【110】「鉄道開通」の驚異は、建設の早さでも海の上を走らせたことでもない。
「日本は凄まじい勢いで近代化へと突き進んだ。」(P291)
従来の教科書で説明されていた明治維新・文明開化のイメージです。
現在では、「近代化」に突き進んだのは幕末からでした。これは幕府だけの話ではありません。薩摩藩や肥前藩などもそうです。
開国後つくられた蕃書調所は、洋書調所、開成所と改称し、それまで医学・軍事に偏っていた「洋学」が政治・経済へと広がりをみせます。
1860年には天然痘の予防接種をおこなう民間の種痘所が幕府の直営となり、医学所と改称されて近代的医学の研究も深まりました。
留学生も多く送られます。
榎本武揚・西周・津田真道らがオランダに、中村正直がイギリスに留学することになりました。
幕府だけではなく長州藩も、井上馨・伊藤博文をイギリスに派遣します。
薩摩藩も五代友厚・寺島宗則・森有礼をイギリスに派遣しました。
アメリカの宣教師で医師のヘボンは、診療所だけでなく英語塾も開き、ローマ字の和英辞典をつくって日本人の教育に大きく貢献しました。
イギリス公使オールコックは、日本の美術工芸品を収集して1862年のロンドン世界産業博覧会に出品しています。
幕府も1867年、パリ万博に葛飾北斎の浮世絵、陶磁器などを出品させ日本の文化の知名度を上げることに成功しています。
民間の中に広まり始めた外国の文化・思想・技術は、しだいに人々の「攘夷」の思想への懐疑をもたらし、商人や豪商らは、藩に対して攘夷を改めるように求める者も出てきました。
彼らが経済的にも支援するようになったことが、薩摩や長州の開明化を促進させたのです。
ところで、日本最初の鉄道(いわゆる実験線)も実は幕末です。1865年、日本人に鉄道を紹介するため、トーマス=グラバーが長崎に約600mの区間を走らせました。
「明治五年(一八七二)に日本初の鉄道が『新橋-横浜』間(約二九キロ)で開通した。私はこの事実に驚愕する。鉄道計画が始まったのは明治二年(一八六九)十一月、測量が始まったのは明治三年(一八七〇)三月である(戊辰戦争が終わったのが前年の五月)。そこからわずか二年半で最初の鉄道を開通させたことはまさに驚異である。」(P291)
鉄道は、イギリスの方式によって建設されています。
だいたいどこの植民地でもある一定の区間を計画して認可が出て、測量・着工・操業開始まで3~5年かかっています。
ちなみにアジア最初の鉄道はイギリスによって建設されたインド(ボンベイ-ターナー間の約40㎞)で、1849年に計画されて1853年に操業を開始しています。
日本は1869年に計画し、測量、着工、操業開始まで3年で29㎞です。
「わずか二年半で最初の鉄道を開通させたことはまさに驚異である」と言われていますが、だいたいそんなもんです。(完成の早さだけで言うならば,クリミア戦争の時など新橋-横浜の半分の距離ですが、2ヶ月で完成させています。)
日本はすでに築城(城の土台造り)を経験している労働者が多く(江戸時代、農民は御手伝い普請などに従事していた)、橋をかける工事なども日本の大工が動員されています。
この点は、他のイギリス植民地の労働者よりも習熟していました。
(ただ、多摩川にかける橋梁だけ、イギリス人の指導を必要としました。)
「いや、明治維新から4年しか経ってないのに鉄道をつくったのはすごい!」という意見もあるかもですが、それを言うならば、インドも南アフリカもニュージーランドも実は同じなんです。
まず、「自前」ではありません。資金も技術もイギリスからの提供でした。
建設の設計・指導もイギリス人(エドモンド=モレルら)、車両はすべてイギリス製ですし、運転する機関士もイギリス人、ダイヤ作成など運用もイギリス人(W・F・ページ)、燃料の石炭もイギリスからの輸入で、国産は枕木の材木くらいでした。
日本が明治時代でなくても江戸時代でも室町時代でも、おそらく19世紀のイギリスならば鉄道を敷設できたと思います。
日本の鉄道が「すごい」のは完成した早さでも海の上を走らせたことでもありません。
「経営」なんです。
まず、経営権と引き替えに資本と技術を提供する、という方式(植民地でよくみられた形式)を拒否し、あくまでも政府直営にこだわったこと(大隈重信が頑強に主張したこと)、そしてイギリスがそれに理解をしめしてくれたこと、に、あります。
前にも申しましたように、イギリスを初めとする列強は、世界を自分たちの都合のよいように塗り替えていて、原料供給地は植民地に、購買力がある地域は市場に、というように「役割分担」させていました。
日本は「市場」として理解されていて、「商売相手」として認めてもらえていた、ということなんです。
これはやはり、幕末にロンドン産業博覧会やパリ万博にさまざまな日本の文物が紹介され、文化の高さだけでなく、職人的技術の高さがイギリスの産業資本家たちの間に知られるようになっていたことも理由の一つです。
インドの鉄道は、経営権はイギリスが掌握し、原材料の輸送、現地の労働力活用・動員、用地接収など「支配」に利用されたのですが、日本は経済援助の見返りとして得られる「商売上の利益」を生むもの、とイギリスは考えたのです。
実際、日本の鉄道の利用客は、運賃が高額(15㎏の米40銭の時代に38銭から1円13銭ほどの運賃)であったのに1日4300人以上の利用があり、旅客収入が42万円で、貨物の2万円を大きく上回り、経費23万円を差し引いても、なんと21万円の利益をあげていました。これ、十分、先進国並の鉄道経営です。
「鉄道は儲かる」と政府は理解できました。
西郷隆盛や大久保利通など、旧薩摩藩は反対の姿勢を示していたのですが、大久保利通はさすが慧眼、試運転に一回乗って「始て蒸汽車に乗候処、実に百聞一見にしかず。この便を起さずんば、必ず国を起すこと能はざるべし」と日記(1871年9月21日)
に記し、推進派に転じました。
鉄道が「植民地支配の象徴」となった国と、鉄道が「近代化の象徴」となった国の違いはここにあったのです。