵士の妻も同伴しており、彼女らは看護婦の役目を果たした。
アプーレはベネズエラとコロンビアの国境地帯に流れるオリノコ川流域のリャノと呼ばれる広大な湿地帯にある州で、雨季には地面の大半が冠水して所々が浮島のようになり、農業には適さず、乾季には青々と牧草の茂る大草原が広がるため、古くから放牧が盛んである。
この地の出身者はジャネーロと呼ばれ、得意の馬術を活かして最強の騎兵部隊を持ち、独立戦争で大活躍することになる。
アプーレの戦いは、独立派・王党派ともに決定的な勝利は得られず、消耗戦に移行した。
ホセ・アントニオ・パエス
6月8日、ボリーバルの部隊はグアスドゥアリートでホセ・アントニオ・パエスの率いるジャネーロの部隊と落ち合い、ボリーバルはパエスに食糧と軍事用の牛馬の提供を要請した。
パエスはボリーバルより7つ年下で、無学で読み書きすらできない粗野な性格の持ち主だったが、勇猛果敢な軍人として知られ、ベネズエラの独立後は独裁者として君臨し、ボリーバルと対立することになる。
パエスにはこんな逸話が伝えられている。
1819年4月、ボリーバルはオリノコ川の支流アラウカ川でパエス率いる騎兵隊と合流し、スペイン軍を率いるモリーリョ将軍の部隊と川を挟んで対峙した。
この時、ボリーバルとパエスの軍勢は3000名。
対するモリーリョ将軍のスペイン軍は倍の6000名強もいた。
パエスは153人の騎兵を率いて川を渡った。対岸は急な堤になっていたが、パエスは部隊を6つの小隊に分けて堤を乗り越えた。
モリーリョ将軍の西軍は槍で武装した騎兵800名、カービン銃で武装した騎兵200名、歩兵と砲兵部隊であった。
モリーリョ部隊はパエスの部隊を挟み込むように包囲しようとしたが、パエス部隊は後退し、主力部隊を後方に移動させながら一個小隊を敵の中心に突撃させた。
西軍の歩兵部隊は退却し、騎兵部隊は孤立。両翼の護りは手薄になった。
この時、パエスは狼狽する敵兵を攻撃するよう「逆襲せよ!(Vuelvan Caras!)」と叫んだ。
実際は「引き返せ!チクショウ!(Vuelvan carajo!)」と叫んだと言われている(carajoは畜生という悪態)。
パエス部隊の逆襲で西軍は大混乱に陥り、4000名もの死傷者を出して壊滅。対するパエス部隊の死者はわずか8人という信じがたいものだった。
ボリーバルはパエスにコロンビアのククタへ進軍するよう求めた。これは王党派軍の注意を引き付けておき、ボリーバルの部隊を反対側の国境地帯に進めるための陽動作戦であった。
ところが、パエスの部隊はククタとは反対のサン・フェルナンド・デ・アプーレに向かった。ボリーバルの要請は無視されたのである。
1819年5月23日、ベネズエラ・セテンタ村において――
この日、ボリーバル軍の将校たちはセテンタ村で秘密会議を開き、モリーリョ軍との膠着状態に陥った戦局を打開すべく、ベネズエラよりコロンビアの解放が先決と決し、大きく迂回してアンデス山脈を越え、スペイン軍の裏をかく奇襲作戦に出ることを決定した。
全長8千キロに及ぶ長大なアンデス山脈は、コロンビアで3つの山脈に分かれる。すなわち、西部のオクシデンタル山脈、中央のセントラル山脈、東部のオリエンタル山脈であり、ボリーバルが目指すオリエンタル山脈は1200キロの長さに達し、最も高いところで5400メートルにも達する。
標高4千メートル級の険しいアンデスの山々を、満足な装備もない解放軍の兵士たちが乗り越えることは、まさに命がけの危険を伴うことを意味していた。
解放軍の兵士たちの大半はインディオや黒人奴隷、大農場で酷使される農民たちである。彼らは白い木綿の農民服を着て、マスケット銃を持ち、弾薬を詰めた袋を肩から提げただけの軽装で、靴もなく裸足であった。
彼らは1815年頃まではスペイン王室に忠誠を誓っていた。と言うのも、スペインの本国法は被抑圧者の保護を定め、フェルナンド国王も下層民の保護者として振る舞い、彼の腹心モリーリョ将軍もコロンビア平定のあかつきには奴隷解放を約束していたのである。
ところが、1817年までにスペイン軍がコロンビア全土を平定した後も何も起こらない。奴隷解放の約束は反故にされたのだ。
ボリーバルは彼らを解放軍に登用し、独立後の解放を保障した。白人の指揮官に混じって肌の浅黒い将校や黒人の下士官が活躍した。
コロンビアが独立を宣言した1810年からスペイン軍による平定までの6年間は「愚かな祖国の時代(パトリア・ボバ)」と呼ばれている。
独立派は中央集権派と連邦派に分裂して衝突し、足並みを揃えてスペイン軍と戦うことができなかった。言わば独立戦争はスペイン本国の白人と植民地の白人の戦いであり、混血やインディオ、黒人などの下層民は“蚊帳の外”だった。
独立派が団結できず、意見も統一できなかったため、スペイン軍による再征服(レコンキスタ)を許した。その苦い教訓からボリーバルは下層民を味方につけることを学んだ。
革命の原動力は富も権力も持たない無名の人民である。失うものがない彼らを仲間に引き入れれば勇気百倍、無敵となる。ボリーバルには先見の明があった。
解放軍の将校たちは騎乗だが、兵士たちは徒歩で移動し、痩せたロバに物資を積み、木製の台車に載せた大砲を曳いて、アンデス越えという大長征を始めるのだ。
ボリーバルは雪のように白い愛馬に揺られながら、アンデス越え作戦に参加する兵士たちの意気軒昂たる顔触れを眺め、
(彼らのうちで、自由と栄光を勝ち取り、勝利の日を迎えることができる者は、一体、どのくらいいるのだろうか?……)
と考え、行く手の困難を思い、暗澹たる気持ちになった。
部下思いのボリーバルは、解放軍の指揮官に対し、次のような通達を出している。
「部隊は1日に3ないし4レグア(約12~16km)行軍せよ。行程は二つに分け、早朝、2ないし3時間行軍し、午後は暑くなければもう2,3時間行軍すること。部隊は水のある椰子林や丘で野営し、疲労で死傷したりすることのないよう、仮眠を取ること」
ボリーバルは几帳面な性格で、兵士の衣服やサーベルの刃の具合、軍馬の蹄鉄の釘の太さに至るまで、事細かに指示を与えている。
一方で、ボリーバルは内容を確かめずに手紙に署名したり、同時に複数の手紙を口述筆記させたりする癖があることを告白している。
ボリーバルはサンタンデールに打ち明けている。
「私は幼い頃、相次いで父母を亡くした。私の几帳面で慎重な性格と、相反するようなせっかちな性格は、もしかしたら、両親の愛情を受けられずに育ったことに起因するのかもしれない」
1783年7月24日、ベネズエラのカラカスに生まれたボリーバルは、南米でも有数の大富豪の御曹司であり、多くの農園や鉱山を経営する裕福なクリオーリョだったが、幼少期に両親を亡くすと、乳母イポンテと優秀な家庭教師シモン・ロドリゲスの下で養育を受けた。
15歳で軍隊に入隊し、少尉の位を得た後、メキシコを経て、啓蒙主義の自由な空気に満ちたヨーロッパを遊学。スペインで後の妻となるマリアと出会い、熱愛の末に結ばれた。
だが、熱帯の気候になじめなかったマリアは、帰国後わずか1年で熱病のために世を去ってしまう。ボリーバルを南米独立運動に向かわせたのは、マリアの死が直接・間接の原因だったと言われる。
「マリアの死がなければ、私は普通の人生を歩み、普通の生涯を送り、普通の人間として死んでいただろう。私を普通でない人生に向かわせたのは、まさに彼女の死だった」
と後に語ったように、最愛の妻を失った傷心を癒すため、再度ヨーロッパに渡り、フランスで当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった皇帝ナポレオンに仕える。
ナポレオンこそが欧州に自由の種子を撒き、古い因習と封建制を一掃すると期待したものの、ナポレオンが征服した占領地を次々に自分の親族に分け与え、自ら皇帝に即位したのを見て失望し、彼のもとを去った。
その後、祖国で盛り上がる独立運動に興味を持ったボリーバルは、帰国後、ベネズエラの独立活動家フランシスコ・デ・ミランダの下で、その類稀なる才能とカリスマ性を遺憾なく発揮し、大車輪のような活躍を始めるのである。
すでに独立戦争の背景と経緯は述べてきたが、ボリーバルはサンタンデールとの出会いによって初めて革命のエネルギーに点火したと言ってよい。
後に両者の関係は政治的な意見の相違から破局を迎えるのだが、言わばボリーバルとサンタンデールの二人が力を合わせたからこそ、南アメリカの解放は実現されたと言ってもよい。ギリシャ神話のゼウスの二人の息子、カストールとポルクスの双子の兄弟のような両者の関係は、天と地、水と油のような間柄でありながら、互いに欠かせないものであった。
ボリーバルを南米解放という大事業に向かわせたのは、彼の恩師・ロドリゲスとの出会いが大きかった。
ボリーバルが二十歳、二度目の渡欧を果たした際のことであるが、師・ロドリゲスはベネズエラ独立運動に参加して投獄され、釈放後に亡命先の欧州で愛する教え子と再会を果たした。
師弟は共に欧州各地を旅し、1805年8月15日、イタリア・ローマ北東部のモンテ・サクロ(聖山)の丘に足を運んだ。
ここは古代ローマ時代、貴族階級の横暴に抗して市民が立ち上がり、抗議の声を上げて集まった歴史的な場所である。
その「聖山事件」が起きたのは紀元前494年、ボリーバルとロドリゲスが訪れる2300年も前の出来事であった。
この事件が契機となり、ローマ帝国には平民を保護するための護民官が設けられた。言わば、民主主義の先駆けとなった大事件である。
赤く夕日に染まったモンテ・サクロの丘に登った師弟は、眼下に広がるローマ市街を見下ろし、やがて師・ロドリゲスが厳かに言った。
「機は熟した。今こそ立ち上がるべき時だ。ボリーバルよ、君はラテンアメリカ解放のために立ち上がるのだ」
恩師から思いもよらぬ言葉を受け、若き青年ボリーバルは感動と興奮で目の淵をほんのりと赤く染め、高揚感に身を震わせて誓った。
「先生、私は誓います。私たちを繋ぎ止めているスペインの権力の鎖を解き放つその時まで、私はこの腕に安息を与えず、私の心に安らぎを与えないことを!」
歴史が大きく動いた瞬間である。この時、ボリーバルは22歳であった。
あの誓いの日から早14年。この14年間、ボリーバルは恩師への誓いに一度も背いたことはなかった。若き日の感動的な誓いの通り、彼は全身全霊で、南米解放という大いなる事業のために邁進し続けてきた。
1819年6月11日、ボリーバルはベネズエラとコロンビアの国境に近いターメの町でサンタンデールの部隊と合流を果たした。
サンタンデールは5月15日、ベネズエラのマンテカールを出発し、歩兵二中隊、騎兵二大隊の総勢700名の将兵を率いていた。
これにボリーバルの軍勢2500名が合流したので、解放軍は総勢3200名の大部隊となった。
ターメにおける作戦会議で、ボリーバルはアンデス山脈を越える4つのルートを検討した結果、最も危険度の高い道を敢えて選択した。
「しかし、閣下。そこはインディオたちしか知らない、普段は誰も通らない岩だらけの急峻な山道です。寒さも厳しく、非常に危険です」
サンタンデールが懸念を示すと、ボリーバルは少しも表情を変えずに言った。
「敵の目を欺くには、それがもっともよいのだ。スペイン兵も知らない登山道なら、我々は敵の盲点を突いて奇襲をかけられる」
長く苦しい行軍のために、米、ユカ芋、プラタノ(調理用バナナ)、塩漬けの肉など大量の食糧が用意された。
解放軍の本隊は司令官ボリーバルが、前衛部隊を副官サンタンデールが、後衛部隊をアンソアテギ将軍が、それぞれ指揮することになった。出発は3日後の6月14日であった。
アンデス越えの前に立ちはだかったのは、リャノと呼ばれる広大な湿地帯だった。雨季(3~5月、9~11月)は過ぎていたが、この年はやけに長引いた。連日の雨で沼地は腰まで沈む泥沼と化し、一行は泥濘の中を1週間も行軍した。
リャノの次は大小無数の河川を渡らねばならなかった。アナウカ川、リパ川、エレ川、クラボ・デル・ノルテ川、ターメ川、カサナーレ川、アリポーロ川、ヌチア川などであった。
濁流に流され溺れ死ぬ兵士や牛馬もいた。毒虫や猛獣もいた。地元のインディオたちが恐れる獰猛なココドゥリロ(ワニ)やカリベ(ピラニア)に襲われる者もいた。
海抜4千メートルを超す険峻なアンデス山脈は、黒い岩肌が露出する山並みの頂に白い万年雪が横たわり、標高が高くなるにつれ、兵士たちの吐く息は白くなり、将校を乗せた軍馬の足並みは乱れ、やがて恐ろしい唸り声を上げて猛吹雪が隊列に襲いかかり、視界は閉ざされて何も見えなくなった。
ようやく吹雪が去ると、鉛色の雲の切れ間から抜けるような青空が見えたのも束の間、激しい雷鳴が轟き、軍馬が恐怖に慄いて暴れ嘶く。さすがのボリーバルも手綱を握り締め、愛馬を落ち着かせるのに難儀した。
風は肌を切りつけるように冷たく、氷雨と霰が叩きつけてきたかと思うと、稲妻が暗い空を切り裂き、急坂から巨石が転がり落ちてくる。まるで、この世の地獄を見ているようであり、生物の侵入を頑なに拒む厳しい自然環境は、征服者スペインの虐殺を逃れた少数の先住民を3世紀にわたって侵略者から守ってきただけのことはあった。
解放軍は風雨と寒さに耐えながら、じわじわと進軍を続けたが、高度が上がるにつれて酸素が希薄になり、体温を奪う厳しい寒気とともにソローチェ(高山病)の脅威も迫り、弱り切った兵士から容赦なく体力を奪っていった。
やがて、力尽きた兵士がバタバタと倒れ、彼らは砂礫の上に横たわるとしばらくは息をしていたが、そのうちに動かなくなった。彼らを介抱する余裕は誰にもなく、倒れて動かなくなった者はそのまま打ち捨てられた。
温暖な気候のアフリカから連れてこられた黒人奴隷たちは寒さに弱く、強靭な肉体の持ち主である奴隷出身の兵士たちも低温と酸欠で次々に倒れ、命を落としていった。
苦難に満ちた行軍の末に、一行はようやく山頂付近のやや開けた場所に達した。ここで休憩を命じたボリーバルは、慣れない高地の過酷な環境に弱り切っている兵士たちを元気付けようと、ラッパ手に軍楽を演奏するよう命じた。
「一曲吹いてくれ。みんなが元気になるようなやつを、な」
軽快な楽曲がアンデスの空と山並みに響き渡った。しばらくは座り込んだまま死人のように動かなかった兵士たちも、やがて力を取り戻し、重たい体を上げる者も出てきた。
