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ドラゴンテイル 辺境行路 作者:猫弾正

一章

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土豪 03

 遥かな北方の彼方。大地の果てには無垢なる万年雪を戴くネルヴァ大山系が位置している。

雪解けの時期にはしばしば氾濫を起こすものの、ネルヴァより流れ出る豊富な地下水は無数の支流からレテ河へと流れ込み、やがて大河となって人々を潤おしてきた。


 水に恵まれた北方においては、古来より文明が発達して人々は富み栄えてきた。

東部から南部に掛けても、沿岸部は比較的に豊かな降水量に恵まれ、大地を鬱蒼とした原生林が覆っている。


 北方からの開拓者や対岸よりヘスティア海を渡来してきた移民などが入植して、人族やエルフ族の小国家を群立させているが、その歴史も古く八世紀前まで遡ることが出来た。

それに対して、辺境と称される内陸においては記されている歴史は未だに浅い。

人が生きるには水が必要であるが、内陸奥深くの辺土においては水源は乏しい。


 故に辺土では人も疎らであり、少ない井戸や泉を巡って度々、争いが巻き起こっている。

古くから内陸奥深くで細々と生き続けている土着の民を除けば、開拓者たちが内陸目指して移り住み始めたのは、此処二、三世紀ほどであろうか。


 勿論、それ以前にも少数や家族単位で辺境に移り住んでいた者たちはいたが、そうした者たちは大概が沿岸部や北方などの文明圏から僅かに外れた土地に居留地を構築し、辺境の産物を本国と取引をして暮らすか、或いは土着の民と交流しているうちに雑婚し、混じりあって消えていくのが大半であった。


 北方諸国で広く普及しているネルヴァ暦にて718年。

東部沿岸の王国テスティアの暦で217年の現在。

人口が希薄で広大なヴェルニア内陸部の辺境においては北部諸国からの移民、或いは東部、南部など沿岸諸国からの入植者、そして土着の民が混在するでもなくモザイクの如くに住み分けて暮らしている。




 先程から誰かの弱々しく咳き込む音が、絶え間なく響いていた。

何度も何度も繰り返される魘されるような呻きや叫び声が耳を打つ。

何かの気配が近づいてくる。微かに床の軋む音がした。

何故、床が軋むのだろう?自分は旅人たちと共に丘陵にいた筈だ。

あれは夢だったのか。

それとも本当の自分は未だオークに捕らわれており、逃げ出す夢でも見たというのか?。

「夢だというのならば、オークの襲来が夢ならばよかったのに」

呟いた心算が、不明瞭な呻き声にしかならなかった。


 一瞬、立ち止まった気配が再び動いた。胸元に手が延びて来た。

双丘の膨らみに触れてから服の内側に侵入すると、素肌を這い回り懐をまさぐる気配がした。

意識の覚醒と共に身体の節々が痛んだ。

無理矢理にでも身動ぎすると、舌打ちと共に懐をまさぐっていた手が止まった。

そのまま気配が離れて遠ざかっていく。


 弱々しく咳き込みながら、溺れた犬のようにもがき躰を動かし続ける。

どうやら躰を乱暴するのが目当てでは無かったらしい。

 咳と共に躰を丸めながら服に隠れた腕輪に触れて、村から出る時に持ち出した銀貨がまだ裏側に在るのを指先の感触だけで確認する。


 ゆっくりと目を開けるとそこは薄暗い建物の一角だった。

鎧戸の向こう側では強い風が吹いているのだろう。閉じた雨戸がギシギシと揺れていた。

触れてみると目の前は重厚な樫の壁が塞いでいる。

部屋の入り口の向こう側から差し込む僅かな明かりだけが室内を微かに照らしている。

地面に映し出された影が揺れているのを見たところ、位置から壁に掛けられた松明らしいと見当をつける。


 少しずつ手足を動かして身体を馴らしながら、赤毛のジナは注目を浴びないようにあまり躰を動かさず、入り口から洩れる松明と思しき微かな明かりを頼りにして室内を観察してみた。

