平川克美氏は政府の財政赤字は、国民の資産であり、将来の子供たちへの贈り物なのだと言う(写真:kawamura_lucy/PIXTA)
「財政は赤字が正常で黒字のほうが異常、むしろ、どんどん財政拡大すべき」という、これまでの常識を覆すようなMMT(現代貨幣理論)。関連報道も増え続け、国会でも議論され、同理論提唱者の1人、ステファニー・ケルトン氏(ニューヨーク州立大学教授)も来日し、各所での講演が話題になるなど、ますますホットなテーマとなっている。
このたび邦訳された、同理論の第一人者L・ランダル・レイ氏(バード大学教授)による著書『MMT現代貨幣理論入門』と、プロサッカー選手の本田圭佑氏も読んでいたことで近年話題となった、文化人類学者デヴィッド・グレーバー氏の名著『負債論 貨幣と暴力の5000年』に共通性を見いだす平川克美氏が、実体験を交えながらMMTの本質を解き明かす。
貨幣論のない経済学
不思議に思っていたことがある。
経済学の文献を渉猟していると、市場の動向と金融政策に関する詳細な分析はあるのだが、貨幣論が見当たらないのだ。
私は経済学に関してはまったくの素人だが、貨幣、負債、信用については長い間考えてきた。20代で起業して以来、ずっと負債を抱えながら事業を続けてきたから、こうしたテーマは身近で、生々しいのである。
そのうえで言うのだが、経済とは、私にとっては、貨幣現象であり貨幣論抜きには語りえないものであった。
私は貨幣に関する知見を、経済学からではなく、経営の現場や複式簿記から学んできた。そして貨幣論に関する知見は主に文化人類学の書籍の中に見いだすことになった。
人類学のフィールドワークは、貨幣交換の先駆的形態としての物々交換社会など存在していないことや、部族社会における贈与、蕩尽、ポトラッチ(贈答交換)、沈黙交易、クラ交易(儀礼的交換)といった習俗の中にすでに前貨幣的な経済が息づいていたことを報告している。
そして喜捨、お中元、お歳暮といった贈答の習慣からバレンタインデーのチョコレートに至るまで、この世界には等価交換とは異なる交換が今でも生き続けている。
貨幣は、等価交換を促進する万能の商品であり、貨幣こそが経済を発展させてきたという伝統的な考え方には、根本的な錯誤がある。
私は、「貨幣とは負債である」という考え方をデヴィッド・グレーバーの『負債論』で知り、これこそ、現代の貨幣を最も明快に語っていると膝を打った。貨幣はモノや商品である以前に、負債関係の尺度なのだ。
私は、そのときはまだMMTについてほとんど知識がなく、その理論も知らなかったが、今読み返してみれば、グレーバーの貨幣論の背景にはMMTがあったのは明らかである。
さて、「貨幣とは負債」だとするならば、誰でも貨幣を作れることになるではないか。
そんなバカなことがあるかという反論があるかもしれない。貨幣が負債だとしても、負債が貨幣というわけではない。負債が貨幣として機能するためには、その負債が第三者に譲渡できなければならない。
つまり、譲渡可能な負債だけが貨幣として機能する。第三者は、譲渡された負債である「借用書」をしかるべき機関に持ち込めば、いつでも現金に換えることが可能になる。
国家で流通する貨幣の場合、この譲渡可能性は何によって担保されるのか。ここが難問だった。
MMTはこれに対してすばらしいアイデアを提供する。国家は自ら発行した貨幣を、徴税の手段として受領することで、この譲渡可能性を保証したというのである。納税の義務というが、国民国家が成立して以後、税は国家に対する国民の負債の返済になったのだ。国家が受け入れる借用書(=貨幣)こそ、最も信用に足る貨幣であるのは誰でも納得できる。
この貨幣論は、魅力的であるだけでなく、私たちの経験とも相入れる。実際、取りっぱぐれのない負債でなければ、誰も受け取らない。
グレーバーは『負債論』の中で、1694年のイングランド銀行の創設の歴史は「それ以前の貨幣形態の[反転した]鏡像だった」と書いている。イングランド銀行は、対仏戦争の戦費になったウイリアム3世の借金を引き受ける代わりに、銀行券の独占的発行を許可されたのである。これがヨーロッパ発の国家紙幣に発展していったのだ。
MMTの「貨幣論」
そもそもMMTの貨幣論とは、どういうものなのか。
MMT以前の貨幣論の典型はおよそ3つあった。
1つは、貨幣それ自体が1つの価値のある商品というものであり、貨幣とは金や銀と同等の金属であり、硬貨は金や銀の一定量を内包していた。紙幣もニクソンショックの1971年まではいつでも等価の金と交換可能な証文だった。これが商品貨幣論(金属貨幣論)である。
2つ目は、貨幣とは国家権力が発行する価値の担い手であるというもので、国定貨幣論と呼ばれるものである。
3つ目の貨幣論は、金との兌換性を失った不換紙幣以後の貨幣を説明するもので、貨幣とは国家がその価値を認めたものでもなければ、それ自体に価値が内在しているものでもなく、貨幣が貨幣として流通しうる理由は、それが貨幣として流通しているからだという循環論法のうちにあるという信用貨幣論だった。