このアンデス越えでは、3200名中1400名の兵士が命を落とし、多大な犠牲を払ったとされる。
ボリーバルは独立戦争の最中、世界初の黒人国家であるカリブ海の小国・ハイチを訪れ、アレクサンドル・サベ・ペティオン大統領に援助を要請した。
フランスの植民地だったハイチ(旧名サン=ドマング)では、アフリカの黒人奴隷たちをサトウキビのプランテーションで酷使することにより莫大な富を宗主国にもたらしていたが、苛烈な支配と搾取に抗して立ち上がった黒人奴隷の指導者トゥーサン・ルーヴェルチュールの蜂起によりナポレオン率いるフランス軍を撃退し、1804年1月1日、史上初めての黒人共和国として独立を果たした。
この事件はフランスのみならず、南北アメリカ大陸の白人支配層にも強い衝撃を与え、ボリーバルはサンタンデールに宛てた手紙の中で、
「黒人奴隷の反乱はスペインの侵略の千倍は危険だ。黒人奴隷のコロニーが点在するのは将来にわたって危険であり、彼らを解放軍の兵士として徴用し、屈強な黒人奴隷が戦闘で消耗することにより、潜在的な脅威を軽減させることが可能だ」
と述べており、解放者も黒人奴隷の存在を非常に危惧していたことが分かる。
ボリーバルはサンタンデールにこう言っている。
「コロンビアが“第二のハイチ”になることだけは、どうしても避けなければならない」
ボリーバルには黒人奴隷が過酷な戦場で減少することで、将来の奴隷の反乱を未然に防ぐという狙いがあった。
だが、彼には特別な事情があった。ハイチのペティオン大統領は、逆境にあったボリーバルに「独立後の黒人奴隷の解放」を条件に、物心両面の支援を約束したのである。
ボリーバルはコロンビア独立後の1821年、ペティオン大統領への恩義と約束を果たすため、いち早く奴隷の解放を宣言するが、これには奴隷の雇用主である白人支配層からの反発が根強く、独立戦争を継続する上で、白人支持層の離反を招きかねない危険な選択でもあった。
ボリーバルは寒さに震えながら行軍する黒人兵士たちを馬上から見やりながら、その目にうっすらと涙を浮かべていた。
(私は、彼らが死ぬことを承知で、この困難な作戦を断行した。自由と栄光の日を見ぬままに死んでいく彼らの心境を思うと、この胸が張り裂けそうだ。私は今日、私自身の血を流した。奴隷たちよ、私を憎め。好きなだけ私を恨むがよい。諸君の恨みを甘んじて受けよう。祖国の自由と栄光のために、私は喜んで地獄に堕ちよう……)
ボリーバルの軍勢は多大な犠牲を払いながらもアンデス越えに成功し、1819年7月6日、コロンビア中部の町ソーチャに到着した。
解放軍は来るべきスペイン帝国軍との決戦に備え、この町で軍装を解き、ボリーバルは兵士たちに酒食を振る舞った。
独立派の農民たちが嬉々として豚を屠り、赤々と熾した炭火で肉が焙られ、兵士たちの杯にはなみなみと葡萄酒が注がれた。
人間の生活の基本は食欲、性欲、睡眠欲である。これらの欲望が満たされていれば、大方の人間は人生に不満を覚えぬものだ。つまるところ、それだけの欲が満たされれば、人は幸福を感じる生き物なのだ。
言わば、当たり前の欲求だ。その欲求が満たされぬとき、人は敢然と権力に抗う。有史以来、人類の歴史はその繰り返しである。
ボリーバルはサンタンデールに言った。
「我々はモーセの十戒のように、杖で紅海を割って、ヘブライ人をファラオのエジプト軍から救おうとしているのではない。ただ、当たり前の自由を人民に与えるため、命がけで戦っているのだ」
すべての人間は飲み、食べ、眠るという当たり前の営みが保障されてこそ、人間的な生き方が可能になる。その“当たり前の自由”が奪われたとき、人間は命を賭して戦いを挑む。
ふかふかした藁のベッドでぐっすりと眠り、夜明けと共に目覚めたボリーバルはバスタブにたっぷりと湯を張り、忠実な老僕のホセ・パラシオスに髭を当たらせた。
それからボリーバルはオーデコロンをたっぷりと手に取り、贅肉のない引き締まった体躯に塗り込んだ。金モールの肩章をつけた詰襟軍服に身を固め、パラシオスが淹れた熱いコーヒーを飲む。
ボリーバルは朝食を摂らない。満腹だと思考が回らないからだ。少し空腹の方がちょうどよいのだ。
持病というほどでもないが、ボリーバルは頑固な便秘に悩まされてきた。子供の頃からのもので、毎朝、苦いセンナの瀉下剤を飲まされるのを日課とした。
「私はねえ、小さい頃から一日だって体の具合がよかったことはないよ。尾籠な話だが、私はすっきりと排便した記憶が一度もない。一度でいいから、出るものをさっぱりと出し切ってみたいものだ」
しみじみと語るボリーバルにサンタンデールは、
「それで、病気などはしたことがないのですか?」
と訊いた。
「ないよ。自分勝手に持薬を飲んだりしているが、大病をしたことは一度もない。これで気が強い方だからね、私も」
晩年、ボリーバルは肺結核を患い、47年の短い生涯を閉じることになるが、苛烈な独立戦争の最中においても、決して丈夫とは言えぬ彼の肉体は発病を許さず、この年(1819年)だけでも馬やロバ、船や徒歩で4千キロにも及ぶ行程を踏破した。
もしかしたら、ボリーバルの鋼のような強靭な精神力が、小柄な体躯に病魔の跳梁を許さなかったのかもしれない。
また、発病の余地もないくらいに、ボリーバルの生涯は劇的で、熱く激しく短いものであった。
ある時、こんなことがあった。
ベネズエラにおける独立戦争の最中、ボリーバルはカルロス・マヌエル・ピアルという白人と黒人の混血(ムラート)出身の下士官を軍令違背の罪で銃殺刑に処した。
この時、ボリーバルは減刑を拒否し、ピアルの死刑執行命令書に署名したが、刑の執行には立ち会わず、銃声が聞こえてくると彼は目に涙を浮かべ、部下を処刑させたことを悔やんだという。
ピアルの処刑については、解放軍の内部でも相当な批判もあったが、ボリーバルは黒人が嫌いで、黒人の血が流れているピアルを嫌って処刑したのだ、という風評が流れた。
解放軍兵士の多数を占める黒人の反乱を恐れたサンタンデールに、
「構わんのだ。私のような者がいなければ、組織というものは到底、成り立たんよ。私は嫌われ者で結構だ」
とボリーバルは意に介さなかった。
後にグラン・コロンビア(大コロンビア)共和国の初代大統領に就任したボリーバルは、綱紀粛正のため厳しい法を設け、
「たとえ1ペソでも国庫の金を盗んだ者は死罪とする」
と宣言した。いかに彼が罪を憎み、人を愛していたか分かる。
1819年2月26日、ボリーバルがコロンビア大統領に選任されて始まったヌエバ・グラナダ解放作戦(コロンビア独立戦争)は、同年8月10日に首都ボゴタを制圧して終結を見るまで、165日(5ヵ月と15日)にも及んだ。
ベネズエラ領内から2500名の将兵を率いて出発したボリーバルは、大河オリノコ川を遡り、ベネズエラ領アプーレ州クラビーチェに上陸後、アプーレとコロンビア領カサナーレのリャノ(湿地帯)を通過し、無数の支流を渡河し、急峻で長大なアンデス山脈を越える大長征を経て、7月にコロンビア中部の高原に達するまで、その移動距離はじつに1500キロにも達した。
その間、灼熱の大平原、毒虫や猛獣の潜む泥沼と濁流、標高4千メートルから5千メートルにも達する険阻なアンデスの山々という大自然の脅威と戦いながら、強大なスペイン帝国軍を撃破し、祖国と人民を解放し、自由と栄光のために不屈の闘志で戦い抜いた。
ボリーバルにとっては今日が昨日のようであり、昨日が今日のようでもあり、明日が明後日のようにも思える目まぐるしい変転の日々であった。
7月6日、アンデス山中の町ソーチャで部隊を建て直したとき、総勢3200名だった解放軍の兵士は1800名に減っていた。苦難に満ちた行軍の過程で、病死、凍死、餓死、逃亡、行方不明などで多くの将兵を失うとともに、物資を運搬する馬やロバも数多く失った。
ボリーバルのアンデス越えは、ハンニバル・バルカの「アルプス越え」と並ぶ世界史の偉業のひとつとされる。
第二次ポエニ戦争(紀元前218年~紀元前201年)で、カルタゴの名将ハンニバルが兵と象を率いてフランス側からアルプス山脈を越え、歩兵9万と騎兵1万2千の約半数を失いながらもイタリアに侵攻し、軍事的勝利を収めたことは、後年のボリーバルの輝かしい成功と共通するものがある。
1819年7月25日、パンタノ・デ・バルガスの沼において――
この日、ボリーバルとサンタンデールの軍勢は、コロンビア中部パイパ北方10キロに位置するパンタノ・デ・バルガスの沼沢地帯において、スペイン帝国軍と前哨戦の火蓋を切った。
バルガス沼はボリーバルたちが苦心惨憺の末に乗り越えたオリエンタル山脈を下ったところの西側に広がる湿地帯である。
沼とは言っても、雨季に水溜まりが広がるだけの草原であり、これと言って見るべきものもない僻地だ。
ホセ・マリア・バレイロ
ボリーバル率いる解放軍は2500名。対するスペイン軍はホセ・マリア・バレイロ将軍率いる3500名の将兵。
「なんのこれしき、ボリーバルの百姓兵など、馬蹄にかけて蹴散らしてくれるわ!」
と意気込む黒い軍服姿のスペイン兵に対し、粗末な衣服に裸足の解放軍兵士はいかにも頼りなく見えた。
フアン・ホセ・ロンドン
圧倒的に不利な状況の中、この戦いで最も素晴らしい働きぶりを見せたのは、ボリーバルが“頼みの綱”としていた騎兵隊を率いるフアン・ホセ・ロンドン大佐である。
ボリーバルは、この若き大佐にすべてを託していた。ロンドンを側に招き、ボリーバルは眼に火のような光を浮かべて言った。
「この戦いの勝利は君の腕ひとつにかかっている。困難を恐れるな。強さのないところに徳はなく、勇気のないところに栄光はないことを忘れるな!!」
息子を励ます父親のように、まだあどけなさの残るロンドンの小さな肩を抱きしめたボリーバルは、ロンドンが14名の勇敢な部下を従え、駿馬を駆って勢いよく敵陣に突撃していくのを見送った。
「後に続け!!」
4メートルもの長さの槍を振りかざした騎兵たちが一筋の奔流となってスペイン軍陣営に斬り込んだ。たちまち猛烈な怒号と銃声、硝煙と土煙に一面が覆われ、友軍の姿が見えなくなった。
愛馬の手綱をしっかりと握り締め、祈るような気持ちで戦いの行方を見守るボリーバルとサンタンデール……。
一瞬の静寂が戦場を支配した。直後、
「突破したぞっ!!」
伝令の大音声が響いた。ボリーバルとサンタンデール、黄土色の砂塵に包まれた視界に目を凝らした。
そこに見えたものは、軍馬に蹴散らされ、サーベルで斬り払われ、銃剣で突かれ、恐怖に駆られて逃げ出す王党派の兵士たちの無様な姿であった。
「よし、我々も続けっ!!」
ボリーバルがすかさず命じた。サンタンデールが愛馬の横腹を軍靴の踵で蹴った。
6時間に及んだ戦闘は、解放軍の辛勝に終わった。この戦いで、ボリーバルは危うく命を落としかけている。
15名の騎兵隊の大半は戦死。最大の功労者であるロンドン大佐は、戦闘が終わった時、全身に無数の傷を負い、満身創痍となって手当てを受けていた。
8月5日、標高2880メートルの高原にあるボヤカ県の県都トゥンハにたどり着いたボリーバルの一行は、市民から「解放者」として歓呼の声をもって迎えられた。
ここでボリーバルは最後の決戦に備え、食糧、馬、軍資金を調達するとともに、15歳から40歳までの志願兵1千名を得ることができたのである。
1819年8月7日、コロンビア・ボヤカ高原において――
この日、ボリーバルの率いる解放軍2850名の兵士たちは、ホセ・マリア・バレイロ将軍の率いるスペイン帝国軍2670名と最後の決戦に臨むべく、コロンビア中部・ボヤカ高原に向けて進軍した。
朝露に濡れた草むらの上に腰を下ろし、食事を摂る兵士たちを見回しながら、ボリーバルはサンタンデールに言った。
「何せ一癖も二癖もある連中だし、ここまで持ってくるのは並大抵ではなかったよ。これが最後の戦いになるだろうが、彼らのうち、自由と栄光を手にすることのできる幸運な者は何人いるか、な……」
淋しげな表情を浮かべるボリーバルにサンタンデールは言った。
「私は、かように思うのです。やみくもな奴隷解放より、優秀な白人雇用主による家父長的な奴隷制の方がはるかに人道的で、奴隷たちの幸福につながります。解放軍に参加した者に自由を与え、彼らが幸福をつかめるよう法制度を整えていくのが最もよいのではないか、と……」
自他共に現実主義者を認めるサンタンデールは、ともすれば根っからの理想主義者であるボリーバルと意見が対立しがちだったが、ボリーバルとて現実を無視して理想を唱えるだけのロマンティストだったわけではなく、奴隷たちの扱いには細心の注意を払っていた。
後にボリーバルは奴隷解放を宣言し、奴隷制度を「最も憎むべき反人間的な制度」と痛烈に批判するのだが、解放後の奴隷たちに自立するだけの力はなく、独立戦争で富と権力を手にしたクリオーリョたちはラティフンディスタ(大地主)となって奴隷制は温存され、ラテンアメリカ諸国は現在まで続く激しい貧富の格差という矛盾と混乱に苦しむことになる。
「問題は、理想と現実の狭間で、いかにして両者のバランスを取るか、です。ここに古今東西の指導者の苦悩があるのです……」
朝靄が漂う高原の清冽な空気を味わいながら、ボリーバルとサンタンデールは並んで歩き、語り合った。
「我々は我々にできることをするしかない。我々の政策と決断が、後世の人々を幸福にし、不幸にもさせるのだ。戦おうな、パコ(フランシスコの愛称)」
親しみを込めて呼んだボリーバルは、サンタンデールと堅い握手を交わした。
ボリーバルとサンタンデールが活躍した時代よりおよそ半世紀の後、コロンビア共和国で制定されたリオ・ネグロ憲法は、教会権力の制限、言論・出版の自由、個人の最大限の自由が保障され、当時、世界で最も進歩的な自由主義憲法と評され、かのフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーは憲法を読んで「ここに天使の国がある!」と絶賛したと言われる。
午前6時、スペイン王党派軍がモタビータを出発し、25キロ北のボヤカに向かったことを斥候が報告した。
ボヤカはボゴタ北方150キロ、アンデス山中に位置し、現在のボヤカ県カーサ・デ・テハに属する。この高原を流れるテアティノス川に架かるエル・プエンテ・デ・ボヤカ橋が地名の由来。この小ぢんまりとした石橋から、サマカ、モタビータ、トゥンハ(北に16キロ)に街道が分かれている。
