『日本国紀』読書ノート(138) | こはにわ歴史堂のブログ

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。


テーマ:

138】辛亥革命の説明が不正確で、「ヨーロッパの火薬庫」の説明が間違っている。

 

ようやく第十章にたどりつきました。

まず、同時代の世界の歴史の説明から始まっています。

ただ、いくら日本史の通史とはいえ、世界を概観する以上は、ある程度は正確な説明をしないと、近現代以降は、日本史も世界史です。簡潔であっても慎重・丁寧な説明が必要だと思います。

 

「明治四四年(一九一一)、義和団の乱(北清事変)以降、すっかり国力が落ちていた清帝国の各地で、『清朝打倒』を掲げる漢人による武装蜂起が相次いだ。」(P335)

 

以下は誤りの指摘ではありません。

なぜ、清朝打倒が叫ばれたのか、つまり、義和団の乱のときは「扶清滅洋」のスローガンだったのが、なぜ清朝打倒に変わったのか、これだけではむろんわからないと思うので補足させていただきますと…

 

まず、義和団の乱の賠償金は、人々の重税に転嫁されました。

「滅洋」の頂点にあったともいえる保守派の西大后は、あっさりと「洋化」に転じ、義和団の行動を否定してしまいました。

これが人心が離れるきっかけとなってしまいました。

さらに、「光緒新政」とよばれる改革は、立憲君主政をめざすものでしたが、組織された内閣には満州人がほぼ全席を占め、さらには財政立て直しのため、地方に認めていた利権を廃止し、すべて中央に集約してしまおうとしました。

続いて、清政府は、民間資本で建設されていた鉄道を国有化しようとし、その資金不足を外国からの借款で賄おうとしたのです。

外国から借款を受ける、債務超過になる、鉄道経営権が奪われる…

帝国主義諸国の常套手段です。

こうして民間資本家や地方勢力が結び、四川省で暴動が起こります。

この暴動を鎮圧しようと、軍が派遣されたのですが、武昌に残されていた軍の兵士たちが、革命勢力と呼応して蜂起し、民間資本家・地方勢力・軍が一体となって独立を宣言しました。

これが辛亥革命です。

アメリカにいた孫文が帰国すると、民間資本・地方勢力・軍の「接着剤」として声望の高い孫文が指導者に推戴され、1912年、孫文が臨時大総統となって中華民国が成立することになります。

 

「…南京に臨時政府『中華民国』が誕生し、孫文が臨時大総統となった。翌月、清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は退位させられ、ここに清帝国二百九十六年の歴史に幕を閉じる。中華民国はほどなく軍閥(多くの私兵を抱えた地方豪族)の袁世凱が実権を握り、孫文を追い出して大総統となる。」(P335)

 

と説明されています。

清政府は、北洋新軍の首領袁世凱に中華民国臨時政府と交渉をさせました。

そして、袁世凱と孫文が「取引」をします。

袁世凱は、宣統帝溥儀や皇室の身分、生活保障などの優待条件と引き換えに皇帝の退位を承諾しました。孫文は、中華民国の制定した憲法とでも言うべき「臨時約法」の順守、共和政の採用、清の版図の維持、五族協和を約束すれば中華民国の臨時大総統の地位を譲る、としたのです。

直後に、「同年、明治天皇が崩御し…」とあるので、ここまでの話は1912年までの出来事になりますから、「孫文を追い出して大総統となる。」というのは不正確です。

 

袁世凱が臨時大総統となると、南京の政府が合流して袁世凱を首班とする中華民国が北京に成立しました。しかし、中華民国の制度では大総統よりも議会の力が強く、国会の選挙では国民党が第一党となりました。

しかし、袁世凱は中央集権国家建設をめざし、議会を弾圧します。そして国民党の中心人物である宋教仁が暗殺されると、1913年に正式に大総統となったばかりが、自ら皇帝になろうとして内外の反発を受け、帝位に就くことを諦めることになります。

 

以下は誤りの指摘です。

 

「オスマン帝国は… 十九世紀を迎える頃から弱体化し始めていた。これに呼応するかのように、バルカン半島では小国のナショナリズムが高揚していた。半島の諸国・諸民族(現在のギリシャ、アルバニア、ブルガリア、マケドニア、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナ、コソボ、ヴォイヴォディナ、トルコの一部などを含む地域)が、独立を目指す動きを見せる中、その民族感情を利用する形で列強が入り込み、まさに一触即発の状態へと緊張が高まっていた。この時のバルカン半島情勢は『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれた。」(P336)

 

 

「半島の諸国・諸民族が、独立を目指す動きを見せる中」と説明されているのですが、これらはどこから「独立を目指す」と言われているのでしょう?

オスマン帝国からでしょうか、それともオーストリアからでしょうか、あるいはその両方それぞれでしょうか…

 

このうち、ギリシャはすでに19世紀前半に独立しています。

セルビアもルーマニアもモンテネグロも既に1878年に独立しています(ロシアの南下を阻止したベルリン会議で)

ブルガリアも1908年に独立しました。

アルバニアも1912年に独立しました。

『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれているときは、すでに、百田氏があげられている多くの地域は独立しています。

「独立の動きを見せる中、その民族感情を利用する形で列強が入り込んでいる状態」を「ヨーロッパの火薬庫」と比喩的に説明したのではありません。

ボスニア=ヘルツェゴヴィナがオーストリアに1878年以来、統治権を奪われていたのですが、スラヴ系住民が多いボスニア=ヘルツェゴヴィナを本格的に併合したことからスラヴ系のセルビアが猛反発し、セルビアとオーストリアの対立が深刻化します。

また、セルビア、モンテネグロ、ブルガリアにギリシャを加えたバルカン同盟がオスマン帝国と戦い(第一次バルカン戦争)、バルカン半島からほぼオスマン帝国を締め出しましたが、その領土配分をめぐって、ブルガリアとそれを除くバルカン同盟が戦うことになり(第二次バルカン戦争)、敗れたブルガリアがドイツ、オーストリアに接近してセルビア、モンテネグロ、ギリシャと対立するようになったのです。

「独立をめぐる列強の介入」が「ヨーロッパの火薬庫」ではなく、「小国の民族的対立を列強が利用しようとしていつ衝突してもおかしくない状態」を「ヨーロッパの火薬庫」と比喩したのです。