『日本国紀』読書ノート(番外編19) | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。


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「全体がほぼはげ山だったところに約六億本もの木を植え、鴨緑江には当時世界最大の水力発電所を作り、国内の至るところに鉄道網を敷き、工場を建てた。新たな農地を開拓し、灌漑をおこない、耕地面積を倍にした。それにより米の収穫量を増やし、三十年足らずで人口を約二倍に増やした。同時に二十四歳だった平均寿命を四十二歳まで延ばした。厳しい身分制度や奴隷制度、おぞましい刑罰を廃止した。これらのどこが収奪だというのだろうか。」(P327P328)

 

さて、前にも説明しましたように、「植民地支配」のイメージを誤って理解しているため、日本の朝鮮半島の植民地支配を誤解してしまうのです。

 

列強は、支配する先を、都合よく「色分け」している、という話を前にしました。

 

資源がある国は、資源の供給地に。

農産物がある国は、農産品の供給地に。

 

これらは第一段階としては「収奪」です。

現地の人間を奴隷として、あるいは安価な労働力として重労働に従事させます。

資源のある国ならば鉱山労働者として、農産物がある国は農民として。

 

最初は「国営」あるいは「半官半民」の企業がこれらを特権的に運営します。

しかし、やがて産業資本家たちは、自分たちも利益に参加させるように要求し、官営は民間払い下げ、「半官半民」は完全自由化します。

「投資先」として活用されるようになります。

 

資源がある国は、一面、資源しか無い国です。だったら、鉄道を通したり、耕地を切り開いたりしたりして、「開発」が進んでいきます。

本来、そこに生息していない農産物でも、気候や地質的に「育つはず」と考えれば、べつの地域からその農産物を移植すればよいわけです。

熱帯ならば、天然ゴムやサトウキビ。

もともとそこには生えていないのに、現地の人たちが作っているイモや穀物の畑をつぶして、それらをどんどん植えさせていきます。

これがプランテーションです。

もともと農産物がある国では、効率と収益を高めるために、特定の農産物しかつくらせません。コーヒーが売れる、麻が売れる、それならこの地域はコーヒー、こっちは麻、というように支配地域ごとに栽培する農作物を単一化していく…

これがモノカルチュアです。

 

ところが、さらなる利益を追求するには、支配のコストダウンが必要となります。

効率の良い輸送のために、さらなる鉄道や道路の整備が進みます。

それから労働力の減少を食い止める必要がありますから、医療・公衆衛生などを充実させる必要があります。

アフリカなどは奥地開発を進めたため、ヨーロッパ人の知らない病気に遭遇し、伝染病の蔓延で植民地支配が一時停滞しました。

よってイギリスやフランスでは伝染病の研究が進んでいきます。どうして国家が多額の資本を投下して伝染病研究・医療開発をしたかというと、こういう植民地支配の深化と深い関わりがあるからです。

 

そもそもが、帝国主義は、タテマエの近代化、ホンネの支配深化の並走なんです。

 

現地での支配のコストを下げるのは簡単で、現地支配の事務や雑務を現地の人々に分担すればよいのです。

文字が無ければ文字を与え、意思疎通がしやすいように英語やフランス語を教え、さらには学校をつくって「現地人の中間層」を養います。

被支配者をタテに分断すれば、団結による植民地支配の転覆も回避できます。

支配の恩恵を一部還元すれば、支配を甘受する層が生まれ、低いコストで支配を続けていくことが可能です。

 

もともと一定の文化が発展していて、住民に購買力がある場合は、自国の製品を輸出し、その国の製品を輸入する「市場」として活用すればよいのです。

この場合は植民地にはしないで、有利な商取引の環境をつくります。

武力をつかわず、武力で威嚇し、有利な通商条件を呑ませて貿易を展開する。

中国は「半植民地化」という表現をしますが、植民地にはせずに、マーケットとして温存して最大に利益を引き出す有利な条件を押し付けていく、という方法を列強はとっていきました。租界・租借などはその方法です。

 

日本はこの点、「市場」として温存されました。

イギリスは鉄道を敷設することに協力しましたが、経営は日本に委ねます。

40万円以上の売り上げを出し、経費を差し引いても20万円も出せる鉄道経営ができる国です。「植民地」などにするわけがありません。

植民地にされる、という妄想に近い危機感を抱いていた幕末の志士たちは無知でしたが、その危機感が原動力となって近代化の弾みになったことは確かです。

 