午前10時、サンタンデールの部隊がトゥンハを出発、16キロ先のカーサ・デ・ピエドラに向かった。
午後1時半、セバスチャン・ディアス大佐の率いるスペイン軍前衛部隊がボヤカに到着。後衛部隊は1.5キロ遅れて進軍した。
午後2時、太陽が最も高くなる頃、ボヤカの空は海のような鮮やかさで、所々に綿をちぎったような雲が浮かび、馬上のボリーバルは熱気に曝され、額に大粒の汗を浮かべていた。
1819年8月7日午後1時半、サンタンデール率いる解放軍主力部隊の右翼を固めるアンドレス・イバーラ大佐の部隊がスペイン軍と遭遇。スペイン軍はイバーラ部隊を追撃し、大佐を迎えたサンタンデールは腹心のガブリエル・パリス中佐にただちに迎撃を命じた。
「迎え撃て!これが最後の戦いになる!我々は今こそ3世紀に及ぶ抑圧と屈辱の歴史に終止符を打つのだ!!」
獅子のように叫んだサンタンデールの下で、将兵たちは猛虎のような咆哮を発し、天を突かんばかりの意気を上げ、恨み骨髄に達する仇敵・スペイン軍の部隊に向かって怒涛の突撃を開始した。
解放軍の指揮官はボリーバルやサンタンデールをはじめ、南アメリカのスペイン植民地で生まれた白人支配層が中心だったが、彼らはペニンスラール(本国生まれの白人たち。「半島人」のこと。イベリア半島生まれを意味する)に差別され、同じ白人でも生まれが違うだけで同等に扱われず、常に疎外されてきたという積年の恨みが鬱積している。
人間の恨みほど激しく、根の深いものはない。愛情や友情は簡単に壊れても、憎悪は決して消えることがない。
パリのバスティーユ監獄を襲い、栄耀栄華を極めたブルボン朝を武力で打倒したフランス大革命も、恒常的な貧困に苦しむ農民・市民の怒りが贅沢三昧な暮らしに明け暮れる王侯貴族に向けて爆発したものであった。
1917年のロシア革命も、戦争と重税に苦しむロシアの民衆が無能なロマノフ王朝への怒りを爆発させたものだ。
世界の革命は、そのほとんどが暴力革命であった。人類を進歩させてきたものは、人間が生まれながらに持っている怒りと憎しみの感情なのである。
解放軍の歩兵たちは、鈍く光る重たいマスケット銃を構え、指揮官の号令とともに一斉に銃火をスペイン兵に浴びせた。
耳を劈く激しい銃声とともに猛烈な白煙が辺り一面に立ち込め、濛々たる硝煙で一瞬、敵も味方も互いに見えなくなる。
この時代、連発式の銃器は存在しない。言わば、マスケット銃は「火縄銃に毛が生えた」程度の武器である。銃口から火薬と弾丸を棒で押し込んで固め、弾薬が銃身内部で動いたり、銃口から落ちたりしないよう、兵士はあらかじめ弾薬の包装紙を口の中で噛んで丸め、安定剤として銃口から押し込み、棒で突いて固めておく。
次に火皿に火薬を入れ、零れ落ちないよう金属製の蓋(フリズン)を閉め、撃鉄を引き起こし、標的に狙いを定める。引き金を引くと撃鉄に挟み込まれた火打石がフリズンに当たって火花を散らし、火皿の火薬に引火して弾丸が発射される。
俗に、戦いを始めることを「火蓋を切る」と言うが、この語句は火縄銃の時代に生まれたものだ。マスケット銃と火縄銃に大きな違いはないが、フリントロック式のマスケット銃は点火に火打石(フリント)を使っていた点であり、マッチロック式(火縄銃)と違い、雨天時など悪天候でも使用できるという利点があった。
また、マスケット銃は通常、ライフリング(銃身内部にらせん状の溝を入れることで弾丸が回転しながら遠くまでまっすぐ飛ぶ)を施していないため、長距離狙撃には不向きだが、至近距離での威力は絶大であり、現代の大型口径の拳銃と同等かそれ以上の破壊力がある。
射程距離が100メートルから50メートル以内であれば、鉄製の甲冑を貫通するほどの威力である。
兵士たちは一斉射撃を加えた後、銃身に弾を込めない状態で、銃身に取り付けた銃剣を槍のように構えて敵陣に突撃するのである。
近代戦のように遮蔽物に身を隠しながら小銃や機関銃を用いての戦闘は不可能であり、最初の一斉射撃で勝敗の趨勢が決まると言っても過言ではない。それだけに、この時代の戦争は、部隊の指揮官に高度な作戦指揮能力と意思決定能力、将兵たちの統率力が要求された。
砲兵たちは木製の台車に載せた真鍮製のカノン砲に火薬と砲弾を詰め込み、砲手が赤々と燃える松明で点火すると、凄まじい砲声が上がり、砲口から火花と白煙が噴き出した。
砲弾はスペイン軍陣営に着弾し、雷鳴のような轟音とともに土砂や砂礫を巻き上げ、軍馬は驚いて棹立ちになり、指揮官は振り落とされ、歩兵たちは耳を押さえて地面に蹲った。
サンタンデールの部隊はカーサ・デ・ピエドラに入り、彼の腹心の部下であるホセ・アントニオ・アンソアテギ将軍の部隊がスペイン軍部隊の中央に果敢に突撃した。
これはディアス大佐の西軍前衛部隊と、バレイロ将軍率いる本隊を分断させる作戦であり、ボリーバルとサンタンデールが事前に練りに練り上げた作戦を寸分の隙もなくやってのけたに過ぎない。
「戦力差から言っても、我々がまともにぶつかって勝てる相手ではない。ここは敵も驚く奇襲作戦で行くしかない。作戦を何度も復唱し、徹底的に頭の中に叩き込め!」
ボリーバルがそう指示したように、解放軍の指揮官たちは作戦内容の隅々まで嚥下し、すでに血肉と化してしまっていた。
1819年8月7日午後2時、ボヤカ高原において――
コロンビア・ベネズエラ解放勢力連合軍最高司令官シモン・ボリーバル将軍は、ホセ・マリア・バレイロ将軍率いるスペイン帝国王党派軍の後衛部隊に対し突撃作戦を開始した。
この時、カーサ・デ・ピエドラの小高い丘から戦況を見守っていた解放軍副官フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール将軍は、敬愛する司令官が果敢に先陣を切って敵軍の真っ只中に突入したのを見て、慌てて焦げ茶色の愛馬を走らせ、大将のもとへ急いだ。これに側近の将軍たちも続く。
「前に出すぎですぞ!お控えください!」
小石を跳ね上げ、土塊を蹴飛ばして突進してきたサンタンデールに、ボリーバルは一瞥をくれたが、
「構わん!この程度の修羅場を切り抜けずにティエラ・フィルメ(大陸)の解放などありえぬ!」
ボリーバルは白い愛馬を巧みに操りながら敵陣に斬り込み、右手にサーベルを、左手に手綱をしっかりと握り締め、駆け寄ってくる敵兵を一刀の下に斬り捨てた。
まだ若い兵士は額を押さえて戦闘不能になった。とどめを刺す必要はない。敵の出鼻を挫くことができれば、無駄に血を流すことはないのだ。無意味な殺傷はかえって友軍の評判を落とし、敵を勢い付かせるだけだった。
「これはたんなる復讐ではない。抑圧者から人民を解放し、人々に自由と栄光を分け与えるための戦いだ。諸君は、そのことを肝に銘じなければならぬ」
かねてからボリーバルが配下の将兵たちに言い聞かせていたように、この戦争は残忍な血の復讐ではなく、崇高な目的のための尊い犠牲――祖国と人民を解放し、自由と栄光を勝ち取るための流血なのであった。
この時、西軍はカーサ・デ・ピエドラ近くの小さな丘に退却し、3門の大砲を中心に、本国からの派遣部隊が円陣を形成し、両翼を騎兵部隊が固めていた。
「突き進め!突き進め!」
ボリーバルは将兵たちを叱咤激励し、
「バルセロナ大隊とブラボー・デ・パエス大隊はスペイン軍の右翼を攻撃しろ!イギリス大隊およびライフル大隊はスペイン軍左翼を攻撃せよ!」
と命じた。
解放軍は装備の面では西軍に劣っていたが、当時、スペインと敵対関係にあったイギリスやアイルランドから多数の義勇兵が参加しており、士気も高く、紅蓮の炎のような闘志がみなぎりわたっていた。
その頃、カーサ・デ・ピエドラから解放軍の前衛部隊がボヤカ橋から1.5キロ離れてテアティノス川の渡河に成功し、背後から西軍部隊を銃剣で攻撃し始めた。さらに、後衛部隊も徒歩で浅い川を渡り、友軍に加勢した。
ボヤカ高原は目にも鮮やかな山々の緑、どこまでも深い青空、白い雲、咲き乱れる花々と、まことにのどかな風景であったが、解放軍と西軍の血で血を洗うような死闘が繰り広げられ、猛獣の咆哮のような銃声と砲声、地響きのような兵士の足音、濛々たる硝煙と土煙、その下で交わされる命のやり取りと絶叫、悲鳴、怒号、流血に染まる黄色い土、累々と重なり横たわる将兵たちの死骸、それを素足で踏みつけ躓き転がる歩兵たち……まるで天国と地獄が同居したような凄惨な光景が展開されていた。
午後4時、劣勢の西軍はボヤカ橋の上に司令官のフアン・タイラ大佐を残して敗走を始め、総崩れに陥った。
ボリーバルは槍部隊に西軍中央の歩兵部隊の攻撃を命じ、騎兵部隊には敗残兵の追撃と掃討を命じた。
「おのれ、ボリーバルめ!まさか、これほどの勢いがあるとは……」
絶句して馬上に佇むバレイロ将軍は、この時、弱冠25歳の若さ。まだあどけなさの残る色白の貴公子だが、スペイン独立戦争などで戦功を上げた輝かしい経歴の持ち主だった。
バレイロは解放軍の包囲網を突破し、前衛部隊との合流を目指すが、激しい銃砲火の前に断念。駆け寄ってきた腹心の部下フランシスコ・ヒメネス将軍から、
「閣下、このままでは全滅です!ご決断を!」
と迫られ、
「くっ……や、やむを得ん!」
ついに降伏を余儀なくされたのである。
解放軍の兵士たちは血と汗と泥にまみれ、粗末な衣服にマスケット銃を携えただけの身軽な格好だったが、仇敵への怒りと憎悪で死の恐怖をすっかり忘れていた。
恐怖に駆られたスペイン兵は持ち場を離れ、指揮官の制止も耳に入らず、我先にと友軍の兵士を押しのけ押し倒し踏みつけ、混乱し狼狽し、右往左往しつつ転倒し、武器を放り捨てて逃げ出した。
「追え!一人も逃すな!ただし、できる限り生け捕りにせよ!捕虜は情報の宝、金の卵であることを忘れるな!!」
馬上から指示を下すボリーバルは、後に解放軍の兵士が語ったところによると、「この世で最も気高く、美しいもの」に見えたという。
3時間に及んだ戦闘は解放軍の圧勝に終わり、戦場のあちこちで兵士たちが天を仰いで祈り、互いに抱き合って満面を涙に濡らしながら歓呼の声を上げていた。
「勝った!我々は勝ったのだ!3世紀に及んだ抑圧から自由を勝ち取ったのだ!!」
勝利の雄叫びを上げる兵士たちを見守りながら、ボリーバルは長く苦しかったこの戦いの意義を噛み締めていた。
これは抑圧者への復讐や、祖国の解放よりも、もっと大きな意味がある。
富も権力も持たない無名の人民が、3世紀にもわたる暴虐と圧政、抑圧と搾取、差別と迫害から、自らの手で自由と栄光を勝ち取ったのである。
この事実は、抑圧の闇の中で苦しむ者たちに、永遠に希望の光を与え続けることになるだろう。
部下からの報告に指示を与えつつ、ボリーバルは若くして亡くなった妻・マリアの面影を脳裏に思い浮かべていた。
マリアはスペインで知り合い、熱愛の末に結ばれたボリーバル唯一の妻であり、彼女の死は彼に生涯独身を貫かせた。
妻の故国・スペインと戦う宿命を背負わされた我が身の皮肉を噛み締めながら、ボリーバルはマリアの淋しげな笑顔をボヤカの青い空に描いていた。
「敵将バレイロを捕縛!」
伝令が大声で伝えると、海鳴りのような勝鬨が上がり、ボリーバルは愛馬の手綱を強く握り締めた。
ボヤカの戦いでのスペイン軍側の死傷者250名(死者100、負傷150)に対し、解放軍側の死傷者はわずかに66名(死者13、負傷53)という驚くべきものだった。
解放軍は8月10日、ボゴタを制圧し、コロンビア共和国の独立を宣言(ここで言う「コロンビア」は現在のコロンビア、ベネズエラ、エクアドル、パナマ及びブラジルとペルーの一部を含む「大コロンビア」という巨大な国家)。
1810年7月20日の独立宣言から10年近くにも及んだ独立戦争は、当時のコロンビアの総人口130万人の1割強にあたる10万~15万人もの死者(成人男性の2人に1人が戦死した計算)を出し、多くの血と涙の上に成し遂げられた。
スペイン軍を率いたホセ・マリア・バレイロ将軍らは捕らえられ、3世紀にわたるスペインの蛮行に対する報復として、10月11日、ボゴタにおいて処刑された。
捕虜の中には解放軍に参加しながらスペイン軍に寝返った裏切り者も含まれており、ボリーバルは彼らを「銃殺に値しない卑怯者」として絞首刑に処したのである。
スペイン軍の全滅を知ったボゴタ副王フアン・サマーノはインディオに変装し、カリブ海沿岸のカルタヘナに逃亡した。
彼が残していった50万ペソの大金は解放軍の手に渡り、兵士たちに平等に分配されたのだった。
コロンビアの独立によりスペインは南米北部の要衝を失い、その後、南米諸国は次々に独立を勝ち取ることになる。
解放軍を率いた最高司令官ボリーバル将軍は大コロンビアの初代大統領に、副官サンタンデール将軍は初代副大統領に就任した。
時にボリーバルは36歳、サンタンデールは27歳という若さであった。
※画像はマルティン・トバール画「ボヤカの戦い」。パブリック・ドメインが成立しており、著作権は消滅しています。
※Yahoo!ブログで読者の方から頂いたコメントです。
初めまして
実は昨晩来たのですが、
時間的に遅かったのでコメント控えました。
歴史については非常に興味がありますけど、
世界の歴史についてはあまりにも複雑すぎて
実態をつかみかねています。
勉強させて頂きたくコメントしました。
宜しくお願いいたします
[ ジョユン ] 2017/6/19(月) 午後 8:55
はじめまして
歴史に刻まれているのは、人間のエゴとエゴの戦いであり
思いあがった行為ですよね。長い歴史があったからわかることですが・・今ならば調和が大切だとわかります。
訪問ありがとうございました。
心から感謝申し上げます。
[ kuj*ras*i ] 2017/7/24(月) 午後 7:57
1999年に南米コロンビアに旅したことがあります。
首都ボゴタの旧市街と新市街を歩き回りました。
その後、コロンビアで、「花」の取引をしてるビジネスマンと、米国フロリダで出会って、コロンビア事情を聴きました。いまは、治安が安定しているようですね。
[ 吉川和夫 ] 2017/7/24(月) 午後 10:01
履歴から来ました。イカダと言います。
たしか南米の全ての国で建国の父と慕われる人ですよね?
