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ある朝鮮人労働者が生きた歴史

互いの過去と真摯に向き合う

砂上昌一 元石川県同和教育研究協議会会長

多くを語らずに亡くなった権さんの父

 私(権寧守)の父、権木玉は慶州の出身で当地で農業を営んでいました。1908(明治42)年4月生まれです。日韓併合の前年(1909年)です。母は1922(大正11)年生まれです。弟が二人いました。父が生まれた前年の1909年からすでに、非合法で九州の三井や三池炭坑の大手炭坑には石炭運搬や荷役労働者として朝鮮人が働いていました。

 1935(昭和10)年頃、父が25,6歳だったといいます。故郷の村で畑で農作業をしていると、そこに兵隊が来て本土に行かないかとの口車に乗せられて日本へ来たと聞きました。そして無理やりに車に乗せられたと言っていました。

 最初は故郷の慶州から九州の炭鉱に連れてこられたといっていました。九州のどこの炭坑か今は名前がわからないそうです。ここにいたのは1年くらいで、それから北海道の炭鉱に移ります。この炭坑の名前も聞いていないそうです。大きな炭坑だったそうです。仕事が厳しくつらく、そこから逃げ出して青森のリンゴ園に辿りついたといいます。そこの日本人夫婦にはよくしてもらったそうですが、なにぶん日本語がまだわからなかったので、そこの娘さんとの縁談がもちあがったのですが、1年も経たないうちにそこを出たそうです。そこから舞鶴の軍事工場に移りました。そこで終戦を迎えたのです。

 終戦後、父は朝鮮人の知り合いが定住していた石川県加賀市に移り住みました。母とは大聖寺に来てから結婚したそうです。私の生れは慶尚北道慶州郡です。その時、母は近くの機場で女工として働いていました。父は屑買いなどを商売としていました。この大聖寺で二人は結婚しました。

 このように徴用で労務動員を強いられながらも生きてきた父はあまり詳しいことを語ることなく亡くなりました。

 父の話をもっと詳しく聞いておけばという後悔がありますが、父もつらい話をすることには抵抗があったのだと思います。朝鮮人の日本への労務動員は ・・・ログインして読む
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筆者

砂上昌一

砂上昌一(すながみ・しょういち) 元石川県同和教育研究協議会会長

1943年生まれ。金沢大学大学院経済学研究科修士課程修了。元中学校長。編著書に『教師再生』『石川県における在日朝鮮人関係新聞記事目録』『北陸3県における在日朝鮮人の定住過程(戦前・戦間期)』など。