今日の貨幣論であるMMTは、この3つの貨幣論のいずれにも不備があるとする。商品貨幣論は、もともと貨幣とは物々交換の不便を補うものとして発展し、保存が可能で、持ち運びが便利な、交換の万能性を有した価値、つまりは万能商品のようなものだというものだが、物々交換による経済など歴史上存在していないという事実によって覆される。
2番目の国定貨幣論は、国家は貨幣を作り出すことは可能だが、国家権力が及ばないところでも流通する地域マネーをうまく説明できない。
3番目の信用貨幣論は、前2者に比べればはるかに現代貨幣の本質に近づいているものだが、最初に貨幣への信頼が生まれたのは何によってなのかという問いにうまく答えることができない。
MMTは、上記のうち、国定貨幣論と信用貨幣論を架橋してみせたのである。MMTが主張するのは、貨幣とは社会的技術であり、貨幣とは国家が税の受領という行為によって信頼を供与した負債であるという、国定信用貨幣論である。
わが身体的「MMT」論
「貨幣とは負債」という当たり前のことを理解するためには、現代貨幣というものが「通貨と預金」であるという事実に注目する必要がある。
例えば私の会社が1000万円の融資を受けると、銀行は会社の通帳に1000万円と記帳する。別に、札束を私に届けてくれるわけでもないし、その金額に見合う通貨をそろえている必要はない。
つまり、銀行は通帳に記帳するだけで、貨幣を無から作り出したのである。ただし、この通帳貨幣は、もし会社が銀行に請求すれば紙幣を払い出さなければならない。だから、銀行が作り出した1000万円は、銀行の負債でもあるのだ。
さて以下は実話なのだが、連帯保証人である私は、会社を畳むために、年来の負債を返済したばかりだったので、この言葉はなおさらリアルに実感された。
私は自分の個人口座に記帳された残高のほとんどを、融資銀行へ振り込むことで融資残高をゼロにした。銀行が融資の際に作り出した“印字貨幣”もこの瞬間にゼロに戻ったのである。この間、現金のやり取りは融資から引き出した紙幣以外にどこにも顔を出すことはなかった。
貨幣とは、負債であり、負債が成立する理由はその背面に信用が生まれるからである。この場合の信用とは、あいつは嘘を言わない信用のできる奴だとか、清廉潔白で信用のおける人間だという場合の信用とは少し違う。債務者は、必ず期限までに返済するという蓋然性のことである。重要なことは、この負債が譲渡可能であるかどうかということである。
担保があれば、その蓋然性は高まるし、老人よりは若者のほうが、長期的な返済を行える可能性が高くなる。
こうした貨幣に関する考え方は、これまで私たちが慣れ親しんできた伝統的な貨幣観である商品貨幣論とは随分違う。もちろん商品貨幣論が間違いなのであって、今日の貨幣現象の多くは商品貨幣論ではうまく説明することができない。
リーマン・ショックのことを考えてみればいいと思う。
サブプライムローンなる怪しげな負債を証券化したものが銀行の商品になり、バブルの引き金になっていったわけだが、そもそもサブプライムローンなる返済能力の怪しい負債がどうして貨幣のように振る舞うことができてしまったのか。格付け会社は、インサイダーであるにもかかわらず、無責任な裏書きをしてしまったのだった。あれは、一種の詐欺であった。
金融ビジネスの世界では、実体の裏付けのない信用だけが一人歩きしていたのである。もともと現物の商品や、通貨を媒介しないコンピューター上の印字取引は、これまでの商品貨幣論をはるかに追い越してしまっている。そこに詐欺的な取引が入り込む余地ができた。
信用がマネーとして機能し始めるのは…
さて、マネーとは信用の特殊な形態であり、貨幣交換とは信用取引を清算することであり、通貨とは信用関係を基礎にして流通する代用貨幣にすぎない。
現代貨幣論のポイントは、すべてのマネーは信用だが、すべての信用がマネーであるわけではないというところだ。その違いは、譲渡できるかどうかにある。借用書は、それが2当事者間だけの契約である限りは、融資でしかない。
『21世紀の貨幣論』の著者であるフェリックス・マーティンは言う。信用はそのままでは、マネーではない。信用書を第三者の手に渡すことができるようになる、つまり、金融用語でいう「譲渡」あるいは「裏書き」ができるようになると、信用に命が吹き込まれ、マネーとして機能し始める。
MMTは、国民の負債である税を、国家が創出した貨幣で受領するということによって、この難問に1つの答えを与えたのだと言う。これはなかなかすばらしいアイデアである。
MMTは、現実の経済政策に対しても、まったく新しい知見を提供することになる。
アレクサンドリア・オカシオ・コルテス(以下AOC)や、バーニー・サンダースの演説を聞いていて強く感じたことがある。