執政権を獲得したあと、官僚体制がなかったのでやむを得ず軍隊の組織を使って統治した事を、ものすごく気にしていて、『わたしの墓から悪魔が出てくる』と言い残した・・・・・と言うのが実は全知識です。
印象に残っていた名前が見えたので拝読しました。こんな壮絶な戦いがあったのも初めて知りました。ありがとうございました
[ イカダ ] 2017/8/11(金) 午後 6:57
今晩わ
『解放者』すべて読み終わりました
植民地からの開放がどれほど難しいか
綺麗ごとでは済まされないということを身をもって知らされたように思います
でも、複雑な歴史なので何も纏まっていません
掻い摘んで説明もできませんので、
時間を見てまた読ませていただきます
それからもうひとつの小説『誰も知らない』もあわせて読みたいと思っております
最後にこのような素晴らしい小説を書き上げてくれて本当にありがとうございました
本当の歴史というものは、私たち一般市民には知らされていません。
ので私はもっともっと知りたいのです
[ ジョユン ] 2017/9/4(月) 午後 9:06
何処の国にも歴史はありますが、一つの国に絞って書かれてるのは凄いことですね。
日本の歴史も素晴らしいですが、戦争さえしなかったらもっと素晴らしい国でしょうね。
[ たかちゃん3 ] 2017/9/9(土) 午前 9:05
シモン・ボリーバルは師匠のスピーチで知っております。
良く語られていますね、感心します。
[ rindo ] 2018/11/25(日) 午後 3:36
写真は南米コロンビアの首都ボゴタ北部の街並みです。
ここはエル・ドラード国際空港から東へ10キロほどのところにあります。周辺は高級住宅街で、住んでいる人は富裕層が多いです。
ボゴタは標高2600メートルのアンデス山脈の盆地に広がる大都市です。人口は約780万人。富士山の7合目くらいの高さに800万人近くが住んでいます。
この高さになると酸素は平地の4分の3程度。慣れない人は軽い高山病になります。私は特に息苦しさを感じたり、めまいや吐き気を覚えることもないのですが、酸素が少ないというのはやはり体にとって負担です。
平地にいる時より体力を消耗しやすいのでしょう。私も夕方になると疲れがひどく、夜は眠くて眠くて仕方ありません。最初の頃は眠りが浅かったのですが、そのうち7~8時間は眠れるようになりました。
さて、コロンビアと言うと何を思い浮かべますか?コーヒー、エメラルド、かつてサッカーの強かった国といったイメージから、麻薬、ゲリラ、誘拐、殺人といった悪いイメージも多いと思います。
事実、コロンビアはつい最近まで「世界で最も危険な国」でした。1990年代の殺人事件の発生率は世界一。毎年3万人が殺害され、3千人が誘拐されていました。毎日100人が殺され、10人が誘拐されていた計算になります。
2001年には日本企業の副社長が左翼ゲリラ組織「コロンビア革命軍(FARC)」に誘拐され、その後、遺体で発見される事件も起きました。
とにかく「治安の悪い危ない国」というイメージが強いと思います。
私も「コロンビアに行く」と言うと、周囲から「殺されるよ」「誘拐されないように気をつけろ」とさんざん忠告されたものです。
しかし、実際に来てみれば分かりますが、今のコロンビアはさほど危険ではありません。普通の国です。ボゴタはアメリカの首都ワシントンより安全なくらいです。
私がコロンビアに発つ直前、この国を長年苦しめ続けてきたFARCの最高幹部アルフォンソ・カーノが政府軍との戦闘で死亡し、ゲリラ組織の弱体化は顕著になっています。
ボゴタにおいては、迷彩服姿で銃を構えたゲリラの姿を目にすることなどありません。どこでも武装した兵士や警察官の姿を目にするので、近年は一般犯罪も減っています。
無論、まだ危険な地域もありますが、それはゲリラの支配地やスラム街などで、普通の人はそんなところには行きませんから、旅行やビジネスで訪れるならそれほど心配する必要はありません。
というわけで、これからボゴタを中心としたコロンビアの話をしていきましょう。
今日のボゴタは曇りです。
ボゴタは周囲を山並みに囲まれた高地なので、空を眺めていると、天気がよくても急に鉛色の雲が広がってきて、冷たい雨が滝のように落ちてきます。
山の天気は変わりやすいです。今は雨季なので、ほとんど毎日のように雨が降りますが、日本の梅雨のようにシトシトといつまでも降り続けるようなことはありません。
バケツを引っくり返したような豪雨が降ってきて、小1時間もすれば止んでしまいます。
天気のいい日は日差しが強烈で、空気もカラッとしていますから、本当に過ごしやすいです。ボゴタが「常春の都」と呼ばれた所以です。
ボゴタという地名は、かつてここに住んでいた先住民ムイスカ族の王国バカタにちなんでいます。「バカタ」がなまって「ボゴタ」になったのです。
ボゴタの歴史は古く、この地を征服したスペインのConquistador(征服者)、ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダによって1538年に創建されました。今から470年以上前のことです。
スペイン植民地時代はサンタフェ、あるいはサンタフェ・デ・ボゴタと呼ばれ、1717年にヌエバ・グラナダ副王領(現在のコロンビア、ベネズエラ、エクアドルを含めた地域)が設置されると、ボゴタに副王(スペイン国王の代理人のようなもの)が置かれ、ボゴタは南米大陸北部の主要拠点として栄えました。
その後、スペインの支配はじつに300年近くも続きます。19世紀に入ると、コロンビアでも独立運動が盛んになり、独立の英雄シモン・ボリーバルたちの活躍を経て、1819年に完全独立を達成し、ボゴタは名実ともにコロンビアの首都になりました。
1991年には名称を植民地時代のサンタフェ・デ・ボゴタに戻したのですが、長ったらしくて使いにくいということで、2000年に再び現在の名称に戻しました。
写真では分かりにくいと思いますが、背景の山の頂上付近は標高が3千メートルを超えています。雲はそれ以上の高さにありますから、降ってくる雨はとても冷たいです。
今日のボゴタは雨です。
今は雨季(だいたい3月~5月、9月~11月)なので、本当に毎日のようによく雨が降ります。
近年はエルニーニョ現象やラニーニャ現象の影響で、あまり雨季と乾季の区別はなくなっていると言われていますが、ボゴタは山の中にあるのでコロコロ天気が変わります。
朝は晴れていても、急に曇ってきて雷雨になったりするので、まったく油断は出来ません。
ボゴタの道路事情はかなり悪く、排水溝のない道が多いため、大雨が降るとほとんどの道路が冠水して、ひどい時は浸水してしまう地区も出てきます。
コロンビアは今年、春から全国で大豪雨と大洪水の被害が続いていて、私のいるボゴタのクンディナマルカ県でもあちこちで土砂崩れや浸水が起きていて、死者や避難民も出ています。
ボゴタは標高が高いので雨も冷たいです。ここの人はあまり傘を差すという習慣がなく、雨の中でも平気で歩いています。レインコートがあると便利です。晴れていても風は結構涼しいので、長袖の衣服は欠かせません。
ボゴタの朝は早いです。
私も夜はかなり早く寝てしまうので、夜明け前に目が覚めてしまうのですが、だいたい午前5時ごろから道路の交通量が増え始め、6時には一斉に通勤・通学する人々の群れに出くわします。
私が聞いた話では、ボゴタの公立学校(ここでは初等教育5年、中等教育6年で、義務教育期間は9年です)の始業時間は午前6時45分なので、かなり早いですね。
コロンビアは南米の国ですが、いわゆるラテン系とは少し違い、国民性は真面目で勤勉です。本当にみんな、朝から晩まで一生懸命に働いています。
近年は治安が劇的に改善されたので、ボゴタは一種のバブル景気になっていて、あちこちで建設ラッシュが始まっています。
ボゴタはコロンビアの首都ですが、海から遠く離れた内陸の高地にあるため、産業の発展は遅く、1920年代頃まではこれと言った産業もありませんでしたが、最近は治安回復で外国資本の流入がめざましく、日本人から見れば羨ましくなるほどの成長と発展を遂げています。
反面、急激な人口増加に追い付かず、住宅地は山の上に上に広がっているのですが、見ていて危なっかしいような急斜面に簡単な構造のマンションやアパートが乱立しているのを見ていると、崖崩れが起きたら大変なことになると思います。
ボゴタは地震がほとんどなく、したがって建物も日本のように耐震を考慮しなくてもいいので、基本的にレンガを積み上げただけの簡素なものが多いです。
高地で酸素が薄いため、火災もあまり起きません。無論、コロンビアには原発もありませんから、放射能汚染の心配も皆無です。
ボゴタには歴史的な建造物が多いのですが、地震と火事の恐れが少ないということが大きいと思います。
あとは水害と犯罪に注意していればいいので、ボゴタはなかなか住みやすい土地だと思いますね。
ボゴタ北部の山の上から見たボゴタの遠景です。
ボゴタは全長500キロにも及ぶ広大なボゴタ盆地に広がる大都市で、市中心部(セントロ)から北部(ノルテ)にかけて高級住宅街が広がり、逆に南部(スール)に行けば行くほど低所得者の住む地区が広がっていきます。
南北でハッキリと貧富の格差が分かれているのが象徴的で面白いのですが、私のような外国人は南部のスラム街などに行けば真っ先に狙われますから、旅行者の方は決して興味本位で立ち入らないように注意してください。
1枚目と2枚目の写真は高級住宅街です。外国人もだいたいここに住んでいますが、ボゴタでは東洋人の姿を見かけることは滅多になく、私のような日本人は非常に目立ちます。
近年はコロンビアで日本文化が静かなブームになっていて、日本語を学びたがる人も増えていて、私は道を歩いていると「コンニチハ!」と向こうから声をかけられることがあります。
ボゴタの主要施設はだいたい北部に集まっていて、この写真には写っていませんが、コロンビアを代表する国際空港であるエル・ドラード空港もこの近くにあり、時々、飛行機が離着陸するところを見ることが出来ます。
1枚目の写真の右手の木が生い茂っているところの向こう側には陸軍の士官学校があり、この日は演習をやっているとかで山の上まで勇ましい太鼓の音が響いてきていました。
さて、もうお気づきでしょうが、ボゴタは標高が高いのに、木々が青々と茂っていますね。
これはボゴタが高地でも、赤道に近い熱帯に属するため、植物の成長には適した環境にあり、富士山の7合目くらいの高さでも緑が豊富なのです。
日照量も多いので、近年は切り花の栽培と加工も盛んです。ボゴタ郊外に行くと、日本向けのカーネーションやバラの温室が延々と続いています。
3枚目の写真を見てください。私がいる地点で標高は2600メートルを超えていますが、ご覧のように樹木が元気に育っていますね。
4枚目の写真は山の上の方を撮ったものですが、山頂付近は標高3千メートルを超えています。それでもびっしりと森が広がっているのが分かると思います。
日本では、車で行ける富士山の5合目でも緑はわずかですから、何とも不思議な光景です。
ボゴタは本当に緑の豊富な街で、私はとても好きなのです。
写真はボゴタ市内の繁華街です。
ここはノルテ(北部)に位置する比較的高級なお店が立ち並ぶ通りで、日本で言えば原宿や六本木みたいなところでしょうか。
週末の夜ともなれば若者たちで賑わいます。ちょっと洒落たブティックや飲み屋が軒を連ねており、お金持ちのお坊ちゃんやお嬢さんが派手に散財していくのですが、これもコロンビアの治安が改善されたおかげです。
1枚目の写真はボゴタ有数の土産物店や郷土品を売るお店が並ぶ通りです。パナマ帽やポンチョ(コロンビアの民族衣装)や先住民の遺跡からの出土品のレプリカなどが売られています。
コロンビアでは、やたらに写真を撮っていると怪しまれるので要注意です。治安が良くなってきたとは言え、まだゲリラもいて内戦が継続中ですし、特に人物の撮影はテロや誘拐の標的になりやすいので、誤解を招く恐れがあります。
それでもコロンビアはコスタリカ、チリと並んで「世界3C美人国」と呼ばれるほど美男美女の多い国です。ボゴタでも本当に素顔が美しい人が多いのです。
ボゴタは道が悪いので、足元に注意していないと不意に穴に足をとられて転ぶことがあります。マンホールは穴だらけですし、歩道は凹凸が多いので、写真撮影に気を取られていると思わぬ災難に遭うこともありますから注意しましょう。
写真はボゴタの露店です。
ボゴタに限らず、コロンビアはどこの町でも露天商が元気に商売していますが、ボゴタではなんだかよく分からないものを売っているので面白いです。
これは鳥とか亀とか恐竜?らしきものの玩具ですが、左に見える赤いドラゴンみたいなものは翼がパタパタ動いていました。
この近くではゴジラのような怪獣の玩具が所狭しと並べて売ってあったのですが、場所は交差点の横断歩道のすぐそばです。
交通の邪魔になることおびただしいものがあるのですが、そこは大らかなコロンビア人気質と言いますか、誰も気にしないところがいかにもなあ、と思いました。
コロンビアのタクシーは黄色です。
写真はボゴタのタクシーですが、すべて韓国製です。
コロンビアは韓国企業の進出が凄まじく、今や車も家電製品もほとんどすべてが韓国製に席巻されてしまいました。
何故、韓国製が強いのかと言うと、韓国企業は1990年代後半、日本企業がコロンビアの治安悪化で撤退してしまったのをチャンスととらえ、積極的に猛烈な売り込みをかけたせいです。
そのおかげで日本勢は南米から完全に駆逐されてしまい、コロンビアの治安改善で日本企業も必死になって再進出を図っていますが、もはや韓国勢には太刀打ちできないというのが現実です。
街中で見かける車も韓国のヒュンダイ製が多いです。わずかにトヨタやニッサンの車も見かけますが、コロンビアは自動車輸入の関税が高いので、日本車は人気でも富裕層にしか手が出せない「高嶺の花」なのです。
韓国製のタクシーは車体が軽量で、言葉は悪いですが「ちゃち」な造りです。私はつい、日本にいる時と同じようにドアをバタン!と力いっぱい閉めてしまうのですが、すると車体が大きく揺れて、運転手さんを驚かせてしまうことがあります。
ちなみにコロンビアは朝鮮戦争では中南米で唯一、韓国に援軍を派遣した国でもあります。そうした歴史的な背景から、コロンビアと韓国は「血で結ばれた友情」の国なのだとか。
ボゴタにも韓国人が住んでいて、韓国料理のお店がありますが、地球の裏側のこんなところにまで「韓流」が押し寄せてきているのを見ていると、複雑な気持ちになりますね。
さて、コロンビアでは犬をよく見かけるのですが、何故か猫はほとんど見ません。何故でしょう?