床には黒い人影が幾つも寝転び、投げ掛けられた弱々しい明かりが、亡霊のように室内の彼方此方に佇んでいる人影をおぼろげに照らし出していた。


 農民と思しきいでたちをした人々は、ある老人は床に躰を横たえて身を休めており、また別の中年女は怪我した子供を抱きしめて何やら言い聞かせていた。

再びオーク族に捕まってしまったのだろうか。

だが、オークの虜囚にしては室内の人々は血色がいいし、身形も汚れていない。

危惧を抱きながら無言でそっと身を起こし、周囲を見回して、己が見慣れぬ薄暗い大部屋に寝ていたのに気がついた。


 薄暗い広間の四方の壁には、松明を付ける為の金属の輪が取り付けてあるが今は松明はない。

絶望に叫びたくなるが、暗闇に目が慣れてくるに従い、室内の人々がオークの虜囚にしては血色がよく、虚脱や悲しみに近い愁嘆の空気は感じられても、恐怖や絶望に切羽詰った雰囲気はないのに気づいた。

そろそろと半身を起こすと、少し離れて隣にいる中年の女に話しかけてみる。

「あの……此処は?」

 喉から出た声は弱々しく掠れていた。

女は胡散臭そうに刺々しい眼差しでジナを見つめ返してきただけで、何も返答は得られなかった。

仕方なく立ち上がり、部屋の入り口がある方向へ向かうと、横合いから聞き慣れぬ言葉が投げかけられた。

痩せた老人である。

単語の意味が分からず、途方に暮れて首を振ると同じ言葉を繰り返し、呼びかけてきた。

どうやら喋る言葉が違うようだ。

聞き覚えのある北部語でもなければ、幾らか分かる東部語でもない。彼女の知らない言葉。

「分からない」

 首を振ってそう告げて扉を潜ると、長大な廊下に出た。

室内にいる人間は、誰も邪魔しない。

どうやら、彼女がいるのは巨大な石造の館の一角のようだった。


 外の廊下では、武装した男女が何人も忙しなく行き交っている。

農民兵だろうか。武器は持ちなれていない感じでは在るが、オークではなく、人族の姿に安心する。

奴隷商人の私兵とも思い難い。

「ここ……は?何処ですか?」

通りかかった男に話しかける。

『邪魔だ。娘』

だが相手にされず、突き飛ばすようにして跳ね除けられた。

「……あう」

 赤毛の娘の弱った身体は一溜まりも無く、崩れ落ちてしまう。

誰か、偉い人間に急を知らせるよう、取り次いでもらわないといけない。

使命感がジナの弱った躰を再び立ち上がさせ、廊下をふらふらしながら二、三歩を進むが、息を切らして壁により掛かった。

廊下で今にも崩れ落ちそうな様子のみすぼらしい身なりの娘を見咎めたのか。

農民兵の一人が話しかけてきた。

『こんな処で何をしている?』

だが、北方系の村に育ったジナにとっては、聞き慣れぬ訳の分からない言葉でしかなかった。

「此処は、此処は何処ですか?私は、北のモアレの村のものです」

赤毛の村娘が口に出した言葉の意味が分からない様子で、男はポカンとしている

村が襲われて、助けを必要としている。必死で繰り返すが、

男は戸惑ったようで周囲に視線を配り、幾人かの人間を呼び止めた。

『こんなところにきちゃいかんぜ』

『何言ってるんだ?』

『物狂いなのか?』

『でも、可愛い顔立ちしてるぜ』

『赤毛だし、北方人の言葉か?』

『北方人?』

口々に喋りながら、男達が近づいてくる。

『いずれにしろ、避難して来た連中の一人だろ。

邪魔にならんように、部屋に寝かしておけ』

貧しい身なりを見て判断し、一人がジナの腕を掴んだ。

「……離して!私は!」

『いいから、来いよ』

腕を引っ張り、大部屋の方へと連れて行かれる。

「お願い。モアレが大変なの。わたしの×○が襲われて……」

赤毛のジナが必死で訴えるも、もはや男たちは相手にしない。

『分かってるよ。家族を失ったのはお前だけじゃねないんだ。

今は休んでろ。旦那がいいようにしてくれるさ』

『なんだ。喚くな』

