『主戦場』では、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協、現在の略称は「正義連」)という慰安婦支援の活動団体代表のインタビューもあった。「これは『反日』という話ではなく、あくまでも人権問題なのだ」と、これがナショナリズムとは関係ないことのように否定するのだが、これには過去の挺対協のふるまいを知っている私は素直に聞くことができなかった。
2017年、『主戦場』に先立ち、日本で公開された『沈黙-立ち上がる慰安婦』というドキュメンタリー映画があった。これも日本の右翼勢力からの批判を浴びたということだが、この映画に一つ注目するべきポイントがあった。
この映画で取り上げられている慰安婦支援団体は、先の挺対協と分裂して出て行ったグループのことを扱った映画なのである。
どうしてこの団体が挺対協と対立することになったかと言えば、日本政府が関与した「アジア女性基金」からの「償い金」を、この団体が支援する元慰安婦たちが受け取ったからである。これを挺対協は「民族の裏切り者」として非難し、のちにさまざまな嫌がらせとも言える活動で追い込んでいる。支援者団体の代表はこれがために韓国に入国拒否されかかっている。挺対協からすれば、日本政府の謝罪や「補償」はまやかしのものであり、これを受け入れるのは、娼婦が金銭をもらうのと同じこと、というような論旨を展開する。
「民族の裏切り者」? 補償金を受けとるか受け取らないかは本人の自由意志のはずで、ましてやそれが「民族」という名前で非難されるのは、首をひねらざるをえない。さらには、個人を犠牲にして全体のために尽くすという押し付けが、悪しきナショナリズム以外の何ものでもないとも思わざるをえない。
私はソウルの慰安婦像も、釜山のそれも、さらには香港にも最近できた慰安婦像も見てきた。韓国第三の都市である大邱(テグ)では慰安婦歴史館も訪れたことがある。慰安婦像の横には誰も座っていない椅子がある。それはまだ未解決の名もなき慰安婦たちの存在を意味するという。
韓国の人たちはそこに腰かけて笑顔で記念撮影をする。悲劇や悲壮感は感じられない。日本で広島や長崎や沖縄の戦跡でそのような記念撮影の仕方をしたら不謹慎だと一喝されるのは間違いないだろう。そこで感じられたのは、あっけらかんとした被害者との連帯意識である。これは、よく韓国通と言われる人たちが言う「恨」の感情とは無縁のものだ。私はこの光景に私たちが理解できず、かつ慰安婦問題が決して解決に向かうことがない理由の一つが隠されているような気がしてならない。
映画『主戦場』には、そうした慰安婦問題に秘められた韓国ナショナリズムの謎を解く材料は一つもなかったと言ってもいい。
たしかに人権問題としての慰安婦を論じる素材としては優れているかもしれない。この映画は「歴史修正主義者」による戦前回帰について警鐘を鳴らしている。安倍政権批判にこれが収斂されていくのだが、自分はなにをか言わんやの気持ちとなり、映画館を出ていくことになった。慰安婦問題で否定派と慰安婦支援派の間にある溝を埋めるのに、これでいいのかといいう鬱屈した気持ちにならざるをえない。
『サンダカン八番娼館』の物語に戻ってから本稿を閉じたい。この作品には、人身売買された、からゆきさんと著者の出会いから別れまでが綴られているのだが、これに後日談というのもある。
サンダカンには、多くは人身売買された、韓国の従軍慰安婦と同じ境遇のからゆきさんの墓があるというのだ。ボルネオの南洋の山の中に、著者はこの墓を探し当てるのだが、その墓はこぞって日本の方向を向いていなかったというのだ。国家は無縁のまま死んでいった彼女たちに何もしなかった。韓国は慰安婦問題を国をあげて支援し続けるという。ただし、個人の自由意志は国家によって許されない。私はこういう対照的に見えて、相似的な輪郭を描く光景を、映画『主戦場』のように善悪二元論に単純化して説明することはできない。
■徴用工「残酷物語」は韓国ではなく日本が生んだイメージだった
■悲しくも滑稽な映画『軍艦島』にみた韓国人の心の奥
■慰安婦を「ゲスな演出」でアピールする韓国に反論してもムダである
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