聞いた話ですが、猫の寄生虫?が女性の不妊症を誘発するとかで(たぶん、デマでしょう)、コロンビアでは猫はあまり人気がないのだそうです。
まあ、犬も飼い犬と言うよりかは野良犬の方が多いので、趣味で動物を飼えるほど裕福な人間が少ないというのもあるのでしょう。
それでもボゴタにはペットショップがあります。先程ご紹介した繁華街からタクシーで10分ほどのところです。ペットショップが立ち並ぶ一角があります。
コロンビアでは、肉屋でも魚屋でも花屋でも洋服屋でも八百屋でも家電品店でも、一ヵ所に集中していることが多いので分かりやすいのですが、ペットショップも同じです。
店の外にカゴを出して、子犬や子猫を見せています。ここでも人気なのはやはり犬で、店をひやかしていく人も猫にはあまり興味を示しませんでした。
私は子供の頃からずっと猫を飼っていましたから、どちらかと言うと犬より猫派なのですが、ボゴタで可愛い子猫ちゃんを見かけた時は思わず嬉しくなって写真に撮りました。
ここは熱帯魚を専門に売るお店です。
コロンビアはブラジルとの国境地帯に広大なアマゾンの密林が広がり、世界的にも魚や鳥や両生類の宝庫なので、ボゴタでも色鮮やかな熱帯魚の数々を目にすることが出来ます。
1枚目の写真はピラニアです。小さいですが、これはおそらくアマゾンでもペルーのアンデス地方の比較的寒い地域に住んでいる種類で、本場のアマゾンにいるやつはもっと大きくて獰猛です。
2枚目の写真は少し分かりにくいかと思いますが、ナマズです。ボゴタは山の中なので、海の魚はあまり食べないのですが、ナマズは「バグレ」と言ってスープにしてよく食べます。
コロンビアは幸か不幸か、長年の内戦で国内の開発が遅れ、人が住んでいる地域はボゴタをはじめとするアンデス山脈などに限られており、動植物の天国であるアマゾンなどの天然の密林は長らく手つかずのままだったので、今でも貴重な自然がそのままの状態で守られていることが多いのです。
つい最近もパナマとの国境付近のジャングルで、新種のカエルが発見されたというニュースが流れました。まさしくコロンビアは「自然の宝庫」なのです。
さて、腹が減ってきたので昼食です。
コロンビアの郷土料理と言えば、アヒアコ(鶏肉とジャガイモの煮込み)やサンコチョ(鶏の澄まし汁)、アサード(焼肉)、アレパ(トウモロコシ粉のパン)、エンパナーダ(アレパにチーズやアボカドなどの具材を挟んだもの)などが有名ですが、無論、そうした郷土料理ばかりではありません。
ボゴタは海から遠く離れた内陸部にあるため、魚介類を食べることは少ないのですが、それでも近年は輸送機関の発達で、ここボゴタでも海の魚を食べる機会は増えてきました。
写真はボゴタでも有名なシーフード・レストラン(1階が鮮魚の売り場になっていて、2階が大きな食堂)でいただいた料理です。
前菜はサラダとスープ。コロンビアでは生の野菜を食べる習慣があまりないせいか、サラダと言っても日本のようにドレッシングをかけるという発想がなく、生のままの野菜をバリバリ食べさせられます(塩もありませんでした!)。
スープはジャガイモと調理用バナナ(プラタノ)と白身魚が入っているのですが、あっさりした塩味でおいしいです。
コロンビア料理は基本的に味付けが塩のみで、単調と言えば単調なのですが、食材の味を活かしていて私は好きです。ただ、好みが分かれるようで、ボゴタ在住15年になる日本人のAさん(仮名)は「コロンビア料理は大味で苦手」とおっしゃられております。
2枚目の写真のスープはシーフード・スープです。この店自慢のスープで、イカやタコ、エビなどの魚介をココナッツ・ミルクで煮込んだ濃厚な味わいで最高に美味です。いくらでもいける味です。ボゴタに来られる方は是非、ご賞味あれ。
3枚目はメインです。平べったい白身魚はスズキです。ボゴタでは魚と言えば冷凍がほとんどで、日本の鮮魚店のように新鮮な生の魚にお目にかかることはありませんが、この店では1階でノルウェー産の丸々と太った鮭が売られていました。
ご飯は日本の米と違い、パサパサしたインディカ米ですが、ほんのりと塩味が効いていておいしいです。隣の黄色いのは揚げバナナです。味はサツマイモの天ぷらの味なしバージョンみたいで、正直、これは甘くも何ともなく、あまりおいしくありません。
これだけでもかなりのボリュームで、私はもともと食べる速度が遅いのですが、全部平らげるのに1時間かかりました。周りのコロンビア人は大声で喋りながら食事を楽しんでいるのですが、たぶん100人くらいが一斉に同じ場所で食事をしているので、誰が何を言っているのかさっぱり分かりませんでした。
レモネードが飲み放題なので、私は少し苦いレモネードで喉を潤しつつ、やっとの思いでランチを片付けたのでした。
腹も膨れたのでボゴタ市内の観光に出発です。
ボゴタは歴史の古い街で、見どころは無数にあるのですが、何と言っても見ていただきたいのは「黄金博物館」です。
ボゴタ市中心部のセントロにある国立の博物館で、コロンビアで出土した先住民の黄金細工などが展示されています。
かつてコロンビアは「El Dorado(黄金郷)」伝説で湧いた土地でした。
16世紀の半ば、この地を征服したスペイン人たちは、地元のインディオが黄金色に光り輝く金の装飾品を身に着けているのを見て、「ここには金銀財宝がたくさん眠っているに違いない」と考えました。
実際にはそれほど黄金があったわけではないのですが、口コミでコロンビアの「黄金伝説」がヨーロッパに伝わり、目の色を変えてやってきた侵略者たちはインディオを迫害し、虐殺し、彼らの土地と財産を略奪していきました。
黄金博物館には、この時の略奪を免れた数少ない貴重な財宝が眠っているのですが、コロンビアでは今でも金が産出されており、ボゴタ周辺のアンデス山脈で金鉱石の採掘が行なわれています。
展示室の入り口には、コロンビアの先住民たちが金の採掘や加工に使った道具類が並べられています。
これはコロンビアの先住民が実際に使っていた金製の道具類です。
上のお面のようなものは部族の酋長が儀式の時などに身に着けていたもので、頭に飾ったり、鼻の穴に引っかけたり、腰や手足に着けたりして使っていました。
右下に見える小さな壺のようなものは「コカイン製造機」です。
インディオたちはアンデスに生えるコカの葉を集めて細かく刻み、この壺に入れ、貝殻の粉末と混ぜ合わせてコカインを作り、厳しい高地での生活に潤いを与えていました。
コカインと言えば悪名高い麻薬ですが、昔は医療用として普通に使われていました。
あの「コカ・コーラ」にもかつてはコカインが入っていましたし、かの名探偵シャーロック・ホームズもコカイン中毒という設定でした。
現在のコーラはコカインの代わりにカフェインを入れていますが、今でもコロンビアやボリビアの先住民はコカを栽培し、自分たちで食用や薬用として使っています。
コロンビアは一時期、麻薬カルテルの暗躍で恐れられた国ですが、先住民たちは西洋人がやってくるはるか前からコカインを使っていたのです。それは彼らの生活になくてはならないものでした。コカインを麻薬だ何だと言って厳しく取り締まるようになったのは最近のことです。
ボリビアではコカの栽培が合法ですが、アメリカ政府は麻薬撲滅という口実の下、コロンビアやボリビアのコカ畑に強力な除草剤を撒いて根こそぎ枯らそうとしています。
そのせいでアンデスの農民は自分たちの食べるイモやバナナまで枯らされてしまい、大変な被害を被っているのですが、アメリカの掲げる「正義」の前には無力です。
日本でも大麻はご法度ですが、大麻と言っても正体はただの麻の葉っぱです。中毒性もなく、むしろタバコやアルコールの方がはるかに有害なのですが、なぜか大麻はダメで、タバコや酒は野放しです。
何かおかしいと思うのは私だけではないはずです。取り締まるべきものはもっと他にあると思うのですが……。
これも先住民の作った黄金の装飾品です。
キラキラと輝いてまぶしいくらいですが、コロンビアの先住民たちは高度な金細工の技術を持っていました。
黄金はそのままでは柔らかくてもろいので、銅との合金にして加工します。しかし、銅は腐食しやすいので、これまで残っている金細工のほとんどは青く腐食して輝きが失われています。
ここにあるのは奇跡的に盗難や流失から残った純金の装飾品です。今も輝きは失われていません。
中南米の先住民文化と言えば、メキシコのアステカ、グアテマラのマヤ、ペルーのインカなどが有名ですが、コロンビアではシヌー、タイロナ、ムイスカ、チブチャ、キンバヤなどの文明が栄え、特に金細工の技術力は最も完成度の高いものです。
中でもコロンビア中部で栄えたチブチャ族の文明は、南のペルーで栄えたインカ帝国にも匹敵するほどの高度なもので、今もコロンビアの各地に彼らの遺跡が遺されていて、それは目を見張るものがあります。
これはサン・アグスティン遺跡の石像です。
サン・アグスティン遺跡は世界遺産に登録されているコロンビアの先住民の遺跡ですが、ボゴタからは飛行機で2時間、さらに車と馬を乗り継いで行かねばならず、まだ私も足を運んだことはありません。
残念ながら、黄金博物館内の写真で我慢していただくしかないのですが、いつか行ってみたいですね。
写真のようにイースター島のモアイのような、日本の土偶のような、奇妙な石像が林立しています。
征服者スペインによって荒らされてしまい、現在まで残っているものは大変貴重です。
南米の先住民はモンゴロイド系なので、我々日本人にも共通するところがあり、遺跡や装飾品を見ていると、どこか懐かしい感じがするのは私だけでしょうか。
昔、『黄金バット』という漫画がありましたね(ふ、古い……)。
これは「コロンビアの黄金ジェット」と呼ばれるものです。
黄金で作られたジェット機の模型のようなものですが、今から40年ほど前にシヌー文明(紀元500~800年に栄えた先住民文化)の遺跡から出土したものです。
近くで見てみると、確かに飛行機そっくりです。ちゃんと翼や垂直尾翼らしきものがついています。
このことから、コロンビアの先住民は飛行機を作る技術を持っていて、実際に黄金の飛行機で空を飛んでいたのではないか、という憶測が流れ、長いこと黄金ジェットはオーパーツ(場違いな加工品)として世界の謎とされてきました。
事実、アメリカの専門家は「航空力学にかなう形状をしている」と述べ、黄金ジェットそっくりの飛行機を作って飛ばしてみせました。
しかし、形がこの地でよく見かけるプレコというナマズに似ているため、現在では先住民がプレコを模って作った装飾品ではないか、との説が有力です。
でも、歴史にはロマンが必要というのが私の信条です。コロンビアはペルーの「ナスカの地上絵」にも距離が近いですから、もしかしたら古代コロンビアの先住民たちは黄金の飛行機で地上絵を見物に行っていたのかもしれません。
これは先住民が儀式などで使っていた純金製の壺です。
デザインが洗練されていますね。現代でもじゅうぶんに通用する代物だと思います。
コロンビアの先住民は金細工の加工技術においてはほぼ完成されたレベルで、同じ南米でもペルーのインカ帝国の初期のものと比べてみて、明らかにコロンビアの方が完成度が高いです。
16世紀にこの地にやってきたスペインの征服者たちは、現在のパナマ地峡で地元のインディオが金の装飾品を身にまとっているのを見て、「この先にはきっと黄金の国がある!」と思い込み、コロンビアを征服していったのですが、ボゴタのあたりまでやってきて、彼らが見つけたのはわずかな金脈とエメラルドの鉱脈だけでした。
現代でも金は貴重品ですが、ここに残っているものは略奪や流出を免れたものばかりですから、もう値段もつけられないくらい価値の高いものです。
写真はコロンビアの先住民タイロナの文化が生み出した黄金の像です。
タイロナ文化は現在のラ・グアヒラ半島(カリブ海に突き出した砂漠の半島)のあたりに栄えた先住民の文化で、16世紀半ばにスペインによって征服されるまで、コロンビアの先住民文化では最も隆盛を誇りました。
タイロナ人はカシーケ(首長)の下でゆるやかな連邦制国家を築いており、計画的な都市建設、運河、貯水池を持ち、組織的な軍隊制度も持つ高度な文明を有していました。
中でも特筆すべきなのは彼らの金細工技術の高さです。複雑な形状のペンダントや、写真のような人形を数多く残しました。
コロンビアの先住民はおおむね温和でフレンドリーな民族だったようで、好戦的で捕虜の心臓を生贄として捧げていたメキシコのアステカ文明のような獰猛さはなく、みんな平和に穏やかに暮らしていたようです。
それだけにスペイン人に征服されるのも早く、彼らの末裔は今もアンデスの奥地で細々と独自の生活を営んでいますが、近年はゲリラや麻薬業者の脅威にさらされています。
黄金博物館の展示室です。
ここは最近改装されたばかりで、写真は昔からある貴重な財宝を展示している部屋なのですが、警備は厳しく、入り口は銀行の大金庫のような厳重な扉になっていて、室内では警備員が常に目を光らせています。
写真撮影はフラッシュを使わなければOKです。みんな真剣に展示品を見ていました。
新しい展示室の方はもっと明るくて、この日は地元の小学生たちが社会見学でやってきていて、楽しそうに先生の話に耳を傾けていました。
コロンビアに来た方は是非、一度は足を運んでみてください。
すでに述べましたが、コロンビアでは猫の姿を目にする機会が少ないです。
犬はどこの通りにもいて、お使いを頼まれた大きな犬が買い物袋をくわえて走っていく微笑ましい光景に出くわしたりするのですが、猫はほとんど見かけません。
猫が女性の性病の原因になる、という偏見が根強く、ここではあまり猫が好まれないのです。猫好きの私には何とも残念な話です。
猫にとっては謂れのない差別でしかなく、コロンビアの猫ちゃんたちはさぞかし肩身の狭い思いをしていることでしょうが、猫は結構しぶとい動物ですから、そんなことはまったく気にしていないのかもしれません。
コロンビアでは不人気な猫ですが、コロンビアの先住民たちは猫が好きだったのか、黄金博物館に純金製の猫がいました。
と言っても、これはネコ科の猛獣「ジャガー」なのですが、どことなく可愛らしいとは思いませんか?
