科学批判への批判

科学批判への批判

20世紀の科学哲学では、科学の客観性の揺らぎという事が言われました。決定不全性、知識のホーリズム、理論負荷性、パラダイム、通約不可能性、などといった考えによって、従来の科学観は、再考されるべきものと捉えられるようになったのです。従来の科学観、すなわち、科学という営みは極めて客観的なものであり、特定の主義や主観に左右されないものであって、科学は時代を経ていくごとに、世界の客観的な真の姿を、より正確に描き出す事に成功している、というような科学観は、様々な疑問や制限がつけられるようになりました。

科学技術が圧倒的な成功をおさめ、科学的という言葉が、ともすると正しいという言葉と同義で使われる現代において、科学という営みについて、そのように、クリティカルに見直す事は、有意義な事だと思われます。しかし、ある種の思想や宗教を採用する人々や、哲学を学び始め、哲学によって常識を覆す事に喜びを感じるようになった人々の中には、以上のような科学の見直しという流れに乗じて、感情的で独断的な科学批判を展開したり、間違った知識や、稚拙な論証によって、科学批判をする人がいるのも確かです。

科学に対する有益で建設的な批判がある一方で、感情的だったり稚拙だったりする科学批判もある訳です。後者のような科学批判は、科学についてどういう立場をとるにしろ、好ましいものではありません。以下では、そういった好ましくない科学批判のパターンをいくつかあげてみる事にします。

まず最初に挙げるのは、科学批判をしようとする人がしばしば行う、そもそも論点のかみ合っていない主張です。一部の人々は、科学の正当性などについて議論をしている時に、しばしば、科学というのは絶対的に正しいものではないのだ。という主張を相手への反論とします。この主張自体は確かに正しいです。確かに、科学は絶対的に正しいものではありません。しかし、そもそも科学について考えている時、科学が絶対的に正しいかどうか?という事は、論点からズレている事が多いと言えます。

なぜなら、科学は絶対的に正しい、などと考えている人は、科学をよしとしている人であっても、ほとんどいないからです。ほとんどの人は、科学はまだまだ、世界の謎を解き明かしてないものであり、完全に正しいものとは、まだまだ、到底いえない。と考えています。また、そう考えているからこそ、多くの科学者は、日々、研究を続けているのです。

これが宗教であったら、その教えは絶対的に正しいものではない、というのは、その宗教への反論になるであろうが、科学は絶対的に正しいものではない、という事は、科学について論議するほとんどの場合において、誰もが同意している事であり、誰もが同意している意見を主張したところで、それは相手への反論となるものではないでしょう。

という訳で、科学というのは絶対的に正しいものではない、という主張は、正しい主張ではあるものの、ほとんどの人が自明の事として認めていることであり、それを相手への反論とするのは、ほとんどの場合、論点がズレていると思われます。

次に、科学に対する相対主義を使った、好ましくない科学批判について観てみましょう。その前にまず、相対主義というものを簡単に説明すると、人間の認識や評価はすべて相対的であるとし、真理の絶対的な妥当性を認めない考え方。立場や世界観などの違いによって、多くの真理が存在する、とする考え方。の事です。つまり、科学に対する相対主義というのは、科学的事実といえども、ある特定の世界観などによって形成された一つの見方であり、世界観が変われば、間違いだと捉えられる事もあり、社会や世界観ごとに真理が決まる。とする考え方です。

最初に書いたように、20世紀には、科学の客観性の揺らぎ、という事がいわれ、そこから、このような科学に対する相対主義的な見方も生まれました。相対主義的な科学観というのは、それなりに正当性のある主張であり、議論に値する主張です。しかし、科学に対する相対主義者の中には、正当な主張の仕方ではなかったり、反感を持たれやすい主張の仕方をする人がいます。以下に、そのパターンを挙げてみます。

まず、相対主義をとる人の中には、科学の具体的な内容についてほとんど何も学ぶ事なく、科学理論をほとんど理解していないのにも関わらず、科学は相対的なもので、どの考えも同じ、と主張して、それを科学批判とする人がいます。確かに、厳密で、原理的な部分のみをとれば、そのような論の展開をすることも可能かもしれませんが、科学について考える場合は、やはり、科学の具体的な内容に関しても考える必要があるでしょう。