『あっ、暴れるなよ』

見咎めたのか。戦士らしいいでたちをした人族の若い男が大股で歩み寄ってくる。

『何を騒いでいる?お前ら、娘を手篭めにでもする気か?』

舌打ちする。

『とんでもない』

『ほら、立て!こっちに来るなといってるだろ』

『大部屋に戻れ。後で食い物を……』

何か言ってる男たちの手を振り払って、偉そうな若い男に詰め寄った。

「私はモアレの村人で……!」

頭目格らしい。

「モアレがオークに襲われました!南の豪族に知らせないといけないのです!お願いです!取次ぎを」

『……何かを言ってるな』

『街道筋に倒れていたんで、パリス様が連れて来たんです』

『パリスが?』

呟いた若い男は、急に嫌悪感の溢れる目でジナを見定める。

『ふん、乞食女を拾ってきて慰み者にでもする心算か。母親に似て淫蕩な血は争えんと見える』

 目の前の男たちは、気まずそうに顔を見合わせた。

最初に足を止めた農民兵が、念の為に聞いてみる。

『だが、何か必死だ。北方語かも知れん。分かる者を連れてきて聞いてみないか?』

『必要ない!』

 やはりジナの分からない言葉だ。

若い男は詰問するような喋り方で何かを言うと赤毛の娘の腕を取り、部屋へと押し戻した。

オークから逃げ出して、奴隷商人に捕まってしまったのだろうか。

すっかり途方に暮れた赤毛の村娘は、壁に寄りかかると目を閉じた。

今は兎に角、躰を休めよう。

朝になれば、どんな状況にいるのかも幾らかは分かる筈だ。

全てはそれからだろう。




 旅籠の部屋の暖かさとエリスの看護によって、アリアはめきめきと健康を回復させていった。

元々、強靭な生命力の持ち主である。

目覚めたその日のうちには立って歩き廻り、数日も経つと殆ど元の元気を取り戻したようにも見える。


 一昨日までは激しい運動は避けていたが、昨日からは少しずつ躰を動かし始めていた。

部屋で腕立て伏せをしたり、荒地を散歩するなどの軽い運動だが、やはり体力は衰えており、宿屋の近くにある丘陵の頂までやって来ただけで息を切らしていた。

軽い坂道を登りつめた程度なのに、人族の娘は真夏の犬のように息を乱して辛そうに俯いていた。

「……鈍ってる」

 鴉の濡れ羽色の黒髪をかき上げながら、女剣士は目を閉じて乱れた呼吸を整えていた。

鈍った身体のキレを取り戻すには、相当に時間が掛かりそうだと憂鬱そうに表情を歪めた。

「まあ、おいおい調子を取り戻していけばいいよ」

 傍らに立つエルフの娘はやけに気楽そうだが、此方は全く息を乱していない。

先日は凄絶な色気を見せて迫った癖に、今は忘れたかのように接する態度に変化もない。

思い煩ったアリアにとってはその方が気楽ではあるが、少し戸惑いを隠せなかった。

「うむ」

 何となく釈然としないものを感じたが、八つ当たりしても仕方ない。

女剣士はやや渋い顔で頷くと、休憩を切り上げて勾配を下り始めた。

旅籠へと戻る道すがらの丘陵の勾配からは、街道筋を往来している人々の姿が胡麻粒のように見下ろせる。

 珍しく暖かな日差しの冬の早朝。身体の具合も随分と良くなった。

澄んだ空気を胸に吸い込みながら、機嫌の良くなった女剣士は鼻歌などを唄っていた。

と、旅籠の近くまで来た時、エルフ娘が立ち止まった。楽しまぬ顔つきで街道の方をじっと眺めている。

 何事かと女剣士が目を凝らすと、街道を歩いていた最中の農民が街道沿いの木陰で身を休めていた六、七人の集団に絡まれていた。

 集団は家族連れらしく女子供も連れた多勢であり、疲れた表情で道端に転がっていたのが、通りかかった農民を取り囲んで何やら騒いでいる。

二人の娘が泊まっている旅籠に近づいていくにつれて、騒いでいる声も耳に届き始めた。

……ッ!

これは宿に届けなくちゃならねえんだよ!

俺達に飢えて死ねって言うのか!

昨日だって幾らかやっただろう!

子供が腹を空かしてるんだよ!

