【134】大韓帝国を保護国とするにあって「世界」の了承を取り付けていない。
「韓国併合への道」は日露戦争開戦と同時に始まりました。
1904年2月、日本は仁川に軍を上陸させ、ただちに漢城を制圧しました。
そして2月23日に、朝鮮内の軍事行動と韓国政府の便宜供与と「施政改善」を日本が「協力」することを韓国政府に認めさせました。
これが第一次日韓議定書です。
7月には軍用電信線・鉄道を破壊した者を死刑にする軍律を施行、1905年1月には日本軍に不利益な行動をする者は死刑以下にする布告を出します。
この軍律で、1904年7月から1906年10月までに、死刑35人、監禁・拘留46人、追放2人、笞刑100人、過料74人がおこなわれています。
(『戦争の日本史20 世界の中の日露戦争』山田朗・吉川弘文館)
「日本は日露戦争後、大韓帝国を保護国(外交処理を代わりに行なう国)とし、漢城に統監府を置き、初代統監に伊藤博文が就いた。この時日本が大韓帝国を保護国とするにあたって、世界の承認を取り付けている。」(P326)
と説明されています。大きな誤解と事実誤認があります。
まず、この文脈では日露戦争「後」に大韓帝国を保護国化してから承認を取り付けているように読めてしまいますが、実際は日露戦争中です。
それから「世界の承認」と言われていますがあまりに不正確です。これ、何をもって世界が承認した、と説明されているのでしょう。
日露戦争「中」、日本が「世界の承認」を「取り付けている」というのは以下のことです。
まず、1905年7月29日、アメリカとの間で桂・タフト協定を成立させます。
これはアメリカによるフィリピン支配と、日本による韓国保護国化を相互承認したもので、帝国主義諸国がよくおこなうbargain(取引)です。
また、日露戦争が始まると日本とイギリスは日英同盟の適用範囲の拡大と、「攻守同盟」化の検討を始めます。
ロシアの「バルティック艦隊」との海戦が近づくと、1905年5月23日の元老会議と翌日の閣議で、日英同盟の強化を決定しました。
こうして8月12日、第二次に日英同盟協約を調印、攻守同盟化するとともに、同盟の適用範囲をインドにまで拡大し、いわば朝鮮とインドをbargain(取引)する形で、イギリスは韓国の保護国化に対する保証と援助を了承したのです。
そして、日露戦争「後」、ポーツマス条約によって、ロシアがその項目の一つ「韓国に対する日本の指導・保護・管理措置の承認」を認めています。
「この時日本が大韓帝国を保護国とするにあたって、世界の承認を取り付けている。」というのは極めて不正確で誤解を与える説明です。
日露戦争中にイギリスとはインド、アメリカとはフィリピンをbargain(取引)して韓国保護化の承認を「取り付け」、ロシアとはポーツマス条約で承認を「取り付け」ています。
「世界の承認」ではなく、関係列国の承認、「イギリス・アメリカ・ロシアの承認」を得ていた、というべきでしょう。