私などはどう見ても日向ぼっこを楽しむ普通の猫ちゃんにしか見えないのですが、こういうところもコロンビア的な大らかさなのかもしれません。
ボゴタのセントロ(旧市街)を歩いてみましょう。
なんかいい匂いが漂ってきました。写真は軽食の露店です。
コロンビアではどこの街でもこうした露店が立ち並んでいますが、このお店ではチョリソー(豚の腸詰め)を軒下に吊るして売っていました。
右手に見える鍋ではバナナを油で揚げています。香ばしい匂いが食欲をそそります。
左手の鉄板の上に並んでいるのはアレパ(トウモロコシのパン)です。コロンビアでは定番の料理です。
ここはヒメネス通りの近くにあるプラザ(広場)です。
この日は天気が悪く、今にも雨が降ってきそうでしたが、事実、この30分くらい後に豪雨になりました。
コロンビアは町の至る所にこういう広場があり、市民の憩いの場になっているのですが、この日も雲行きが怪しいのに傘を差して座り込んでいる人が大勢いました。
日本では「治安の悪い国」程度のイメージしかないコロンビアですが、常識的な行動をしていれば、危険に巻き込まれることはほとんどないと言っていいでしょう。
ただ、貧富の格差が激しく、ボゴタでもあちこちで物乞いの人を見かけます。親子でスーパーマーケットや教会の入り口に座っていて、お金や食べ物を求めてくる人もいます。
そういうところはコロンビアの「暗部」なのでしょうが、この国は少しずつではありますが、治安も格段に良くなってきているし、経済も成長し続けています。
何よりも特筆すべきなのは、コロンビア独自の社会主義制度とも言うべき「エストラト制度」です。
これは地区の住民を1~6段階に分け、所得に応じて様々な特典を与えるというものです。たとえば、レベル1や2の低所得者の住む地域の住民には、税金を免除したり、教育・医療は無償、生活用品も安くなるなどの優遇措置が課せられるのです。
レベルが5~6の地区の人は高額所得者ですが、彼らの払う税金でレベルの低い地区の人々の生活を支える、という仕組みです。
たくさん稼いでいる人が貧しい人を助ける、という発想ですが、これはキリスト教の人道主義や友愛主義の思想の影響もあるのでしょう。
「コロンビアは社会主義国か?」と勘違いしそうなほどの手厚い社会保障制度なのですが、コロンビアは近年の経済成長で着実に豊かな国民が増えており、明らかに「低所得層」ではないにも関わらず、そのままレベルの低い地区に住みながらエストラト制度の恩恵を受けている人もいます。
私などは「ずるいじゃないか」と思うのですが、コロンビアでは不思議とこの制度を見直そうという動きはありません。日本で同じことをやったら富裕層が反発しそうなものですが、そこはコロンビア的大らかさと言うか、誰も気にしないようです。
凶悪な犯罪も多いし、貧しい人は本当に貧しいのですが、一方で社会主義的な政策があり、施しの精神があり、豊かになる国民も増えています。
コロンビアは今、大いなる矛盾を抱えながら、明るい未来に向かって力強く邁進している――。日本人の私はそんな印象を受けました。
これはボゴタ最古の病院「サン・ペドロ病院」の壁に描かれた説明文です。
1564年創設ですから、今から440年以上前です。日本は戦国時代ですね。いかに古いかお分かりいただけると思います。
ボゴタにはこの他にも歴史的な建造物が数多くあります。
標高が高く酸素が薄いため火事の心配がほとんどないことと、記録上、大きな地震がないため、築400年という日本では信じられないほど古い建物が多いのです。
セントロはこうした歴史の重みを感じさせる古い街並みが広がっているのですが、すぐそばには近代的な高層ビルが立ち並ぶオフィス街があり、古いものと新しいものがバランスよくミックスされています。
これはセントロの通りです。
スペイン統治時代から時間が止まってしまったかのような錯覚を覚える通りですが、車道をよく見てください。幅が狭いですね。これは馬車が走っていた時代に作られた舗装道路なので、道幅もそれに合わせて作られているのです。
排水溝のない道が多いので、雨が降ると泥沼化してしまうところも多いのですが、コロンビア人はあまり気にしないようです。
私などは「なんで、最初から排水溝を作らないんだ?」と思うのですが、コロンビアでは誰もそんなことを気にしていないので、私も「郷に入りては郷に従え」で気にしなくなりました。
コロンビアは「矛盾の国」と言われます。国民性は真面目で勤勉なのに、非常にアバウトなところがあったり、雨が降ることが分かっているのに道に排水溝を作らなかったり、ラテン系なのにシエスタ(昼寝)の習慣はなく、朝から晩までがむしゃらに働いています。
ボゴタに限って言えばせっかちな人が多いのですが、基本的に性格はおっとりしていて、大らかな人が多いのが特徴です。
このあたりは今にも崩れ落ちそうな家(と言うか、ほとんど半壊しています)が多いのですが、建て直そうとか、街を近代化しよう、といった日本人的な発想はなく、「ええんじゃ、ええんじゃ。このままでええんじゃ」みたいなコロンビア的なところが私は好きです。
1枚目の写真は「旧大統領官邸」です。
ずっと昔はここがコロンビア大統領の邸宅でした。外国の来賓もここに泊まりました。
2枚目の写真は「国立コロン劇場」です。非常に由緒のある古い劇場です。大統領官邸の正面にあります。
昔は大統領官邸で国賓をもてなした後、正面のコロン劇場で観劇する、というのが定番でした。劇場の中は歴史を感じさせる重厚な造りなのですが、あいにくこの日は休館日でした。
写真はラファエル・ポンボ(1833~1912)というコロンビアの童話作家の生家です。コロン劇場の近くにあります。
大きなぬいぐるみが置かれてあって、いかにも子供が好きそうですね。私は彼の作品を読んだことはありませんが、コロンビアでは結構人気の作家だったようです。
関係ないのですが、ここでは子供の頭を撫でたり、保護者の同意なしに子供の写真を撮ったりすると誘拐犯に間違われることもあるので注意が必要です。
それだけ子供が誘拐や性犯罪の標的になりやすいということなのでしょうが、コロンビアの治安が悪いとされる理由のひとつに「刑罰が軽い」ということがあると思います。
コロンビアに死刑制度はなく、終身刑や無期懲役もないので、最高でも30年の禁固刑が科されるだけです。
1999年、ルイス・ガラビートという男が警察に捕まり、子供ら200人以上を誘拐し強姦・殺害していたことを自白して、コロンビア社会に衝撃を与えました。
ガラビートは法定刑の上限である30年の刑になるとみられていましたが、捜査に協力的だったことから減刑され、判決は22年でした。
200人も殺しておいて22年の刑は軽すぎると思いますが、ガラビートは獄中での服役態度によっては仮釈放の可能性もあり、さすがに殺人事件には慣れっこのコロンビア人も憤慨し、死刑の復活や終身刑の導入を求める声が上がりました。
死刑制度については賛否両論あると思いますが、やはり何人殺しても死刑にならないのでは犯罪抑止にならないと思います。
これはボゴタの「陸軍博物館」です。
コロンビアの軍事に関する歴史や展示品を紹介しています。入り口には武装した兵士が立っていて、持ち物は検査されます。
コロンビアでは結構いろんなところで手荷物検査や身体検査を受けることがあります。コロンビアの警察官は日本の警察と違い、少しもためらわずに銃を発砲してきますから、もし呼び止められても下手に抵抗せずに従うようにしてください。命あっての物種ですから。
ただ、コロンビアという国の持つ「空気」というものはどことなくふんわりしていて、緊張感を感じさせません。
日本ではゲリラとか麻薬とか誘拐とか内戦とか危険なイメージの報道しかない国なので、そのギャップが凄いです。
さあ、いよいよボゴタ中心部のプラザ・デ・ボリーバル(ボリーバル広場)にやってきました。
ここはコロンビアを象徴する場所で、表玄関とも言うべき重要なところです。たいていの旅行書にはボリーバル広場の写真が載っています。
1枚目の写真に見える古めかしい教会は「ラ・カテドラル(教会)」と呼ばれ、南北アメリカで最も美しい教会と言われています。
教会の前にある小さな銅像が南米独立の父シモン・ボリーバルの像です。隣の塔はクリスマスの巨大なツリーで、気の早いコロンビア人はクリスマスの1ヵ月以上も前から準備に躍起になっていました。
広場に面して3つの重要な施設があります。まず、2枚目の写真ですが、これは国会議事堂です。この日は議会の開催中で、隣接する議員会館では議員たちが忙しそうにしていました。
3枚目の写真は最高裁判所です。法務省のビルと一体になっています。後述しますが、ここでは昔、テロリストによる人質事件が起こり、激しい銃撃戦の様子が世界中にテレビ中継されました。
4枚目はボゴタの市庁舎です。ボリーバル広場を囲むように、官公庁の重要施設が立ち並んでいます。
この日は晴れたり曇ったりで、午後には雨も降ったのですが、暑くも寒くもなく、絶好の散歩日和でした。
さて、歩き疲れて腹も減ったので昼食にしますか。
これはボリーバル広場近くの裏通りにある庶民的なレストランですが、なかなかのお味です。
前菜のスープはジャガイモとプラタノ(料理用バナナ)が入っています。ニンジンのようなものがプラタノです。ほんのりと甘みがあります。
小皿に入っているのは香草入りの調味油です。好みでスープに入れたり、肉料理や付け合わせの野菜類にかけたりして食べます。
コロンビア料理は味付けが基本的に塩のみで、味噌や醤油の濃い味付けに慣れている日本人からすればちょっと物足りなさを感じることもあるのですが、ボゴタは高地で酸素が薄いせいか平地よりも疲労が激しく、じっとしていてもすぐに空腹を感じるのでなんでもおいしくいただけます。
コロンビアの人は強烈な甘党が多く、デザートには必ず口がヒン曲がりそうなくらい甘々のスイーツが出てくるのですが、これも高地で体力の消耗が激しいので、おのずと体が甘いものを欲しがるせいでしょう。
飲み物は生のイチゴジュース、デザートはバナナのケーキで、どちらもやたらと甘かったです。
メインの肉料理は牛肉をトマトソースで煮込んだものです。ここでは肉と言えば脂身のない赤身の肉が主流で、ボゴタ郊外の農村地帯では牧畜が盛んなのですが、食用の牛はなぜか背中にコブのある痩せた牛です。肉は硬くなく、柔らかくて食べやすいです。
ライスは少し水気が多くてベチャベチャしているのですが、タイ米のような臭みがなくて、日本人の口に合うと思います。もっとも、これは私の主観なので、一概には言えませんが……。
コロンビアは水資源の豊富な国で、稲作も盛んなのですが、日本が戦後の食糧難の時にコロンビアが米を送ってくれた国であることはあまり知られていません。
コロンビアの日系人はブラジルやペルーに比べて少ないのですが、それでも戦前は福岡県から南部のカリという町に集団で移住し、今もカリ近郊のパルミラというところに日系人のコロニーがあり、2千人ほどの日系人の方が暮らしています。
コロンビアは肥沃な土壌と豊富な資源に恵まれた国で、コロンビアの日系人は南米の移民では最も成功したケースと言われています。
「地球上で人類が抱える問題を独自に解決できる国はコロンビアとブラジルくらいのもの」と言われるほど資源に恵まれ、気候が温暖で、国民性も真面目で勤勉な国ですから、内戦が終われば、この国の将来は明るいものになるでしょう。
写真はカーサ・デ・ナリーニョ(ナリーニョ宮殿)です。
これはコロンビア独立の父アントニオ・ナリーニョ(1765~1823)の生家で、1908年からコロンビア大統領の官邸として使われています。
宮殿内には豪華なタペストリーや、南米最古の天文台もあるのですが、ここは大統領のいる場所ということもあって警戒は厳重で、宮殿の横は歩けますが常に兵士が目を光らせていて、歩行者は手荷物検査を受けます。
この日は大統領は不在でした。なので、警戒中の兵士もどこかのんびりしていました。宮殿内の駐車場には大統領専用の救急車が停まっているのですが、この日はそれが見えなかったので、大統領はどこかに行っていることが分かります。
写真撮影は特に問題はないようですが、あまり写真を撮ってばかりいると怪しまれます。最悪の場合は身柄拘束、カメラの没収もあり得るので注意してください。
写真は宮殿の裏側です。左手の道をテクテク歩いていくと正面側に出ます。正門には19世紀の独立戦争当時の格好をした衛兵が立っていて、交代式では200人もの衛兵が整然と行進する光景は圧巻です。
写真は大統領府のすぐそばにあるボゴタの名門校「コレヒオ・マヨール・デ・サンバルトロメ学院」です。
ここはコロンビアでも特に古い由緒のある学校なのですが、コロンビアの初代副大統領であるフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール将軍の母校として有名です。
サンタンデール将軍はボゴタの出身ではありませんが、彼は13歳でこの学校に入り、法学を修めた秀才でした。