こっちだって、そんなに余裕はないんだ!何をする!止め……ッ!


「なんの騒ぎか興味はあるが、巻き込まれるのは御免だな」

アリアの呟きに同意して、エリスが頷いた。

 野次馬根性を発揮した二人の娘は、木陰からそっと覗きこむと、農民を取り囲んだ集団が如何やら持ち物を奪おうとしている様子だった。

農民は棍棒を振り回して抵抗していたが、一人ではどうしようもない。

あっという間に叩き伏せられ、持っていた籠から魚や野菜を無理矢理に奪われている。

暴徒は食料を根こそぎ奪い去ると、今度は倒れた農民の懐まで探っていたが何もなかったのだろう。

地面に唾を吐いて、立ち去っていった。

 暴徒がいなくなったのを見計らって物陰から出ると、二人は地面に突っ伏して呻いている農民を助けてやろうと近づいていった。

「……大丈夫?」

エリスが訊ねると、呻き声を返してきた。

 服は破れ、引き裂かれ、顔の彼方此方が腫れあがり、引っ掻き傷もあり、如何見ても大丈夫ではないが、意識はあるようだ。

よく見れば此処数日、旅籠に野菜やら魚を時々、売りに来る川辺の村の若い男で一応の顔見知りであった。

助け起こすと、口の中で何やら罵り続けている。

「いちゃい……ひくしょう……あいひゅら。おんしらじゅめ」

呟いた村人の歯が、真っ赤に染まっていた。口からぽとぽとと血が流れた。

「手酷くやられたねえ」

エリスが言ってはいるが、命に関るほどの怪我でもない。

ふらふらしている村人に肩を貸しながら、取りあえずは旅籠へと向かった。


 旅籠『竜の誉れ亭』は、近隣の人々の交流の場である酒場も兼ねている。

叩きのめされた若い青年の姿に親父は目を丸くして近寄ってきた。

半エルフの娘が小銭を出して、エールを三つ注文する。

「ほら、呑むといいよ」

「しゅまねえ……」

「あいつらは何者なのだ?」

アリアには、薄々、襲った連中の正体も見当ついていたが、敢えて訊ねてみる。

 恐らくは、オークから命辛々逃げてきた近隣の農民だろうと当たりをつけて、何か言いたげにしているエリスに何やら目配せして黙らせてから、

 杯を受け取った若い村人の男が、傷に染みるエールをちびちびと飲みながら事の次第を語り始めたところに寄れば、やはり近隣の見知った農民の一家だったそうで、数日前にオークに家を焼け出されて行くあてもないままに街道を彷徨っているらしい。

