『日本国紀』読書ノート(136) | こはにわ歴史堂のブログ

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136】韓国併合のプロセスの説明が一面的である。

 

「…韓国併合は武力を用いて行なわれたものでもなければ、大韓帝国政府の意向を無視して強引に行なわれたものでもない。あくまで両政府の合意のもとでなされ、当時の国際社会が歓迎したことだったのである。もちろん、朝鮮人の中には併合に反対する者もいたが、そのことをもって併合が非合法だなどとはいえない。」(P327)

 

と説明されています。

 

百田氏の主張は、「武力を用いていない」「両政府の合意」「国際社会が歓迎」「反対する人がいたからといって非合法とはいえない」という四つにあるように思われます。

今回は「武力を用いていない」「両政府の合意」ということについてお話しします。

 

190510月の閣議の記録にあるように、第二次日韓協約の案を決定しました。

それには「韓国政府ノ同意ヲ得ル見込ナキ時ハ最後ノ手段」を用いても強行することが定められていました。

この段階で同意しなければ武力行使することは前提となっています。

そして119日、首都には軍が配備され、特命全権大使伊藤博文がソウルに到着しました。

王宮の周囲にも武装した日本兵が囲んでいて、正門に大砲を配置しています。

9日から17日まで、王宮前広場および市街で日本軍による演習がおこなわれていました。

1115日、伊藤は皇帝高宗と会見し、日露戦争後、日本がとってきた措置のいくつかに不満を表明しています。これに対して伊藤は第二次日韓協約の案を提示しました。

1116日、大韓帝国の各大臣が日本の公使館に呼び出されます。そして第二次日韓協約の説明をおこない、受諾を求めました。ほとんどの大臣は反対を表明します。

1117日、林権助公使は、また大臣を呼び出し、その後王宮での御前会議となりました。

同日夕刻、兵が王宮内に入って整列し、伊藤博文は憲兵と長谷川好道軍司令官とともに閣議に参加します。

第二次日韓協約案の賛否を問うと、まず首相は反対して部屋を退出します。

首相と二人が反対を表明し、残りの五人のうち賛成したのは学部大臣であった李克用でした。四人は賛成も反対も唱えませんでした。

この状況で、伊藤は「大勢ハ賛成」と判断します。

同深夜に、第二次日韓協約は調印されましたが、皇帝は承認していません。

 

第二次日韓協約が調印されると、首都に地方から多くの人々が集まり、抗議集会が開かれます。

『皇城新聞』はその日の社説で、

 

「ああ彼の豚犬でしかないわが政府大臣は、栄利をねがい、おどしをおそれ、甘んじて売国の賊となり、三千里の領土を他人にわたし、二千万の国民を他人の奴隷にかりたてるとは。」

 

と記しました。もちろん『皇城新聞』は発行禁止となり、編集者は逮捕・投獄となります。

翌年、反対運動は激化します。19062月、忠清道で閔宗植ら500人が洪州城に籠城しました。日本は警察・憲兵に加え、歩兵・騎兵を出動しています。

1907年までに七万人の蜂起があり、一万人が殺されました。

 

植民地支配に対する抵抗と弾圧というのはこのようなものです。批判を承知で申しますと、だから日本はひどい、などと私は思いません。一方の事実だけを説明してしまっていては、歴史の全体像が歪になると思っているだけです。

19世紀末から20世紀初頭のアジア・アフリカでみられた帝国主義諸国の支配というものと日本の植民地支配は大差はなく、日本が「特別」という部分は少ないのです。

併合までのプロセスにこのようなことがあったことは『日本国紀』にはもちろん一行も触れられていません。

 

「…伊藤がハルビンで朝鮮人テロリストによって暗殺され、状況は一変する」(P326)

 

と説明されていますが、状況は一変したというより、そのような弾圧・反対運動の延長におこった事件として眺めれば、テロリスト安重根が朝鮮では愛国者としてとらえられている理由も見えます。

私も、実は伊藤博文が国内の併合推進派をおさえて、植民地化には消極的であったと考えています。彼が暗殺されたことによって推進派が発言権を持ってしまったことは確かですが、伊藤博文が併合に反対だろうが賛成だろうが統監として武断的な態度・政策を展開していたことも確かでした(統監は在韓日本軍の指揮権を持っています)