コロンビアは南米で最も古い民主主義国家と言われます。中南米では当たり前のように繰り返されたクーデターや独裁がほとんどなく、19世紀の独立以来、約200年にわたって一貫して民主体制が維持されてきたという珍しい国です。
これはコロンビアが山がちの地形で、中央政府の支配力が地方に及びにくかったために強力な独裁者が現われなかったという地勢的条件もあるのですが、何よりも重要なのは、サンタンデール将軍が「法による支配」の確立を目指し、その後の民主主義統治の礎を築いたという点です。
コロンビアでは大統領の任期は4年で、再選は1回だけと憲法で決まっているため、歴史上、独裁的な大統領というのがいません。
内戦で国情が不安定なのは19世紀以来の「伝統」でもあるのですが、コロンビアは不思議とクーデターや軍事政権といったものが登場することはなく、基本的に自由党と保守党の二大政党制の下で政権交代を繰り返してきました。
これは政情不安の南米では極めて珍しいことなのですが、民主主義の伝統を持ち、真面目な国民性ということもあって、コロンビアは昔から政治的には安定しています。
写真は「サン・アグスティン教会」です。ボゴタで最も古い教会です。
16世紀半ばにスペインがこの地を征服し、まず最初に作ったのは教会です。侵略者たちは「ランス(槍)と聖書を持って」現われ、先住民インディオを虐殺しながら、彼らをキリスト教に改宗させ、効率的に植民地支配に取り込んでいったのでした。
スペインの植民地当局は、広大な南米を統治するために、「エンコミエンダ制」という独自の方法を採ります。
これは宣教師を地方に派遣し、そこのインディオたちを改宗させておいて、白人の入植者たちにインディオをエンコメンダール(委託)し、彼らを保護する代わりに税金や労働力を徴収してもよい、という制度です。
保護と言えば聞こえはいいですが、実態は奴隷制度です。コロンビアはカトリックの国ですが、教会は非常に大きな権力を持っていて、独立後も全土の3分の1は教会の領地で、農民やインディオは奴隷と何ら変わりませんでした。
独立戦争を指導したシモン・ボリーバルは、カトリックを国をまとめるための手段として教会を保護しますが、ボリーバルの側近だったサンタンデール将軍は教会から権力を取り上げ、「政教分離」という今日の先進国では当たり前の体制を目指そうとします。
この両者の対立が、その後のコロンビア内戦の下地にもなっているわけですが、自由党がサンタンデール派、保守党がボリーバル派とされています。
コロンビアでは都市から農村まで自由党と保守党で二分化され、どちらの政党に属するかで対立と衝突を繰り返してきたのですが、どんなに内戦が激しくなっても国が分裂することはなく、適当なところで妥協して国をまとめてきたのはコロンビア的と言うか、さすがだなと思います。
それはともかく、教会というものは暗い血塗られた歴史の遺物でもあるのですが、400年の風雪に耐えてきただけあって侵しがたい風格があります。
コロンビアはカトリックの国ですが、国民はさほど敬虔なクリスチャンというわけではなく、日曜日にもなれば家族で教会に行ってお祈りをするような熱心な信者は少ないようです。
これはサン・アグスティン教会の内部。
この日は平日でしたが、熱心な信者が来てお祈りをしていました。
見事な内装に目を奪われますが、奥の祭壇?のキンキラはメッキです。純金は使っていません。たぶん……。
この教会が作られたのは日本の戦国時代。まだ信長や秀吉が活躍していた時代ですが、ボゴタは地震もなく火災も少ないので、こういう歴史の古い建物が普通にあちこちに残っています。
地震大国の日本から見れば、なんともうらやましい限りですね。
これは教会の外壁。
歴史を感じますね。日本だったらとっくに地震で崩れていそうな石造りの建物ですが、ここは大地震がないので当たり前に残っています。
これで築400年以上ですよ!信じられますか?
私もスペイン統治時代のコロンビアにタイムスリップした気持ちで散策を楽しんだのでした。
これはサンタ・クララ教会という古い教会の壁です。
これも17世紀の初めごろに建てられたものですから、370年以上経っていますが、そのままの形で残っています。
壁を見ていただければ分かると思いますが、ただレンガを積み上げてセメントで固めたものです。
コロンビアの建物は、だいたいこんな感じなのですが、地震がないから何百年も普通に残っているのです。
私が昔行ったイタリアのローマもそうでしたが、日本なら国宝級の歴史的な建造物に当たり前に人が住んでいるのです。
ところ変わって、ここはボゴタ随一の土産物屋通りです。
古めかしいお店が立ち並び、骨董品や民芸品や民族衣装などが所狭しと並べられて売られています。
南米は北米と違い、先住民を迫害・虐殺はしても、彼らの文化を北米のように徹底的に抹殺・排除することなく吸収・同化していったので、今もあちこちに先住民文化の名残が残っています。
特にコロンビアは南米でも混血率が最も高い国ですが、白人系なのに東洋系のような顔立ちの人もいて、「ああ、この人の先祖はモンゴロイドの先住民だったのだな」と感じることがあります。
北米ではインディアンは「絶滅対象」であり、南米のように積極的に混血化することなく、白人は白人だけで固まって暮らし、インディアンを狭い居留地に押し込めて根絶やしにしていったわけですが、南米ではそういうことがありませんでした。
南米は北米のような人種差別も少ないのですが、スペインの征服者たちはよく見知らぬ土地にやってきて、何の抵抗もなく原住民と結婚して子孫を残せたと思います。
日本でもハーフに美人が多いように、コロンビアに美男美女が多いのも混血が多いからで、異質な文化を排除せずに取り込んでいったところにコロンビア的な大らかさを感じずにはいられません。
またボリーバル広場に戻ってきました。
これは先程も少し紹介しましたが、ボゴタの最高裁判所兼法務省ビル(Palacio de Justicia 通称:正義宮殿)です。
年配の方はご記憶にあるかと思いますが、ここは悲劇の場所でもあります。
1985年11月6日、ボゴタの最高裁を左翼ゲリラ「4月19日運動(M19)」のコマンド35名が襲撃、ベリサリオ・ベタンクール大統領(当時)との「和平のための直接交渉」を要求し、最高裁にいた国会議員や判事、市民ら300人以上を人質に取って立てこもりました。
アルフォンソ・レイエス最高裁長官の攻撃中止要請にも関わらず、コロンビア政府はゲリラとの交渉を拒否して武力解決を図り、戦車まで繰り出しての28時間にもわたる激しい銃撃戦の末に政府軍部隊が突入。
ゲリラ・メンバー35人は全員殺害され、最高裁は制圧されたのですが、作戦の過程で最高裁長官と判事11人、市民60人を含む人質115人が犠牲になりました。
この事件では当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった麻薬密売組織「メデジン・カルテル」の最高幹部パブロ・エスコバルが、自身の身柄をアメリカ当局に引き渡そうとするコロンビア政府と対立し、これを阻止するためにゲリラと裏取引し、最高裁長官の暗殺と麻薬関連書類の焼却を依頼していたことが分かっています。
戦闘の様子はテレビで世界中に中継され、日本でも大きく報じられましたが、一国の法の権威である最高裁が反逆者に襲われ、炎上して瓦解するシーンは強い衝撃を与えたものです。
余談ですが、M19は事件の約5年前の1980年2月27日、ボゴタのドミニカ共和国大使館を襲撃・占拠し、ドミニカ独立記念日のパーティーに出席していたアメリカやエジプトなどの各国大使ら52人を人質に取り、政治犯の釈放を要求する事件を起こしています。
これは1975年8月4日、日本赤軍がマレーシア・クアラルンプールの米国・スウェーデン両大使館を占拠し、米大使らを人質に「あさま山荘事件」で逮捕された同志たちの釈放を要求、日本政府が「超法規的措置」で要求に応じた事件を参考にしたと言われています。
当初、M19はボゴタの日本大使館を占拠する計画を立てていましたが、当時の日本大使館は高層ビルの最上階にあり、長期の籠城には不向きと判断。平屋建てのドミニカ大使館を狙ったのです。
この事件ではコロンビア政府が政治犯の釈放と犯行グループのキューバ出国を認め、発生から61日後に1人の犠牲者も出すことなく解決しましたが、この時の犯人グループがひそかにコロンビアに帰国し、最高裁占拠事件を起こしたのでした。
ちなみに1996年12月17日に発生した在ペルー日本大使公邸人質事件で、犯行グループの「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」はM19の「弟分」のような組織であり、ドミニカ事件の再来を狙ってあの事件を引き起こしたと言われています。
現在の最高裁は事件後に再建されたものです。26年前の惨劇が夢のように、大勢の市民たちでにぎわっていました。
最高裁を見下ろすように静かにたたずんでいるのがシモン・ボリーバルの銅像です。
ボリーバルは、南米のベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビアの5ヵ国をスペインの支配から解放し、南米では「El Libertador(解放者)」と呼ばれ、どこの国にも彼の像と彼の名前を冠した地名があります。
ボリーバルはベネズエラの出身ですが、独立後の諸国をまとめて「大コロンビア」というひとつの巨大な国家を築き、その大統領に就任したため、実質的にコロンビアの初代大統領はボリーバルです。
南米を統一するというボリーバルの壮大な夢も、晩年はかつての同志たちの裏切りに直面して夢破れ、赤貧の中で世を去っていったボリーバルですが、今でもボリーバルはたいへんな人気があります。
この日は近くで工事をやっていて、近付いて撮影することが出来なかったので、裏側と少し離れて正面から撮りました。
それにしても鳩が多いですね。日本のように餌付けを禁止する法令もないし、駆除しようともしないので、人間より鳩の方が多いくらいですが、これもコロンビア的な光景でしょう。
こちらは国会議事堂の正面です。
中庭にはやはり解放者ボリーバルの銅像が立っていますね。
コロンビアでは今年、政府の教育改革法案に反対する学生のデモが激化していて、大学の民営化と授業料の値上げに反発するデモ隊が警官隊と衝突しています。
この写真を撮った数日前にも大きなデモがあり、学生集団がペンキの入った袋を投げつけて抗議したので、議事堂のあちこちにその跡が残っていました。
建物の上から垂れ下がっているカーテンのようなものは、ペイント弾攻撃を防ぐためのものです。
コロンビアは昔から教育に力を入れてきた国で、国民の識字率はほぼ100%近いのですが、授業料が上がると学校に通えない人もいますから、学生たちが憤慨するのも分かるような気がします。
日本でも昔は学生運動が盛んでしたが、国民が豊かになるとすっかり姿を消してしまいました。
テロも暴動も起こらない日本は平和でいいのかもしれませんが、いつの時代も世の中を動かしてきたのは若い世代です。コロンビアが長いスペインの支配から独立を果たした時、初代大統領ボリーバルは36歳、副大統領のサンタンデール将軍は27歳という若さです。
コロンビア人は自分たちで自由を勝ち取ったという歴史を誇りにしているので、愛国心が強く、何かあるとすぐに団結して行動を起こします。日本人は戦後の自由も民主主義も占領軍アメリカから与えられたものなので、イマイチ政治に疎く、愛国心も薄いのかもしれません。
まあ、何でもすぐに暴力に訴えるのはどうかと思いますが、日本人のようにあまりにも大人しすぎるのも問題だと思いますね。
ちなみに、ボゴタの街は落書きが多いですが、これは落書き行為を取り締まる法律がないためです。
落書きはコロンビアでも社会問題になっているのですが、そこはコロンビア人気質と言いますか、なかなか国が動かず、法律も出来ないため、いつまでも野放しにされています。
団結力も行動力もあるのに、変化のスピードは遅く、国民性は真面目で勤勉なのにアバウト、大らかで現状に不満を感じないという矛盾したところがコロンビア人の特徴です。
ヒメネス通りにやってきました。ここではエメラルド原石の取引が行なわれています。
コロンビアと言えば「コーヒー」を連想する方が多いと思いますが、コーヒー豆と並んでコロンビアを代表するものがエメラルドです。
コロンビアはエメラルドの産出量が世界一で、ボゴタ郊外にあるムソー、チボール、コスクエスマインの三大鉱山が有名です。
コロンビアのエメラルド取引を一手に仕切っているのが、早田英志さんという日本人です。早田さんは1970年代前半、たったひとりでコロンビアにやってきて、無法状態だったエメラルド鉱山に乗り込み、一代で巨万の富を築いたという武勇伝の持ち主です。
通りいっぱいに並んでいるおっさんたちは「エスメラルデーロ」と呼ばれるエメラルド商人です。鉱山から掘り出されたばかりの原石を買い付け、加工業者に渡して、あの深い緑色の神秘的な宝石が生まれるのです。