経済格差や、差別や、失業を、個人の問題ではなく、社会の瑕疵(かし)であると考えている彼らは、自分たちが何を主張し、どんな政策を実行すべきかについて、明確なヴィジョンを持っており、左派は本来的に何を言うべきなのかに関して、ほとんど迷いがないということである。
一方、日本のリベラル政治家は、実現したい目的は同じでも、自分たちが何を言うべきなのかについて、所信があるのか疑わしく思うことがある。
例えば、社会保障の充実や、企業に対する累進課税や資産課税、教育や医療の無償化のような主張をしても、「それは理想だが、財源はどうするのかね」「財政赤字は借金のツケを将来先送りしているだけじゃないか」「ハイパーインフレになったらどうするんだ」と言われるとつい口ごもってしまうことになる。
だからグランドデザインを提示できず、年金問題や、緊縮財政といった単独のテーマでしか、政府与党に迫ることができない。
民主党時代の野田佳彦首相や蓮舫議員に典型的に見られたように、左派もまたプライマリーバランスを回復させるための緊縮財政は最重要の課題であると考えていたのであり、どこかで国民の多数意見に迎合的になる。もちろん、この考え方は間違っている。
財政赤字こそ、健全な状態
なぜそれが間違っているのか、なぜAOCやサンダースはあれほど強い自信を持っているのか。AOCにせよ、バーニー・サンダースにせよ、彼らの経済的バックボーンには現代貨幣に関する強固な信念と理解があるのだ。
その中心にあるのが、MMTである。MMTとは、モダンな貨幣論ということではない。もちろん、そうした含意もあるのだが、その真意はModern Moneyに関する理論、つまり現代貨幣というものについての、明確な理解とヴィジョンのことなのだ。
彼らにとっては、緊縮財政という言葉は、ほとんど問題にならない。財政赤字こそ、健全な状態なのだ。現代貨幣理論は、一方の赤字は他方の黒字であり、誰かの債務はほかの誰かの債権であるという複式簿記の常識から出発している。
つまり、政府の財政赤字は、国民の資産であり、それは借金のツケ回しではなく、将来の子供たちへの贈り物なのである。だから、国家こそが最後の雇い主となって、積極的な財政出動によって喫緊の課題であるデフレを脱却すべきなのだ、と主張する。
財政赤字を恐れる必要はない。なぜなら、国家の赤字は、国民の資産なのであり、国民が現金化を望むならば、国家は貨幣をいくらでも創出できるからである。なんだか、今までのわが国の経済政策の議論はなんだったのかというような論旨だが、彼らの言い分には十分な根拠もあるし、実績もある。
アメリカの場合、これには前例がある。1930年代に、国家が先導して有効需要を創設したニュー・ディール政策がそれであり、その理論的な背景には、ケインズの革命的な経済理論があった。
日本において、このことを理解し、実践しようとしている政治家は、今のところ、ほとんど存在していないのだが、2019年に相次いで出版されたMMTの入門書、理論書によって様相が一変する可能性も出てきた。MMTは、これまでの主流派経済学者の論拠を、根底的に反転させてみせたのである。
20年続くデフレ対策として、黒田日銀は異次元の金融緩和政策を打ち出し、2%の物価上昇を皮切りに、デフレから脱却し、再び経済成長軌道を取り戻すと宣伝し、実際にその政策を断行したのだが、一向に物価は上がらず、ましてや実質労働賃金は下降、上がるのは官製相場になっている株価だけで、足元の経済はデフレのまま凍りついている。
今必要なのは財政政策を推し進めること
需要がなければ、銀行にいくらお金を積み込んだところで、誰も借り手にはならないのは当然なのだ。将来が不確実であればあるほど、人も企業も、投資や消費よりは、貨幣を通帳に積み上げることに熱心になる。
20年続いているデフレの原因は、供給過剰であり、総需要の減衰であるのは明らかだ。総需要を喚起できない金融緩和をいくら続けたところで資金は銀行に積み上がるだけで、物価も給与も上がらない。
今必要なのは、政府が最後の雇い主となって、財政政策を推し進めることだと、MMTは主張している。闇雲に財政支出を拡大せよというのではない。減税を断行し、社会共通資本分野、すなわちインフラ、医療、介護、教育の分野に積極的に投資する。
それによって需要を喚起し、本当の意味での雇用を改善する。何でも民営化、自己責任という新自由主義的な発想とは真逆の政策である。
MMTの貨幣論は、これまでの伝統的な貨幣論を反転させた。貨幣論が反転すれば、社会政策も転換される。MMTの紹介者であり、『MMT現代貨幣理論入門』の解説者でもある中野剛志が言うように、MMTは、天動説だった貨幣論に、地動説を吹き込んだといえるのかもしれない。
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