『日本国紀』読書ノート(133) | こはにわ歴史堂のブログ

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133】日露戦争は、「新聞社に煽動された国民自らが望んだ」戦争ではない。

 

「余談だが、日本海海戦は『丁字戦法』(T字戦法ともいう)によって勝利したというのが定説になっていて、多くの歴史書にもそう書かれている。」(P320)

 

と、説明されていますが、まず歴史書のうち通史は、細かい戦術のことはまず説明していません。日露戦争について書いた歴史書では戦術的なことに言及しているものがあります。

しかし、「多くの歴史書にもそう書かれている」とありますが、「T字戦法で勝った」と説明している専門書はありません。

歴史の研究では、「T字戦法を採用したが、並行航行での砲戦になった」ということはむしろ「定説」で、現在では確実に「俗説」扱いです。

(戦史研究では、戦前からすでにT字戦法で勝利した、は否定されています。)

「T字戦法による勝利」などの話は、ほとんど小説やドラマでの演出で、自称戦争に詳しい人しか語っていなかったと思います。

 

「…この敗北により、さすがのロシアもほぼ戦意を喪失した。」(P320)

「日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅し、ロシアに戦争継続の意思を失わせたが、その時点で、実は日本にも余力は残っていなかった。」(P322)

 

とありますが、実際は少し違います。

クロパトキンが降格され、入れ替わるかたちで総司令官に任命されたリネウィッチは反攻を計画し、シベリア鉄道を用いた陸軍の増援を継続しています。日本海海戦での敗戦は衝撃でしたが、むしろ敗戦後、物量で圧倒して南下を進めようとしていました。

(『日露戦争勝利の後の誤算』黒岩比佐子・文芸新書)

 

ロシアが講和に傾き始めていたのは、その国内問題からでした。

すでに1905年1月に「血の日曜日事件」を発端にして起こった第1革命が起こり、ロシアの兵士たちにも厭戦気分が広がりつつありました。

戦争継続はストライキや革命の拡大をまねく懸念が出てきていたのです。

むしろ、戦争の継続を考えていたのは日本のほうです。

 

「国民は、ぎりぎりの状況であることを知らされていなかった。政府がその情報を公開すれば、ロシアを利することになるため、秘密保持はやむを得なかった。」(P324)

 

と説明されていますが現状は異なりました。

これは、軍事機密であると称して、正しい情報を国民に知らせない口実に使われるものです。軍の作戦の不備、政府の責任回避のために実情を隠す弁解に使用されたリクツにすぎません。

実際、奉天会戦後、「ぎりぎりの状況」であったことを大本営そのものがわかっておらず、追加計画や増援、さらなる占領を企図、実行していました。

「戦争を継続すべし」という空気が大本営をしめ、ウラジオストク侵攻を計画、さらに4個師団編成、樺太南部に軍を上陸させています。

 

驚いた満州軍総司令官大山巌は、ただちに参謀総長児玉源太郎を東京に派遣し、講和にとりかかるように説得させようとします。

にもかかわらず、大本営では、あくまでも戦争継続・戦域拡大を主張するありさまでした。児玉源太郎は前線の状況をつぶさに説明・報告し、海軍の山本権兵衛も口説いて説得させたのです。

児玉源太郎の真の功績は、ロシアとの陸上戦闘の「作戦指揮」よりも、戦争を継続しようとしていた軍首脳の「説得」に成功したことです。

 

「秘密保持」は「ロシアを利すること」を回避するためではなく、戦争継続が不可能な状況であったことを大本営が理解せず戦争を続けてしまったことや、作戦の不備からの犠牲の増加したこと(旅順の要塞の守備力を低くみつもっていたこと、奉天会戦の初戦の苦戦と犠牲は無理な総力戦指示にあったこと)などを隠すためでした。

 

そもそも「ロシアに利する」を回避する秘密保持ならば、講和成立後に、「情報公開」をすればよかったわけで、政府はそのようなことを一切していません。

条約反対集会が暴徒化すると、戒厳令をしいて弾圧しました。

 

「私は、この事件が、様々な意味で日本の分水嶺となった出来事であると見ている。すなわち、『新聞社(メディア)が戦争を煽り、国民世論を誘導した』事件であり、『新聞社に煽動された国民自らが戦争を望んだ』そのきっかけとなった事件でもあったのだ。この流れは、大正に入って鎮火したように見えたが、昭和に入って再燃し、日本が大東亜戦争になだれ込む一因となったのである。」(P325)

 

日本国内で「ロシア討つべしという声が高まる」「戦争は避けられない」と新聞社が煽り、世論が『戦争すべし』という意見が大勢を占めた、そして政府は「ぎりぎりまで外交交渉で戦争を回避する道を模索し」、こちらの交渉をロシアが蹴ったために仕方なしに戦争を始めた、というのでしょうか…

 

日露戦争は新聞社が国民を煽り、政府はロシアとの戦争を回避しようとしていたのに、国民が戦争をのぞんで勃発した戦争、という説明です。

しかし、実際は違いました。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12441383804.html

 

日清戦争では、朝鮮を独立するための戦争と称して戦い、朝鮮半島から清軍を撤退させた後も、戦争を継続してリャオトン半島を占領しました。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12440840209.html

 

この「大陸進出」は列強を刺激し、黄禍論が説かれ、日本を警戒したドイツ・フランス・ロシアの干渉でリャオトン半島を返還せざるを得なかったことに対しては「臥薪嘗胆」を説いて、ロシアを仮想敵国とし、日英同盟を結んでロシアの南下に対抗する姿勢を明確にしました。

そもそも議会で多数を占めていた民党が、民力休養・経費節減を説き、軍事費の削減を要求していたのに、超然主義の立場をとり、朝鮮を日本の「利益線」であるとして軍備の増強を続けたのは政府です。

軍制の改革を進め、参謀本部を設置して統帥部を強化し、鎮台制を改めて、対外戦争可能な師団制も導入しました。

政府が近代化を進め、国際的地位を高める過程で「脱亜入欧」を選択し、その延長上の外交政策がつくり出した国際関係の結果が日清戦争であり、日露戦争でした。

こうしてインドの元首相ネルーが指摘したように、日本は欧米と並ぶ「帝国主義諸国の一員」となれたのです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12442007945.html

 

この大きな枠組みの中で日露戦争をとらえるべきで、国民がのぞんだ戦争であるかのように説明するのは一面的で、情報不足と偏った情報から民衆をミスリードした新聞社の非を鳴らすのは一方的だと思います。