科学の具体的な内容に関して、どの程度の正当性があるか、どのような点がより信頼性が置けて、どのような点がより不確実なのか、などといった具体的な議論も有益な議論です。また、現在の科学の成功をみれば、その内容は、あきらかに事実としての確からしさをもつものであり、そういった内容の確からしさに色々制限をつける必要があるとしても、やはり、価値のあるものである事は間違いありません。

そういった豊富な価値を持つ科学の内容を全て無視して、科学もまた相対的なものにすぎないという事だけに論点をおき、科学の全てを否定するような主張の仕方は、科学という営みについて考える上で、あまりよいやり方とはいえないと思われます。(もちろん、認識論的で原理的な議論にも価値はあるが、それだけではいけない、という事です。)

さて次に、一部の相対主義者にありがちな問題点として、相対主義を主張しながら、自らの世界観や立場に関しての反省がないという事が挙げられます。一部の科学に対する相対主義者は、科学もまた他の世界観や宗教、神話、などと同じく、無数の世界の捉え方の一つであり、どれが絶対的に正しいという事はなく、どれも同列である、と主張します。

しかし、それでは相対主義を唱える、自身の世界観に関してはどうか?というと、その点に関しての考察をあまりもっていません。相対主義という立場は、その性質上、自己言及的な問題を抱えるものです。どの立場も相対的というなら、相対主義という立場もまた相対的な一つの観点という事になってしまうからです。しかし、彼らは、その事に対する自覚がなく、相対主義を標榜する事によって、自らは、どの立場からも距離を取り、全ての世界観を見渡している優越した立場にいるかのごとく主張します。

内部に矛盾を孕んだ状態にも関わらず、それに対する反省や考察もなく、自身が、他より優越した高い観点いると匂わせる訳です。こういった態度は、反感をもたれやすいし、また、彼らの主張する相対主義も、正当で議論に値する相対主義の立場ではなく、それを歪曲、悪用したものである事が多いように考えられます。相対主義を主張するのならば、自らの立場や、自身が採用している考えについて、何かしらの意見、考察をもっている必要があるでしょう。

また、さらに好ましくないのは、科学も相対的な一つの見方に過ぎず正当な立場とはいえない、と相対主義的主張に続けて、「だから」自分の立場が正しいのだ、という主張をする、もしくはニュアンスをにおわせる事です。相手の主張を弱めることによって、相対的に自らの主張が正しいような雰囲気をつくりだす訳ですが、これは全くの間違いです。

当然ながら、科学が相対的であったとしても、その事から、他の立場が正しいという事は導かれません。仮に科学的真理を相対的なものだと捉えたとしても、それから導かれる結論は、多分むしろ逆で、科学的真理ですら相対的であるのだから、他の立場もまた、絶対的な真理などとは全くいえない、と結論する方が、論理的でしょう。科学だって確かではなく相対的だ、「だから」私の立場は正しい、というのは、論理性の乏しい、稚拙な論法なのです。

最後にもう一つ、以上のものより、もう少し巧妙な、それでいてやはり正当ではない、科学に対する相対主義者の論法について挙げてみます。それは、相対主義の主張のあいまいさを元にした、状況による相対主義の使い分けです。まず、主張の曖昧さについてですが、一部の相対主義者の主張は、実際のところ、どの程度の強さの相対主義を主張しているのか、わかりづらい場合が多いのです。一口に科学に対する相対主義といっても、実は様々なバリエーションがあるのです。その主張の強さによって、穏当なものから極端なものまで、様々です。

穏当な相対主義の主張というのは、科学的な主張といえども、主観や社会などの影響を受けるものである。という主張です。この主張は、主観や社会の影響を受けるという点で、相対的といます。しかし、このぐらいの意味の相対的ということならば、当たり前の事であり、別にわざわざ問題にするほどのことではないとも言えます。一方、極端な相対主義の主張は、科学的な主張は、全て主観や社会によって決定される。という主張です。この立場にたてば、たとえば、ガリレイの落体の法則も、ボイル・シャルルの法則も、特定の主観的な立場から捉えたものにすぎない事になり、社会や立場の違いによって、物の落下のスピードが変わったり、そもそも物が落ちなかったりする事になり、地球があるのも太陽があるのも、事実ではなく、主観的な一つの捉え方という事になのです。

