『日本国紀』読書ノート(101) | こはにわ歴史堂のブログ

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101】旧幕府は、国際的に承認された政府としての地位を失っていない。

 

「薩摩側は慶喜との対決を前に、朝議を開き、『慶喜の武装上洛を止める』という決定を取り付けた。」(P272)

 

と、説明されています。最初は、これは徳川と薩摩の私闘にすぎない、として松平春嶽らが朝廷の中立を示そうとしました。しかし、ここで岩倉具視が「活躍」し、根回しをして、またまた形勢を逆転して、「新政府と旧幕府」の対決という形をつくることに成功しました。(ただ、誤解の無いように申し添えますと、慶喜追討の命令が出る前に、戦いは始まっていました。)

 

「数では圧倒していた旧幕府軍だったが、西洋の最新式武器を装備した新政府軍を前に苦戦を強いられた。」(P273)

 

と、説明されていますが、戦術的には、装備の問題よりも「作戦上」の不備が旧幕府側に目立ちました。(旧幕府軍も近代装備でした。)

まず数が多すぎたにもかかわらず、鳥羽・伏見の狭い地域・街道で作戦を展開してしまったこと、近世封建型の戦い、つまり指揮系統が一つではない戦いをしてしまったこと、が大きな敗因です。

「装備の近代化」よりも、新政府軍のほうは、「戦闘の近代化」ができていました。

 

さて、「錦の御旗」です。

 

「朝敵を討つ時の旗印である『錦の御旗』(錦旗)を掲げると、多くの藩が『朝敵』となることを恐れ、次々に新政府軍に加わった。」(P273)

 

とありますが、これは前線にいた田中光顕の証言によるものでしょう。

実は「錦の御旗」はこの戦いを前に、岩倉具視と薩摩藩が「発注して」製造したもの(長州は錦をもらって長州で製作)で、岩倉具視(の側近の国学者玉松操)がデザインしたものと言われています。

「伝説」の「錦の御旗」を再現したもので、朝廷が宮中の奥深くに秘していたものではありません。

そもそも、「錦の御旗」は、天皇が、戦いを命じた者に「作らせた」ものでした。

では見たこともない(存在しない)「錦の御旗」になぜ諸藩は恐れをなしたのでしょうか。

「朝廷の敵」になることが、「もっとも避けなくてはないこと」という「恐れ」など徳川二百六十年の中で、忘れ去られていました。

ところが皮肉なもので、幕府が、長州藩を「朝敵」に指定し、その「不利益」がどれほど大きいかを幕府自身が示してしまったんです。

旧幕府軍の武士たちが「慄いた」のは、ごく最近、「朝敵」という概念に実体ができたばかりだったからでした。

 

「…旧幕府軍は…大坂を放棄して江戸や自国へと帰還し、戦いは新政府軍の圧勝という形で終わった。これを見て、欧米列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された日本政府としての地位を失った。」(P273)

 

と、説明されていますが…

実はインターネット上の説明(Wikipedia)にも同じような説明が見られます。

 

「列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失った。」

 

これ、誤りなんです。どうしてこんな説明をされてしまったのでしょうか。

 

まず、「王政復古の大号令」が186712月9日に出されたのですが、欧米列強は、明治新政府を新政府として承認していません。条約の開港も、改税約書の調印も、すべて幕府がやってきたことです。

同年1216日、慶喜は、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの6か国の公使を大坂城に呼び寄せ、「今後に起こるであろう展開」に対して「内政不干渉」を約束させ、それどころか幕府に外交権があることを6か国に承認させました。

鳥羽・伏見の戦い後に、列強が局外中立を宣言したのは、内政干渉しないと幕府と約束している、だから新政府を相手にしない、という宣言です。

旧幕府が日本政府としての地位を失った、という意味ではありません。

鳥羽・伏見の戦いに新政府が勝ったとしても、我々は新政府をまだ日本政府として承認しない、中立だ、という宣言です。

 

これは江戸城の無血開城の前でも変わりません。

こういう記録が残っています。

 

長州藩士の木梨精一郎が、西郷隆盛の命令を受けてイギリス公使のパークスのところに行きました。要件は、江戸城攻撃についてでした。

新政府軍の兵士が負傷した場合、その兵士の手当・治療を横浜にあるイギリスの病院で治療させてほしい、と申し出ました。

パークスは、あっさりと「拒否」します。精一郎の記録では、

 

「今日の政権は徳川にあり。王政維新になったといえどもいまだ外国公使への通報もなし。われわれはどこまでも前条約を以て徳川政府を政府とみなすものなり。」

 

と、パークスに言われた、というのです。

あわせて、「横浜にいる軍も艦上に引き揚げさせるつもりはない。自国民の安全がおびやかされないように治安を維持する。」とも説明しています。

(また、アーネスト・サトウの当時の日記などでも、戊辰戦争中の列強の「中立」と幕府をまだ条約上・外交上の政府と認識していることが読み取れます。)

どうやらこれを西郷は、「江戸を攻撃することは、イギリスは許さない」と解釈したのかもしれません。(新政府の最初の外交案件といわれた1868年2月に起こった神戸事件後でも、実際はこうでした。)

 

ですから、鳥羽・伏見の戦い後、「列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失った。」という説明は誤りです。