『日本国紀』読書ノート(103) | こはにわ歴史堂のブログ

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103】薩摩藩は庄内藩に恨みを持っていないし、私闘を演じたのは長州藩である。

 

「次に新政府は、会津藩と庄内藩の討伐のために東北に軍隊を送った。」

「新政府は長州藩と薩摩藩から成り立っていたが、この二藩は会津藩と庄内藩には遺恨を持っていた。」

「長州藩は『蛤御門の変』で会津藩に京都から放逐された恨みがあり、薩摩藩は江戸でテロ活動をした際に庄内藩に藩邸を焼き討ちされた恨みがあり、両藩はこの機に乗じてそれらの仇を討とうと考えたのだ。」(P283)

 

これらの説明にはたいへん誤解と事実に反した部分があります。

 

まず、「新政府は長州藩と薩摩藩から成り立っていたが…」とありますが、実は王政復古の大号令のときに、ようやく長州藩が「朝敵」から解除されたばかりで、意外に思われるかもしれませんが、最初の段階で長州藩から新政府には誰も参加していないのです。

「いや、この説明は長州藩と薩摩藩が中心だったという意味だ」と、解釈したとしてもやはり無理があります。

 

「三職」は、「総裁」・「議定」・「参与」から成り立っていましたが、1868年3月の段階でようやく長州藩も本格的に新政府に参画できるようになりました。

「議定」は、皇族5名、公家12名、大名は、島津茂久・徳川慶勝・浅野長勲・松平慶永・山内豊信・伊達宗城・細川護久・鍋島直正・蜂須賀茂韶・毛利元徳・池田章政。

「参与」は薩摩藩9名、長州藩5名、福井藩5名、尾張藩5名、佐賀藩3名、土佐藩3名、広島藩3名、宇和島藩2名、岡山藩2名、鳥取藩2名、その他8名の諸藩士・国学者から構成されていました。

 

新政府の中で、薩摩・長州が中心的存在となるのは、1871年の「廃藩置県」で公卿・諸侯が一掃されてからの話…

ある意味、「廃藩置県」は公卿・諸侯排除するためのクーデターのようなもので、いわゆる「藩閥政府」の体制はこれ以後のことです。

ここでは「参議」が実質上の新政府の中核となり、1869年から副島種臣、前原一誠、大久保俊充、広沢真臣、1870年から佐々木高行、斎藤利行、木戸孝允、大隈重信らが担うようになります。

 

「新政府は長州藩と薩摩藩から成り立っていたが…」というのは百田氏の「新政府」に対するイメージ、思い込みの説明にすぎません。

 

それから長州藩はともかく、薩摩藩は庄内藩に「恨み」を持っていません。

 

「薩摩藩は江戸でテロ活動をした際に庄内藩に藩邸を焼き討ちされた恨みがあり、両藩はこの機に乗じてそれらの仇を討とうと考えたのだ。」(P283)

 

いったい百田氏は、何をもとにこんな話をされているのでしょう…

 

「庄内藩による薩摩藩邸焼き打ち」というのは、小説や大河ドラマでよく演出されるものですが、これらはウソとは申しませんが誇張やドラマ独特のフィクションなんです。インターネット上の説明でも、これに準拠した説明が見られます。

 

指揮官は庄内藩家老石原倉衛門ですが、「討ち入った」のは庄内藩兵だけではなく、鯖江藩、上山藩、岩槻藩の4藩で、薩摩側からみれば、「幕府軍」というイメージで、個々の藩に対しての「恨み」を思わせる史料もありません。

なにより、庄内藩は鳥羽・伏見の戦いに参加していませんし、1868年1月に新政府が発表した「朝敵名簿」に庄内藩は入っていません。

後に庄内藩が戦うことになるのは、あくまでも奥羽越列藩同盟の一つになってからです。

 

「奥羽越列藩同盟討伐は、一分の正義もないものであった。徹底抗戦を宣言した相手ならともかく、恭順の意を示した相手を討伐する理由はない。敢えていえばまったく日本的でない。これは長州と薩摩による私闘に他ならず、無益な戦いであるばかりか、この後の日本にとってマイナスをもたらす以外の何ものでもない内戦であった。」(P284)

 

賛同できる説明もあるのですが、「長州と薩摩による私闘」というのが不思議な説明です。実は、庄内藩に対して、征討軍の司令官だった西郷隆盛はあくまでも奥羽越列藩同盟の一つの藩としか理解しておらず、戦いの後も、黒田清隆に城受け取りをまかせています。

庄内藩は、すでに戦死している石原倉右衛門を「首謀者」として申告し、黒田清隆もこれをみとめ、西郷隆盛は「もう戦いも終わっているのだから恭順の意を示している相手に過酷な処置をする必要は無い」と、なんと庄内藩のそのまま領地安堵を決定したのです。

ところが、これに異を唱えたのが長州藩でした。

とくに大村益次郎は強硬に庄内藩の処罰を要求し、西郷隆盛も閉口したようです。

その場にいた土佐藩の佐々木高行は、「公明正大西郷、有陰後暗長州人」という感想を残しています。

戊辰戦争中の長州藩の行動は、幕末の尊王攘夷運動のように過激で、これは庄内藩に対してだけではありません。とにかく朝敵の責任者を処罰したがりました。

ですから、「長州と薩摩による私闘」というのは誤解をまねく説明です。

長州藩の苛烈な「私闘」こそ、「日本的」ではなく「この後の日本にとってマイナス」をもたらした、と言うべきで、「薩摩」を共犯扱いするのはどうかと思います。

 

庄内藩では、結局長州の意見に押された新政府の苛烈な処分を受けるのです(後年領地を回復します)が、寛大な処分決定を感謝し、現在でも庄内では西郷を尊敬する雰囲気が残っています。