歴史は、どの「立場」から視るかで、記述の仕方は当然、変わります。
どうも百田氏は、「義和団の乱」を稚拙な「暴徒集団」であるかのように(P311)思われているようです。
義和団の神を、「孫悟空と諸葛孔明」という「奇妙」なもので、「団員たちは修行を積めば刀や銃弾さえもはねかえす不死身の身体になれると信じ、近代的で武装した列強の軍隊に徒手空拳で挑んだが、各国の軍隊が到着すると、一瞬のうちに鎮圧された。」と描写し、「凶暴な暴徒」と説明されています。
この捉え方は、かなり一面的で、義和団の本質には一切触れられていません。
義和団は、列強の帝国主義支配とその弾圧から民衆が立ち上がったもので、山東半島の農村自警団から生まれた宗教的武術集団です。一部、迷信にとらわれた人々もいましたが、反帝国主義民族運動で、列強の帝国主義的支配の象徴である「鉄道」と「教会」を破壊しました。
日清戦争後の列強の進出で、鉄道が敷設されると、その用地を強制的に接収し、農村の共有地や祖先の祭祀の場などをおかまいなく破壊していきました。
教会も、農村のさまざまな祭祀を否定し、その文化を見下した布教活動をおこなっていました。
北京に入城した列強の軍隊は、「鎮圧」と称した破壊と略奪を繰り返し、日本軍に掃討と防衛をまかせきりで略奪行為を繰り返したことは、北京攻略戦での犠牲の50%が日本兵であったことからもうかがえます。
北京を奪還した後が、さらにひどく、周辺地区の略奪・暴行はしばらくおさまりませんでした。
列国がことさらに日本の軍事行動を美化して賞賛し、義和団の非を鳴らした背景は、この軍隊の不正行為(国際法違反)を糊塗する目的もあったのです。
「孫悟空と諸葛孔明という奇妙な神を崇め、修行を積めば刀や銃弾さえもはねかえす不死身の身体になれると信じた愚かな凶暴な暴徒が、北京の外国人を襲い、近代的で武装した列強の軍隊に徒手空拳で挑んだが、各国の軍隊が到着すると、一瞬のうちに鎮圧された。」という説明は、当時の、義和団を貶め、自分たちの行為を正当化するために列強が誇張したイメージなんです。
柴五郎の功績はもちろん高く評価しますが、「義和団事件の英雄」をクローズアップしなくてはならない背景や、帝国主義に対する闘争としての義和団の側面を忘れてはいけないと思います。
列強は、当時、義和団を「悪」と描きがちですが、当時、日本のジャーナリストの青柳有美などは『義和団讃論』を著していますし、後にイギリスの軍事評論家リデル=ハートも民族運動としての義和団を評価しています。そもそも北京に籠城していた側からも義和団に同情的な評価もあり、オーストリアの外交官ロストホーンも「私が中国人だったならば、義和団に入ってここで戦っていただろう。」と述べています。
(『北京最後の日』ピエール=ロティ・船岡末利訳・東海大学出版会)
(『義和団-中国とヨーロッパ』スタイガー・藤岡喜久男訳・桃源社)
(『華北駐屯日本軍-義和団から日露戦争への道』櫻井良樹・岩波現代新書)
さて、「日英同盟」も、大きな世界史の枠組みで捉える視点が大切です。
19世紀半ば以降、常にイギリスはロシアの南下を阻止するように外交を展開してきました。その手法は、「自分の手を汚さず」ロシアの南下を阻止する、ということです。
ロシアの南下は3つのルートがあったのですが、バルカン方面、中東・インド方面への南下を阻止しました。
ロシアの動きを極東にそらせて、ヨーロッパの現状を維持するためにも、極東におけるロシアの南下にぶつける国を模索していました。
義和団事件の様子をみて、手を結ぶにふさわしい相手は、もちろんフランスでもなくドイツでもなく、日本であると判断したのは自然な流れです。
「義和団の英雄」とそれを高く評価するクロード=マクドナルドがいなくても、ソールズベリ首相は、日英同盟を成立させていたことでしょう。
こういった国際関係の枠組みを俯瞰したとき、日露戦争は、イギリスの大きな世界戦略の枠組みの中にあったことがわかります。
日露戦争と同じ年にイギリスは英仏協商を成立させ、日露戦争によってロシアの極東での南下を阻止した後はすぐにロシアに接近し英露協商を成立させ、今度はイギリスと敵対するドイツとオーストリアにぶつけるため、ロシアの南下政策をバルカン半島
にふりむけさせました。
日英同盟は、日露戦争に際して、日本の大きな助けになったことは確かですが、イギリスの世界戦略の片棒をかつがされたこともまた確かです。
伊藤博文が推進しようとしていた日露協商は、イギリスにとっては困る動きであり、イギリスに接近させるために、ビクトリア女王による勲章授与など「義和団の英雄」は演出された、友好的な態度を示した、ということも指摘できます。
大国との「同盟」というのは、その大国にとっての「利益」があることにしか利用されない側面がある、ということも日露戦争から学ぶことができます。