【108】岩倉使節団はもともと条約改正交渉が目的ではなかった。
「まずアメリカに渡った一行はアメリカ政府の政治家や役人たちに歓待され、『これほどの歓待ぶりなら、条約の改正など快く受け入れてくれるだろう』と期待を抱いた。しかしいざ交渉に入ると、まったく相手にされず、彼らは大きなショックを受ける。明治の重鎮たちは、国際社会も『外交』も知らず、国際条約というものを甘く考えていたのだ。」(P288)
と説明されていますが、ドラマや小説でもよく誤解されて説明される部分です。
そもそも岩倉具視使団は、条約改正交渉するつもり無く出発しています。
安政の諸条約は、明治五年五月二十六日(1872年7月1日)が協議改定期限でした。
しかし、国際法に基づく国内法が整備されていない現状での条約改正交渉は、「不平等の改正」ではなく「不平等の強化」につながる可能性がありました。
実は、この段階での「不平等条約」は、安政の諸条約締結時、さらに改税約書締結時よりもさらに不平等な条約になっていたのです。
これこそ学校が教えない日本史。
「幕府が結んだ不平等条約」という印象を明治新政府が宣伝したため、誤解されていますが、明治新政府が改正しようとした不平等条約は、明治新政府が結んだ不平等条約なんです。
1869年にはドイツ帝国ができる前のドイツ(北ドイツ連邦)と条約を結んだのですが、なんと沿岸貿易の特権を認めてしまっていました。
さらに同年、オーストリア=ハンガリー帝国と日墺修好通商条約を締結してしまいます。これがなんと、それまで日本が諸国に認めてきた利益や特権に「施行細則」を付加したもので、解釈によってあいまいに運用できた項目が、すべて日本に不利なように規定されてしまいました。治外法権の内容も安政の諸条約よりはるかに日本に不利な内容にさせられてしまい、「片務的最恵国待遇」によって他国にもすべて適用されたのです。
こうして以後の改正目標は「日墺修好通商条約」となりました。
改めて整理しますと、幕府が締結した安政の五ヵ国条約は、治外法権にせよ関税自主権にせよ、それほど不平等なものではありませんでした。当時の水準で言えば、清が諸外国と結ばされた南京条約、天津条約、北京条約に比して不平等ではなく、とくに関税率についてはむしろ国際水準並でした。
ところが長州藩の無謀な下関戦争の「しりぬぐい」をさせられる形で「改税約書」を調印させられ、そこから経済的にもかなり不利な状況に陥ることになります。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12435563481.html
そして新政府が1869年に北ドイツ連邦への特権付与、日墺修好通商条約の締結を行い、「完全な不平等条約」を押しつけられることになったのです。
このように、以後の新政府の条約改正交渉の「標準条約」は安政の諸条約ではなく、「日墺修好通商条約」です。
さて、岩倉使節団は、この「失敗」を繰り返すわけにはいきません。
国際法と国内法の整備が終わるまで、「協議改定期限を延期してもらう交渉」に出かけたのです。
ですから、正確には、岩倉具視使節団の目的は「条約改正交渉の延期」でした。
ところが、アメリカに着いてから、駐米代理公使の森有礼、アメリカの駐日公使デロングが条約改正の本交渉を始めてもよいのでは?と提案し、伊藤博文もこの話にのってしまったんです。
使節団の目的に「条約改正交渉」が付加されたのは、アメリカに渡ってからでした。
明治天皇の委任状が必要であると言われ(国書ではありません。よく国書が無かったから拒否された、と説明する場合もありますが誤りです)、それを留守政府に発行してもらいますが、交渉を始めると内地雑居の商人と輸出関税の撤廃を要求され、他国からはアメリカとの単独交渉を非難されてしまい、結局、改正交渉は以後の訪問国では一切行わないことになりました。
「明治の重鎮たちは、国際社会も『外交』も知らず、国際条約というものを甘く考えていたのだ。」(P288)
と、説明されていますが、これはちょっと辛口にすぎます。
もともと条約改正交渉するつもりはなかったのに、森有礼や伊藤博文の勇み足で失敗しただけです。
「外交」も「国際条約」も十分理解していたがゆえに、使節団と同じ時期に以下の重要な外交問題(条約改正よりもある意味重要)を手際よく解決しています。
これもまた学校が教えない日本史ですが…
まず、江戸と横浜を結ぶ鉄道敷設権がアメリカに認められていたのですが、これを撤廃させることに成功しています。
次に北ドイツ連邦(プロイセン商人ガルトネル)に与えてしまっていた北海道七重村(当時)の300万坪の99年間契約の租借地の回収に成功しています。
さらに、幕末グラバーが利権を得ていた高島炭坑の鉱山権益が、オランダに売却されていたのですが、この回収にも成功しています。
また、横浜における外国軍(英・仏)の駐留も無くすことに成功しました。
鉄道敷設権、租借権、鉱山利権、軍駐留権というのは帝国主義諸国が植民地や支配地域に適用する「四大権益」なのですが、これらを明治初期に退けられたことは、後の日本の近代化、富国強兵、殖産興業にとってたいへん大きな意味を持つことになりました。
明治新政府は「外交も知らず」「国際条約を甘く考えていた」のでもありません。