この立場はかなり強烈な立場で、哲学的には観念論と呼ばれる主張に属します。しかし、この極端な相対主義は、科学について考える場合、ちょっと受け入れがたいと言えます。いくらなんでも、科学的事実の全てが主観的な構成物だというのは、極端かもしれません。そして、極端な相対主義者自身ですら、日常においては、ビルから飛び降りれば、自分は落下すると思っているでしょうし、電話を使えば、遠くの人と話ができると考えて生活していでしょう。

つまり、口で極端な相対主義を主張する人もまた、実際には極端な相対主義を信じている訳ではないのです。さて、以上の二つを極として、相対主義には、穏当なものから、極端なものまで、様々なバリエーションがありますが、先に書いた通り、科学に対する相対主義者の主張は、しばしば、このバリエーションの中の、どの程度の相対主義を主張しているのかわかりづらいのです。

また、そもそも主張している本人が、自身がどの程度の主張を述べているのか把握していない場合もあります。そして、一部の相対主義者は、この主張の曖昧さを使って、状況に応じて、主張の強弱を使い分けている事があるのです。この主張の使い分けという論法が、巧妙ですが、やはり、正当ではない論法なのです。

彼らの論法では、まず、非常に極端な相対主義的な主張をし、科学的事実もまた、一つの主観的な構成物に過ぎないと主張して、相手を驚かせます。しかしが、相手がそれ対して反論してくると、一転、主張を穏当な相対主義に切り替えて、反駁されないようにします。穏当な相対主義なら、ほとんどの人が同意する事なので、反駁される事もないので、相手に言い負かされる事はありません。

しかし、そうやって議論を交わした後、反駁されなかったという事から、主張を再び戻して、極端な相対主義の方も正当であるかのように印象付けるます。こういった主張の曖昧さの状況による使い分け、という事は、論点のすりかえと呼ばれる、詭弁の技法の一種であり、正当な論法ではないと考えられています。

科学に対する相対主義者の中には、そういった論点すりかえ、すなわち、穏当な相対主義と極端な相対主義を使い分ける事によって、科学批判および自らの立場の正しさを印象付けようとする人がいるわけです。(さらに問題は、しばしば、そういった使い分けを無自覚で行っているらしい事だ。)

しかし、こういった主張の仕方は、上手く相手を言い負かせる事が出来たとしても、やはり、正当な議論の仕方ではないし、また、正当な相対主義の主張でもなく、それを歪曲、悪用したものだといます。以上が相対主義的な科学批判において、しばしば見受けられる、好ましくない主張の仕方です。

まとめ

1 稚拙な論証による科学批判

客観性のゆらぎ、科学の見直し、といった時代の流れに乗じて、感情的で独断的な科学批判を展開したり、間違った知識や、稚拙な論証によって、科学批判をする人がいる。

2 論点のズレ

科学というのは絶対的に正しいものではない、という主張は、ほぼ自明の事であり、それを相手への反論とするのは、論点がズレている場合が多い。

3 好ましくない主張の仕方

科学の具体的な内容について学ぶことなく、科学的事実も相対的な事実の一つにすぎないと主張し、その事から、科学の全てが否定されるかのごとく主張するのは、好ましくない主張の仕方である。

4 相対主義を主張しながら自らの立場に対する反省や考察がない

相対主義を主張しながら、自らの立場に対する反省や考察がないのは、好ましくない主張の仕方である。

5 科学だって確かではなく相対的だ、「だから」

科学だって確かではなく相対的だ、「だから」私の立場は正しいというのは、論理性の乏しい、稚拙な論法である。

6 主張を使い分ける

相対主義には、穏当なものから極端なものまで、さまざまなバリエーションがあり、相対主義者は、しばしば状況に応じて、主張を使い分ける。しかしそれは好ましい議論の仕方ではない。

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