『日本国紀』読書ノート(139) | こはにわ歴史堂のブログ

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139】第一次世界大戦へのイギリスの参戦理由が不正確である。

 

第一次世界大戦の「宣戦布告」の話がされています。宣戦過程なのですが…

 

「…これを受け、フランスとロシアの同盟国であるイギリスがドイツに宣戦布告する。」(P336P337)

 

と説明されているのですが、「同盟」と「協商」は実は違うのです。

ロシアとフランスの「同盟」と、イギリスとフランス、イギリスとロシアの「協商」はかなり違います。「協商」はinterest(利害)を調整して、友好関係を整えることで、援助義務規定をともないません。

イギリスとフランスは主としてアフリカにおいて、イギリスとロシアは中央アジア・中国などにおいて利害関係を調整し(勢力範囲をとりきめ)、相互に敵対的関係にならない、という「合意」をおこなっているものです。

これ、よく間違えるんですが、イギリスはフランス・ロシアに軍事的協力や安全保障を共有する(集団安全保障)ような約束はしていないんです。

「同盟」は「援助義務規定」が明記され、ロシアとフランスは1891年の同盟において政治協力、そして1894年において軍事協力を約しました。

よく生徒にも、露仏同盟が91年と94年、両方表記されている理由を問われるのですが、

1894年同盟は、より強化されたものであると説明します。

イギリスがドイツに宣戦布告したのは、「フランスとロシアの同盟国」だからでは実はありません。

意外に思われますが、第一次世界大戦前および開始段階ではイギリスは「中立国」だったんです。

極論を言うと、オーストリアとロシアの戦争(バルカン問題)、フランスとドイツの戦争(普仏戦争以来のアルザス・ロレーヌ問題)だけならイギリスは「傍観者」でした。

ところが、ドイツがフランスと戦うにあたって、ベルギーを通過することが有効な作戦(シュリーフェン・プラン)であり、ベルギーに対して通過の許可要求を出しました。

19世紀前半に、ベルギーはオランダから独立したのですが、その独立の条件として「永世中立」を宣言していて、オランダとベルギーをイギリスがとりもってこれを成立させました(ロンドン条約)

ドイツ・フランスの対立が激化しても、ベルギーが中立であるとドイツもフランスも有効な軍事展開ができません。西欧の安全保障の要がベルギーでもありましたし、何よりベルギーが占領された場合、イギリスの安全保障にも問題が生じます。

ですから、イギリスはベルギーとの友好・協力関係をずっと続けていました。

ところが軍事作戦の必要上、ドイツはベルギーを通過しようとしたのです。

ベルギーははっきりとドイツの「要請」を拒否します。「われわれは道ではない」と。

ところが、ドイツはそれを無視すると宣言しました。

イギリスは、このため、ドイツに宣戦しました。

ドイツ首相ベートマン=ホルヴェークは驚きました。「たった一片の紙きれ(ロンドン条約のこと)で戦争するのか…」と。

イギリスとベルギーの関係を甘く考えていたようです。

ですから、「フランスとロシアの同盟国であるイギリスがドイツに宣戦する」という表現は誤りで、このように説明する教科書は現在ではもうありません。

 

「ドイツは8月はじめ、かねてからの計画に従って、ロシアとフランスに宣戦し、中立国ベルギーに侵入して、まずフランスをめざした。イギリスは、中立国侵犯を理由にドイツに宣戦し…」(『世界史B』東京書籍・P337)

 

というように、ロシア・フランスの参戦経緯と明確に区別して示しています。

「三国同盟」(イタリアは連合国側で参戦して三国同盟として第一次世界大戦は戦っていない)対「三国協商」の戦い、という単純な説明は現在の教科書ではしていないのです。

 

以下は誤りの指摘ではありません。

 

「ヨーロッパ諸国で中立を保ったのは、永世中立国スイスを別にすると、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーなど、一部にすぎなかった。」(P337)

 

スペイン、オランダも中立でした。「など」とまとめるには無視できないヨーロッパの主要国ですので追加しておいたほうがよいと思います。