その7 登場人物の役割①…母親(その6の続き) 「アポロの歌」連載当時の1970年代前後は、ある程度の長い期間、「スポーツ根性もの」略して「スポ根もの」が少年漫画の主流の一つであった。 特に梶原一騎の原作を筆頭に、野球・空手・プロレス等々のスポーツ漫画が隆盛を極め、そのため少年漫画雑誌においてスポ根ものを描かない手塚治虫の人気が低迷した時期もあった。 スポ根ものは、友情やライバルといった男同士の濃密な関係が根底にあり、そのため主人公を指導したり影響を与えたりするのは父親や監督や師匠という男性であり、女性である母親の出番は少なかった。 漫画の中で主人公と母親との関係は語られることが少なく、日常生活での主人公と母親との描写も少なかった。 梶原一騎原作にも「おかあさん」(作画・はしもと かつみ)という例外はあるが、あくまで例外である。 極端な場合は、連載開始の時点で、すでに母親が亡くなっていたり、両親とも死亡していたりする設定の漫画もあった。 当時の少年漫画全体の雰囲気、出版社や編集部の方針等が背景にあったのかもしれないが、スポ根ものを描かない手塚治虫の漫画も、同じように生活の中の母親の出番は少ない。 「鉄腕アトム」には、ロボットとしてのアトムの母親は出てくるが、トビオの人間の母親は出てこない。 「三つ目がとおる」の母親は、写楽が幼児期に死亡している。 「ふしぎなメルモ」の母親も、冒頭で亡くなっている。 「どろろ」のどろろの母親は、回想シーンが主である。百鬼丸は、母親が登場するが、物語のほとんどの期間、百鬼丸とは一緒に生活していない。 「火の鳥」においても「鳳凰編」(我王)や「異形編」(左近介)で、主人公の人生の方向や考え方を決める端緒は、母親ではなく父親の言動である。 「未来編」に至っては、母親役は遺伝子の組み合わせを決めたコンピューターであり、生身の母親は存在すらしていない。 なお、「リボンの騎士」は、少女漫画なので、ある程度母親の出番はあるが、牢獄の時期を含めても主人公と一緒に生活している日常場面の描写は少ない。 少年漫画は少女漫画に比べ、日常の生活よりもストーリー展開が優先されることが多いため、日常の母親との感情の機微が省かれるようだ。 それどころか「ブラック・ジャック」のように、母親の危機的状況が物語の緊迫感を高める効果になっている場合もある。 そういった傾向の中で、「アポロの歌」の母親は、トラウマの状況説明という要素が多いが、主人公との生活面が比較的多く描写されている方ではないだろうか。 ただ残念ながら、母親は昭吾の逃走中に登場した後は、回想を除くと、以降は出番がない。いわば途中退場である。 物語の終盤、最後の爆発シーンの前に、投降の説得役として警察に呼ばれた犯人の母親という立場で再登場させてもよかったのではないかと思う。 手塚治虫の母親観を研究した訳ではないが、ブッダやベートーベンの伝記漫画、自分自身や家族などのエッセイ的な漫画を除けば、「アポロの歌」と「火の鳥」だけでなくオリジナル作品で、主人公と母親との仲の良い親しい日常の関係を描くことに「照れ」があったのかもしれない。 |
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