 僅かに幾ばくかの野菜や穀類は袋に持っていた物の、しかし持ち出せたのはそれだけで、程なく家族全員が飢えて路頭に迷うのは目に見えていた。

「だから奴ら、哀れにおもっちぇ、食い扶持減らしてまで助けてたのに、鴨だと思ったのか奪い取りやがった。いてて」

喋り方の呂律が大分廻り始めていた若い男だが、舌先で頬内の傷を確認したのだろう。

表情を歪めて変な顔をしている。

「そいつらなら、知っていますぜ」

厚切りにした酢漬けの蕪を卓に置いた親父が、不機嫌そうに歯軋りした。

「うちの旅籠の近くで人を襲うたぁ。只で泊めてやった恩を仇で返しやがって」

ぶつぶつ言いながら厨房に戻る太った親父の顔は怒りに赤く染まり、額には血管が浮き出してトロルみたいな迫力があった。

 暫し沈思していたアリアが、陰気に俯いてるエリスに語りかける。

「飢えて破れかぶれになっている事も多いので、暫らくは用心が必要だな」

半エルフは無言で頷いた。

見ず知らずのか弱い女など、襲うにはまさしく絶好の獲物だろう。

「自分たちを助けた顔見知りに襲い掛かるほどに困窮している。

 女の二人連れでは、嵩に掛かって荷物を奪おうとするかも知れない」

告げて、やや陰気な表情でエールを啜りながら女剣士は再び沈思黙考する。


 内陸の辺境地帯。特にその日その日を生きるのがやっとの貧しい土地では、

人が助けあう余裕などそうそうはないだろう。

 元より地の果ての吹きだまりと言う側面がある内陸部の辺境地帯。

都落ちした者、或いは追放者の子孫も少なくない。

言葉や慣習、奉じる神も見た目も異なる人種と種族の寄せ集められた土地ならば、

互いに見ず知らずの間で信頼を培うのも難しく、

いざ事あれば、追い詰められた者は容易く獣となるだろう。


 まして辺境には、法を敷き秩序を司る王家や君主などの強力な支配者がいる訳でもなく、

長い歳月をかけて醸成された強い共同体意識も無い。

弱肉強食の掟がまかり通るのも、止むに止まれぬ事例なのかも知れない。


 己が領地に帰ったら、有事に領民同士が助け合う為の仕組みを作っておくのも良いかも知れぬな。

頭の片隅で色々と考えているアリアの傍ら

「ふぅい。行くあてもないまま、か。」

苦い声で呟いてからエールを呷ったエリスが、頬を染めて切なそうに独りごちた。

蕪を摘まんで口に運んでいたアリアが、ピクルスを飲み込んで何か口を開こうとした時、

「も、もし行くところがないなら、お、おいらのいえに、き、来ても……いいんだぜ」

美貌のエルフ娘の溜息に見とれていた若い村人が唐突に素っ頓狂な口説きを始めて、同じ内容の言葉を掛けようかと一瞬考えていた人族の娘は思わず音高く舌打ちしてしまう。

「遠慮しておく」

即答されてへこんでいる農民を尻目に、想い人が見せた嫉妬にエルフの娘が何処となく嬉しそうな顔をした。

思い思いにエールを啜っている三人の背後で、親父が怒鳴り声を上げていた。

「小僧。川辺の村は分かるな!?」

やや元気の無い様子の小僧が頷くと

「ロドゴンの兄弟を探して、ロドゴンが怪我をしたから迎えに来いと伝えてこい!」

「親父さん、其処までして貰うほどじゃあない」

若い村人が反論するも、怒り狂った親父は憮然とした様子で喚いた。

「ほっとけるか。奴ら見つけたら只じゃおかねえ」

二人の娘は我関せずの態度でエールを啜りながら、蕪のピクルスを摘まんでいる。

安い割には意外といい味だった。



 北の農家や農園、荘園が、散発的にオーク族による襲撃を受けている。

そんな噂が街道筋を駆け巡っているのは耳にしていた。だから、村の長老にして郷士であるカイ老人も用心してはいたのだ。

 だがカイ老人に出来たのは、精々が配下の武装農民共に街道の見回りを命じて警戒を密にする事くらいであったし、此の二十年来、一度たりとて亜人や異民族の襲撃を受けたことの無い辺鄙な村の民人たちは、日々の仕事の増えることに嫌気が差して不平たらたらであった。

街道からも外れた丘陵の麓。

張り巡らされた狭い柵の内側、井戸を中心にして十戸もない小屋や納屋が点在するだけの小さな村である。

 全般的に怠惰な雰囲気が漂う村人たちのうちで、幾らかでも張り切った様子を見せていたのは単調な日々に退屈を感じていた若者たちくらいだろう。

見回りを命じたカイ老人でさえ、懸念はしつつも実際、オークが襲撃してこようとは考えていなかったのだ。


 凄まじい轟音が響いてきたのは、深夜の帳に包まれた村の何処かであった。

明け方未明か、夜更けなのか。

それすら分からぬままに、眠りを破られたカイ老人は寝台から跳ね起きる。

何の音であろうか。轟音は一度ではなかった。二度、三度と立て続けに響いてくる。

家の外から響いてくるのは喚き声。そして悲鳴。大勢の人間が駆け回るような足音。

まさか!オークが本当に襲撃してくるとは!