コロンビアに来たお土産にエメラルドを買っていく人も多いのですが、信用のおける専門店でお買い求めになることをお勧めします。素人だとガラスを染めただけの偽物をつかまされます。100ドル以上払わないと、いいものは買えません。
この通りには「エル・ティエンポ」というコロンビア最大の発行部数を誇る大手新聞社の本社ビルもあり、ボゴタ随一の目抜き通りになっています。
サンフランシスコ教会です。これも古い教会です。ヒメネス通りに面しています。
私は宗教に関心はありませんが、日本でも寺社仏閣を見るのは好きなので、ボゴタのように歴史の古い街の教会を見物するのは好きです。
特にこの教会は派手な装飾がなく、落ち着いた雰囲気なので好きなのですが、これもおそらく16世紀の後半ごろの造りです。400年という時間の重みを感じます。
この日は信者は少なかったのですが、2枚目の写真の祭壇のようなところで司祭?のような人が説教をしていました。
出口のところには物乞いの人がいて、コロンビアの貧困を目の当たりにするのですが、同じ貧困でも私が昔メキシコで見たような悲壮感はなく、どことなくのんびりしているのはいかにもコロンビアらしいです。
タクシーに乗っていると、インディオらしき人が手にプラスチックのコップを持ち、お金をねだってくるのですが、いったん同情心に負けてお金を恵んでしまうと、それを見た他の物乞いの人たちがぞろぞろ集まってきて収拾がつかなくなることがあります。
ボランティア活動で来た人でもない限り、中途半端な同情はかえって残酷なので、安易な気持ちで施しをするのは避けた方が無難です。
写真はコロンビアのお札です。
コロンビアの通貨はスペインやメキシコやフィリピンと同じ「ペソ」です。
20、50、100、200、500ペソの硬貨と、1000、2000、5000、10000、20000、50000ペソの紙幣があります。
だいたい1米ドル=2000コロンビア・ペソです。コロンビアは南米では物価の安い国なのですが、前述の「エストラト制度」で住む地区によって物価が異なります。
たとえば、スーパーで同じ品物を買うにしても、低所得者層の多い地域では安いのですが、中流以上の地区では高かったりします。
私は外国に行くと、その国の紙幣の「顔」である人物を調べるのが好きなのですが、コロンビアでは独立戦争の英雄たちや、国民に人気のあった政治家が多いです。
写真は1000コロンビア・ペソ札ですが、描かれているのはホルヘ・エリエセル・ガイタン(1903~1948)というコロンビアの政治家です。
ガイタンは弁護士出身の自由党の有力議員で、1928年12月、カリブ海沿岸のシエナガという町で起きたバナナ農園の労働者のストライキと弾圧事件(一説には死者千人以上とも)で政府を激しく攻撃し、一躍、貧しいコロンビアの庶民の英雄になった人物です。
南米ではアルゼンチンのフアン・ペロン大統領のように一般大衆の圧倒的な支持を背景に権力を掌握し、ポプリスモ(人民主義)を掲げて改革を行なった政治家が多いのですが、コロンビアでは民主主義統治の原則が維持されてきた反面、二大政党制の壁に阻まれ、他の南米諸国のような革命が起きませんでした。
ガイタンはそんなコロンビアの体制に挑戦した革命家であり、自由党政権下では閣僚を歴任したりして、非常に影響力のある有能な政治家でした。「大統領に最も近い男」として庶民の期待も大きかったのです。
しかし、次期大統領選挙での当選が確実視されていた矢先の1948年4月9日、ガイタンはボゴタで暗殺されてしまいます。犯人のフアン・ロア・シエラという青年も、その場で激昂した群衆に殴り殺されてしまい、犯行の動機や背後関係は永遠に闇の中に葬られてしまいました。
事件の真相は今も不明のままですが、ガイタンの暗殺をきっかけにボゴタでは「ボゴターソ(ボゴタ大暴動)」と呼ばれる暴動が起こり、コロンビアはその後、10年にもわたる内戦「ラ・ビオレンシア(暴力の時代)」を迎えるのです。
歴史に「もし」は禁物ですが、もしもガイタンが生きて大統領になっていたなら、コロンビアは血みどろの内戦に陥ることもなく、民主的な改革に成功していたかもしれません。
そう考えるととても残念なのですが、ガイタンは今も紙幣の顔となって国民に愛されています。
こちらは2000コロンビア・ペソ札と10000コロンビア・ペソ札です。
10000コロンビア・ペソ札に描かれている女性は、ポリカルパ・サラバリエタ(1795?~1817)という革命家です。別名「コロンビアのジャンヌ・ダルク」。
彼女は19世紀の独立戦争の最中、独立軍に協力した罪で処刑された悲劇のヒロインです。
2000コロンビア・ペソ札はコロンビアの初代副大統領フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール将軍(1792~1840)です。
将軍は南米独立の父シモン・ボリーバル(1783~1830)の盟友であり、側近中の側近として活躍した独立の闘士ですが、コロンビアには彼らの名前を冠した地名があちこちにあります。
ボゴタにはボリーバル広場があり、カリブ海に面した港湾都市カルタヘナはボリーバル県の県庁所在地です。サンタンデール県やノルテ・デ・サンタンデール県といった地名もあります。
コロンビアをはじめとする南米諸国は19世紀の初めに独立を勝ち取りましたが、これは日本で明治維新が起こる半世紀も前のことです。
ボリーバルもサンタンデールも国民的英雄であり、コロンビア人は彼らを誇りにしていますが、さしずめ日本では明治維新の立役者である勝海舟や坂本龍馬や西郷隆盛や大久保利通のような人物でしょう。
今日のボゴタは朝から曇りです。
ボゴタは山の中にあるので、晴れていても急に曇ってきて大雨が降ったり、雷鳴がとどろいたりするので油断は出来ません。
特に今は雨季なので、ほとんど毎日のように雨が降ります。
ただ、ここは赤道間近の熱帯地方にあるため、どんなに気温が下がっても雪が降ることはなく、年中日本の春か秋のようで過ごしやすいです。
ボゴタは空を見上げると雲が近くて、手を伸ばせばつかめそうな感じなのが好きです。
曇り空が似合う町なんてあまりないと思いますが、私は雲の似合うボゴタの空が好きですね。
ボゴタの朝のラッシュ時の光景です。
コロンビア人は朝早くから夜遅くまで働いています。
朝はまだ暗い5時くらいから交通量が増え始めるのですが、だいたい7時から8時ごろにラッシュのピークを迎えます。
道路はどこもすごく渋滞するのですが、ボゴタには鉄道網がないため、市民の足は自家用車かタクシーかバスしかありません。
交通渋滞を解消するため、ボゴタ市は2000年から「トランス・ミレニオ」という赤い連結式の大型バスを導入したのですが、一向に渋滞はなくなりません。
何しろボゴタだけで800万人近い人々が暮らしているわけですから、移動手段に電車がないというのは致命的です。
昔は路面電車が走っていたのですが、ボゴタはもともと行政上の首都というだけで、かつてコロンビア経済の中心地はもっと標高の低い西部のメデジンという大都市でしたから、ボゴタは近年の急速な都市化と近代化による人口増加にまったく追いついていないのです。
富裕層は自分の車を持っていますが、庶民の足と言えばもっぱらバスとタクシーです。
よく晴れた日の朝は空気が埃っぽくて、排ガスもひどいのですが、ボゴタは高地だけに酸素が薄くて不完全燃焼を起こしやすく、また車もメンテナンスされていないことが多いので、真っ黒な煙を吐き出しながら走っています。
メキシコの首都メキシコシティも標高2300メートルの盆地にあり、大気汚染のひどさで有名ですが、ボゴタはメキシコシティより高いところにあるにも関わらず、とても大きな盆地にあるため汚れた空気が町の中に溜まらず、メキシコのようなひどいことにならないのが救いです。
ガソリンと排ガスが混じったような独特の匂いがボゴタの朝の風物詩です。
さて、私は「モンセラーテの丘」にやってきました。
コロンビアの人たちは「丘」と呼んでいますが、頂上は標高3千メートルをゆうに超しているので、どう見ても立派な「山」だと思うのですが、ボゴタが標高2600メートルの高原にあるため、ちょっと丘に登るだけでそれほどの高さになってしまうのです。
ここはノルテ(市北部)から車で20分ほどのところにありますが、途中の山道はかなりの急斜面でクネクネと曲がりくねっているので、まるで日光の「いろは坂」のようでスリリングです。
コロンビアのドライバーは基本的に運転が荒っぽいので、私もタクシーに乗っていると、本当にこんな運転手に自分の命を預けてしまってもよいのだろうか、と不安になることがあります。
この日も丘の手前の交差点で追突事故が起きていて、とんでもなく渋滞しているので、タクシーを降りて丘まで歩いていきました。
日本ならすぐに警察が来て、レッカー車で車を移動させてしまうところですが、ここでは警察の調べにえらく時間がかかるのと、お互いに非を認めずにいつまでも口論しているので、事故が片付くのを待っていたら日が暮れてしまいます(笑)。
モンセラーテの丘にはケーブルカーとロープウェーで登れますが、専用の登山道は途中で崖が崩れていて、危ないため今は入れません。
ケーブルカーはかなりの急勾配をずんずん登っていくのですが、最近、自分が高所恐怖症であることに気付いた私は怖くて写真を撮ることが出来ませんでした(汗)。
写真は頂上付近の教会です。スペイン統治時代に造られたものですが、重機も何もなかった時代に大変な工事だったろうと思います。
ケーブルカーを降りて、しばらく石畳の登山道を歩いていくと、目の前にボゴタの壮大な景色が広がります。
この日は雨季でも奇跡的に晴天に恵まれ、まるで私にボゴタの絶景を撮ってくれと言わんばかりの天気でしたので、遠慮なく街の遠景をカメラに収めました。
こうして見るとボゴタがいかに広大な盆地の中に広がる大都市かがお分かりいただけると思います。
1枚目の写真はモンセラーテの丘からボゴタ市北部を写したものです。
眼下には高層ビルが立ち並ぶオフィス街が広がっています。
ボゴタはその昔、広大な沼地にあったため地盤が軟弱で、あまり高い建物は建てられないそうです。
歴史上、大きな地震がないため、それでも簡単な構造の建物でもいいわけですが、たぶん震度5強くらいの地震が来れば市内のほとんどは壊滅してしまうのではないでしょうか。
慢性的な交通渋滞を解消すべく地下鉄の建設計画もあるのですが、地面を掘ると地下水が染み出してきて工事が難しいため、実現するのはもっと先のことになりそうです。
2枚目の写真の中央奥に見える白い道のようなものがエル・ドラード国際空港の滑走路です。
この日は運よく飛行機が飛び立つところを見ることが出来ました。
写真に撮ろうとしたら、たまたま近くにいたお兄さんに記念撮影を頼まれ、シャッターチャンスを逃してしまいました(涙)。
私の腕時計は高度計の機能もついているのですが、モンセラーテの丘の頂上付近で高度は3025メートルを示していました。
私はボゴタで息苦しいとか、めまいや吐き気や頭痛を感じたことはないのですが、同行していた日本人のAさんはかなり苦しそうでした。
だいたい標高2300メートルあたりから高山病の症状が出てくると言われますが、個人差があるので一概には言えません。
私は鈍感なのか、3千メートルの高さでも何も感じません。
ボゴタ在住歴の長いAさんに言わせれば、この丘の頂上付近の空気は「硬い感じ」で、丘から降りると空気が「柔らかく」感じるそうです。
私もボゴタでは夕方5時くらいになるとガクンと疲れてしまい、夜はかなり早く寝てしまうのですが、やはり酸素が薄いと知らず知らずのうちに体力を消耗しているのかもしれません。
この地を征服したスペイン人たちも高山病には悩まされたらしく、当時は原因が分からないので南米特有の風土病だと思われていたそうです。
Aさんも「たまには低地に降りないと体が保たない」と言っておられますが、逆に低地に降りると今度は酸素が濃くて「酸素酔い」のようなことになるのでは、と思います。
私もボゴタにしばらくいて、標高の低い他の土地にも行きましたが、やはり鈍感なのか違いが分かりませんでした(汗)。
これはモンセラーテの丘にも近い「グアダルーペの丘」を望んだところです。
グアダルーペの丘には、16世紀後半にペドロ・デ・ルーゴ・イ・アルバラシンという人が作った有名なキリスト像のある教会があるのですが、こちらの丘はモンセラーテよりも高いところにある上、アクセスの手段が険しい登山道しかないため、私も行ったことがありません。
なので、遠くから白っぽい像のようなものを眺めていただくしかありません。
Aさんの話では「山賊が出る」とのことですが、こちらの丘も3千メートル以上の高さにあるのに、山頂付近まで青々と森が広がっていますね。
日本では絶対にあり得ない光景です。私はいつも不思議な気分になります。
Author:土屋正裕
1980年東京都生まれ。ひょんなことから南米コロンビアと関わるようになる。尊敬する人物は南米の解放者シモン・ボリーバルとコロンビアの初代大統領フランシスコ・サンタンデール。
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