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ある朝鮮人労働者が生きた歴史

互いの過去と真摯に向き合う

砂上昌一 元石川県同和教育研究協議会会長

「チョーセンジンは帰れ」

 今から30年前のことになります。私は中学校の教師をしていました。ある日、朝鮮人の女子生徒が同じ学校の生徒から「朝鮮人は朝鮮へ帰れ」という言葉を浴びせられるという事件が起こりました。

 私はそこで初めて朝鮮人の存在を具体的に意識することになりました。それまで学校では朝鮮人生徒の存在など話題に上ることなどありませんでしたから、そのような差別発言に唖然としました。そして周りの教師にもそのことの差別性を話しましたが無視されました。ただ憤慨するだけで波風を起こさないようにしょうとする大勢の教師に、私も抗することはできませんでした。そこから私は人権・同和教育を学ぶことになったのです。

 最近、知り合いの権寧守(72)さんは公衆浴場で肩をふれあった男性から「チョーセンジンは帰れ」と怒鳴られたといいます。弱視である権さんにそう言い放った男の姿形がよくわからなかったので言い返すことができなかったと怒っていました。「なぜ、わしらがここに住んでいるのか。徴用のことは日本ではほとんど教えられていない」と権さんは言います。権さんは在日二世で、父親は徴用によって日本にやってきたのです。

拡大福岡県の麻生吉隈鉱業所で火災が発生、29人が死亡したうちの25人が朝鮮人だった。出火当時、炭鉱内にいた44人中、日本人は9人しかいなかった=1936年1月26日、福岡県桂川村(現・桂川町)
 
 かつて、女子中学生も権さんと同じ言葉で差別されています。朝鮮人に対する差別が依然としていまだ氷解していなことの証しでもあります。

 私は差別発言を受けた女子生徒の家族とはその後も付き合うことになりました。そこでは朝鮮人としての悩みや怒りなどを聞きながら、日本人として私の認識を鍛えられています。そして、地域の朝鮮人との交流しながら日本に暮らす朝鮮人のあたり前の感覚を共有したいと思って、いろいろ話を聞いてきました。ヘイトスピーチや徴用工問題などに怒りをぶつけようにも怒りのやり場がないといいます。日本人社会の朝鮮人に対する思考感覚は、かつてのそれから抜けていないとつくづく思います。

 徴用工問題から日韓関係が「戦後最悪」と言われるようになる中、改めて権さんの父親の話を聞きにいきました。かつて朝鮮で農家として生活していた権さんの父親、木玉さんの渡日の歴史は現代につながってきます。権さんは父親の話しをたくさん聞いていません。しかし、その隙間を埋めていくのが私たち日本人の仕事ではないでしょうか。想像力を働かせて戦前・戦後を生きた朝鮮人の生き方に学ぶことが多いと思います。お互いが知ることからわかり合えると思うのですが。

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筆者

砂上昌一

砂上昌一(すながみ・しょういち) 元石川県同和教育研究協議会会長

1943年生まれ。金沢大学大学院経済学研究科修士課程修了。元中学校長。編著書に『教師再生』『石川県における在日朝鮮人関係新聞記事目録』『北陸3県における在日朝鮮人の定住過程(戦前・戦間期)』など。