「極東に位置する島国は、列強から見れば、清帝国とともに最後に残された植民地候補の地であった。」(P329)

 

という見立ては誤りです。清や日本は「原料供給地」としての「植民地」にはせず、自国に有利なマーケットに組み込んでいく対象でした。

 

よく、日清・日露戦争に勝利し、植民地も持てたことで列強が一流国と認めてくれたから条約が改正できた、という一面的な説明をしがちですが、むしろ経済発展によって、マーケットとしての「価値」が次のステップに上がったため、というべきです。

「関税」というのは、物流の停滞を結局はまねくのです。関税無しに通商するほうが経済規模は拡大し、結局大きな利益をもたらします。

経済発展が十分になしえた相手は、関税で利益をあげる方法を選択すれば、かえって損をする…

日清戦争後、日本は金本位制を導入し、ほぼ同じ時期に綿糸の輸出額が輸入額をついに上回る国となりました。その後、製鉄などの重工業分野における第二次産業革命も成功させ、国内資本の蓄積も高まり、銀行は海外への投資までおこなえる水準まできました。イギリス・アメリカなどの産業資本家・銀行家は「自由化」を政府にもとめて当然です。

外交的不利を経済で打開する、というのが日本の「得意技」となっていきます。

そして後には、この逆、経済的不振が外交のゆきづまりをもたらしてしまう…

という未来が待っていることになりました。

 

アメリカとの間で関税自主権が回復された背景は、ここにありました。

 

以下は蛇足ながら。

以前にも、お話ししました。

 

「日本はアメリカとの間で日米修好通商条約に残されていた最後の不平等条約項である『関税自主権がない』という条文を完全に消し去ることに成功した。安政五年(一八五八)に結ばれた不平等条約が、ようやく改正されたのだ。」(P328)

 

といわれていますが、1866年の改税約書、ならびに明治新政府になって結んだ日墺修好通商条約の「不平等条約」が改正されたのであって、日米修好通商条約の不平等性は、関税に関してはありませんでした。

 

さて、

 

「日本は欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行なうつもりはなく、朝鮮半島は東南アジアのように資源が豊富ではなかっただけに、併合によるメリットがなかったのだ。」(P326)

 

とあります。

日本は、欧米列強のとっていた二段階目から植民地支配をスタートさせただけです。

耕地が少なければ耕地を増やし、インフラを整備しました。支配のコストを下げるために識字率をあげ、すでにあった文字ハングルを利用します。

ですから、最初は「半官半民」の企業で植民地支配を進めます。

1910年から18年にかけて強行した「土地調査事業」で、既存の特権階級であった地主も利用し、さらに植民した日本人の一部を地主としていきます。

そして1908年に設立されていた「東洋拓殖会社」にほぼ独占的に植民地事業を担当させます。

移民事業では1910年には14万人、1917年には33万人の入植を進めています。

この会社は土地調査事業で「買収」した土地が東洋拓殖会社に「現物投資」という形で付与されました(11400町歩)1919年の段階で78000町歩の土地を所有し、朝鮮の最大の「地主」となっています。

東洋拓殖会社は、地主でありながら金融業もおこない(日本の不在地主と同じ)、朝鮮企業50社以上の株主でもありました。

 

「全体がほぼはげ山だったところに約六億本もの木を植え、鴨緑江には当時世界最大の水力発電所を作り、国内の至るところに鉄道網を敷き、工場を建てた。新たな農地を開拓し、灌漑をおこない、耕地面積を倍にした。」(P327)

 

これ、東洋拓殖会社が何らかの形で関与しているんですよね…

 

「むしろ日本は朝鮮半島に凄まじいまでの資金を投入して、近代化に大きく貢献した。」(P327)

 

と力説されていますが、朝鮮への投資は、何に投資しても、ぐるっと還流して東洋拓殖会社が回収するしくみになっていたのも同然だったのです。

 

(参考)『日韓併合小史』(山辺健太郎・岩波新書)

   『韓国併合』(海野福寿・岩波新書)