【131】日露戦争に対する評価の、世界史的位置づけは慎重にする必要がある。
1905年1月に旅順要塞を陥落させた日本陸軍はクロパトキン率いるロシア陸軍と前哨戦とでもいうべき戦闘状態に2月から入ります。
「秋山好古少将の陽動作戦に怯えたクロパトキン」という説明は、やや昔の評価で、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の逸話によるところが多い説明です。
「秋山好古少将の陽動作戦に怯えたクロパトキンが余力を残したまま撤退するという失態を犯した」(P319)
という説明も、かつてはよくみられましたが、当時は「戦略的撤退」とヨーロッパでは判断され(ナポレオン戦争でもみられたロシアの常套作戦)、マーケット(ロンドン株式市場)の反応は冷静でした。
(『日露戦争、資金調達の戦い』板谷敏彦・新潮選書)
ところが、ロシアの司令部内・宮廷内の権力争いが絡んで、讒言もあり、クロパトキンが解任されてしまったのです。
『坂の上の雲』によって、乃木希典の過小評価、秋山好古・秋山真之兄弟の過大評価がすっかり定着してしまいました。
3月の奉天会戦は、「大勝利」との国内宣伝とは裏腹に、かなりの犠牲が出ており、乃木希典の第3軍は、その活躍でクロパトキンの後退の決断をうながすほど健闘していたにもかかわらず、弾薬がつきたためにロシア軍の撤退に対する追撃ができず、鉄道でのロシア軍の移動を傍観せざるをえない状況でした。
(『日露戦争史』横手慎二・中公新書)
(日露戦争研究の新視点』日露戦争研究会編・成文社)
日本海海戦は「世界開戦史上に残る一方的勝利に終わった」わけですが、その「真の勝因は水兵たちの練度の高さと、指揮官の勇猛果敢な精神にあった。」というわけではもちろんありません。
戦争の勝利とは、海面に出ている氷山の一角と同じで、トータルなものです。
百田氏があげていることでまず言うならば、外交的優位(日英同盟)、マーケットの反応(高橋是清の活躍)に加え、下瀬火薬の開発と利用、無線の活用、明石機関による対露工作など、「オールジャパン」による勝利でした。個人の手柄や勇猛果敢な精神論よりも、こちらを強調されたほうが、日本の命運をかけた「総力戦」であったことを強調できたと思います。
「水兵たちの練度の高さと指揮官の勇猛果敢な精神」で勝利した、と言ってしまえば、重税に耐えて、戦争の勝利のために多大な犠牲を強いられた国民の姿が見えにくくなってしまいます。
「日本の勝利は世界を驚倒させた。二十七年前まで鎖国によって西洋文明から隔てられていた極東の小さな島国が、ナポレオンでさえ勝てなかったロシアに勝利したのだ。」(P320)
日本の勝利は、当時、世界をもちろん驚かせたもので、大きな衝撃を与えたことは確かですが、他国との比較は世界史の知識が不十分ですと誤った説明になります。
「ナポレオンでさえ勝てなかったロシア」と説明されていますが、そんなことはありません。ナポレオンはロシアに勝利し、プロイセンとロシアに屈辱的なティルジット条約をのませました。
(教科書に記されている戦いだけでも、アウステルリッツの三帝会戦でもナポレオンはロシアに勝利していますし、アイラウの戦いについては少し微妙ですが、ロシアが撤退したという意味では勝利でしょう。しかし、フリーラントの戦いではロシア軍を完全に撃破しています。)
「…コロンブスがアメリカ大陸を発見して以来、四百年以上続いてきた、『劣等人種である有色人種は、優秀な白人には絶対勝てない』という神話を打ち砕いたのだ」(P320)
と説明されていますが、そんなことはありません。
1884年のムハンマド=アフマド率いるマフディー反乱では、ゴードン率いるイギリス軍はハルツームの戦いで壊滅させられ、ゴードンも戦死しました。
1896年のアドワの戦いでは、エチオピア軍が、アフリカ分割を進める帝国主義諸国の中で、初めてイタリアを破り、独立を守りました。
世界史的な位置づけの評価は、正確な知識が必要となります。
「アジアの小国がヨーロッパの大国を破った」、という説明で十分だと思います。