 事態を甘く見ていたことへの痛烈な後悔と恐怖が、郷士の老人の背筋を落雷のように貫いていた。

嫌な冷や汗が吹き出すと共に全身に粘りつくような恐怖が、数瞬の間、老人を歪な石像のように凍りつかせた。

 しかし、長年連れ添った老妻の脅える姿を目にして、老郷士は無理矢理に正気づく。

意志の力を振り絞って勇気を鼓舞すると、隣にいる妻に大丈夫だと慰めを掛けながら鎧戸から顔を出して外の様子を窺う。

 星明りだけが夜の帳の舞い降りた村を照らしていた。

闇夜の大地を跳ね回るようにして蠢く邪悪な影をカイ老人の目は確かに捉えた。

 五人か、それとも六人か。

カイ老人に見えるところでは、それほどの数は確認できない。

耳にした噂では、オークはしばしば二十、三十の大人数で行動すると聞いていたから、その点では、襲撃の規模が小さいのは幸運であっただろう。

されども仮に十人程度であるとしても、この小さな村落には充分な脅威であった。


 星明りを頼りに、壁に掛けてあったやや小振りな剣を手に取ると、

「此処にいなさい。アン。私が声を掛けるまで外に出てはいけないよ、いいね」

脅えている老妻を抱きしめて優しく声を掛けてから、鍵を掛けるように言い含めて、老いた郷士は慎重に家の外へと進み出た。


 確認できるオークの人数は四人。他にもいた筈だが、村の裏手へと廻ったのか?

村人たちの姿が見えぬ。

慌てふためき、或いは脅えて家の中に閉じこもっているのだろうか。

 物陰に身を潜めたカイ老人は、そっと様子を窺いながら耳を澄ませてみた。

オーク達は家に押し入ろうともせず、村道の真ん中に立ち止まってなにやら話し合っている。

豚も山羊もいねえ!

猿共、脅えて出てきやがらねえな。

小さな村よ。女でも捜すか?!

どうやらあれが一番、ましな猿の小屋よ。何かあるかも知れねえ。

それより猿共が起きてくる前にさっさと退いたほうがいいぜ。北の村へとよ。

へっ、猿がおっかねえのかよ?グ・ズル。

兄貴がいる限りは負けはしねえが、猿に追われるのも面倒くさいぜ。


 唾を飲み込んで強く剣を握り締めたカイ老人の腕が武者震いに小さく震える。

オーク共が喚いているのは南方語であった。やはり丘陵より来たオーク共に違いない。

革服や布服に、村人たちとさして変わらぬ粗末な武具を手にしていた。

これなら何とかなるかもしれぬ。

 此処は家の中で混乱しているであろう村人たちに、明確な指示を与えて、行動の指針を示さなければなるまい。

決断するや「皆の者!出会え!敵襲ぞ!オークが攻めてきおったぞ!」

カイ老人は村中に聞こえるほどの塩辛声を張り上げながら、村道で小剣を振り回した。

直ぐに村人、特に若衆たちが六尺棒や殻竿、鎌などの得物を手に手に家から飛び出してくる。



 オーク共が怒りの咆哮を上げて一斉に反撃に出た。

十余人の村人たちと四人のオークたちが入り混じって激しい乱戦となる。

怒声と絶叫が飛び交い、収集の付かない乱戦に陥った。

裏手の納屋の方から足音が聞こえてくる。

カイ老人が振り向くと同時に新手のオークが二人駆け込んできた。

劣勢に陥っている仲間を見ると、武器を抜いて乱戦に飛び込んでいく。

カイ老人は剣を振り上げてオークのうちの一人に立ち向かう。

「カイ・ボズウェルの剣を受けよ!」

「邪悪なオークもどきの猿!くたばれ!」

オークの振り下ろした短剣とカイ老人の小剣が激しい勢いで噛み合った。

「ふぬぬ!ふん!」

オークの刃を逸らすと、カイ老人は再び切りかかった。

腕から血を流してオークが飛び退った。

浅い。

 怒りの声と共にオークの短剣が闇にきらめいた。

此方はカイ老人の胸を僅かに切り裂いた。

痛みに歯を食い縛りつつ、老いた郷士は剣を構え直す。

オークは若くて力も強く、元気一杯であった。

カイ老人は起き抜けであり、まだ身体の反応が鈍い。

じりじりと押されて壁際にまで追い詰められる。

刃をかみ合わせたまま、若いオークが思い切って拳を振るった。

カイ老人の額が強打に揺れた。

「……ううむ」

目に火花が散って、カイ老人はくらくらとふらついた。

 さらに拳が降り注いで、苦痛で呼吸が苦しくなりカイ老人は口を開いて大きく喘いだ。

此処で死ぬのか。

無念に歯噛みした時、劣勢に陥った村の長老の様子を見て、若衆たちが駆けつけてきた。

「ッじい様、無事か!」

怒りの声と共に振り下ろされた棍棒がオークの背中を襲い、苦痛の叫びが上がった。

逃れようと身を捩ったところに二撃目が頬を砕いてオークが崩れ落ち、それを皮切りに村人達が数人掛かりで袋叩きにする。

「……おっ、御主ら。他のオークは……」

喘ぎながら壁により掛かったカイ老人に、棒を担いだ若者が事情を説明した。

「こいつ以外のオークは、もう逃げ出したぜ」

「そっ……そうか」

 視線を転じると地面の上に動かなくなったオークが二人、体を捻じって転がっていた。

疲労感がどっと押し寄せてきたカイ老人は、そのままずるずると地面にへたり込んだ。

「それで奴らの逃げ出した裏手の方だがな……柵がぶち破られていた」


 怪訝そうな若者の言葉も、疲れ切った老人の耳には右から左で素通りで届かなかった。

肩を竦めた青年をかすれた目でよぼよぼと眺めてから、老郷士は溜息を洩らして地面に俯いた。

疲れていた。老いた身体が酷使に悲鳴を上げている。兎に角、休みたかったのだ。


 袋叩きに合っていた若いオークは、苦痛の叫びを上げながら頭を抱えて必死にもがいていた。

「ぐあ、うお」

地面を四つん這いで這いながら何とか包囲を抜けだすと、そのまま村の外を目指して走りだす。

「まてこらぁあ」

怒り狂って追いかけてくる村人から逃げようと若いオークは死に物狂いで走るが、どこかで挫いたのか、びっこになっている。

「ひい!兄貴!助けてくれ!兄貴!」

「死ねや!オーク!」

逃げながら叫んでいるオークに追いついた農夫の一人が、手にした棍棒を振り下ろそうとして


 人が跳んだ。

地面と水平に十五歩ほどの距離を飛んでから、隣家の壁に叩きつけられた。

何故、誰も気づかなかったのだろうか。

オークの真横の民家の壁には、大穴が空いていた。

そしてその大穴から、巨大な棍棒を手にした人影がゆらりと姿を現す。

村人たちは、誰もが遠巻きにしながらぽかんと口を開けて人影を見る。

喜色満面のオークが涙を流しながら、拝むように人影の足元に跪いた。

 闇夜に巨大な影は、毛皮を纏っている。

ヴェルニアにおける庶民の平均身長が五尺少し(150~160cm)の時代。

背丈が優に六尺以上の巨漢を前にして、村人たちは天を衝くような巨人が出現したような錯覚を覚えた。

腕や太股の太さ、身体の厚みとなると倍もあったかも知れない。

 手にしているのは、信じられないほど巨大な棍棒。

到底、まともに振るえるとは思えない其れを右手だけで握っている。

あんなものに殴られたら、どんな頑丈な大男も一溜まりもあるまいと思えた。

左の肩には子どもと親ほども体格が違う村人の娘を、荷物のように担いでいる。

 娘は全裸であった。失神しているのか、ぐったりとしていた。

人影は村道まで出てくると、一瞬だけ村人たちのほうへ一瞥をくれた。

星明りが巨大な人影の顔を照らし出す。

 邪悪さの滲み出た醜悪で恐ろしい異形の容貌、口からは猪のような大きな牙が上向きに突き出していた。

 それだけで老郷士も村の若衆も震え上がってしまい、戦おうなどとは考える事も出来なかった。

ぐったりとした若い娘を肩に担いで、巨大な影は柵の破れた処から悠々と闇の中へ消えていった。

びっこをひいたオークが、その後を追っていく。

誰も後を追わなかった。

「なんだ、あれは」

若い農夫の一人が喘ぐように呟く。

「オークではない」

荒い息をつきながら、カイ老人がその言葉を繰り返していた。

「あれはけしてオークなどではない」

若い農夫が目をやると、胡麻塩頭の老人は身震いしながら血の気の失せた青白い顔で呟いた。



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