【100】西郷隆盛は「短刀一つあれば済む」とは言ったのか?
岩倉具視について、ちょっとこの機会にお話ししておきたいと思います。
1860年代の岩倉具視の「居場所」をついつい誤解してしまうので。
彼は1862年から蟄居させられていて、王政復古の大号令後、宮中にようやく参内が許されました。正確には、67年の王政復古の大号令後からが、彼の「維新の功績」の始まりです。それ以前の「暗躍」は、明治新政府成立後の、維新の功労者特有の、「盛られた話」も含まれている、と割り引いたほうがよいところもあります。
岩倉具視は、もともと公武合体派でした。しかし、宮廷で尊王攘夷派が台頭し、「幕府にこびへつらう奸臣」として、1862年8月20日に、辞官させられ、出家もしています。岩倉の処分は苛烈で、尊王攘夷派は岩倉への「天誅」を公言して憚らず、洛中に住むことすら禁止され、事実上の「追放」となり、洛北の岩倉村に蟄居します。
ここから五年間、ずっとこの地に住んでいました。
いろんな「文書」を書いたり、薩摩藩にそれを送ったりするようになったのが1865年から。よって62年~64年までの朝廷の活動には関与していません(というかできません)。
じゃあ65年から「関与」できていたのか、というと、現実、宮中には参内できずに洛北の岩倉村にいたのですから、関与できたことには限りがあります。
「薩摩藩の大久保利通は、公家の岩倉具視と組んで、天皇に『討幕の密勅』を出させることに成功した。」(P267)
と説明されていますが、なんでもかんでも岩倉具視の「暗躍」ではありません。
中山忠能・正親町三条実愛・中御門常之と組んで、大久保利通が「密勅」を出させることに成功したんです。
もちろん、密勅は岩倉の側近で国学者の玉松操が起草していると言われ、「岩倉具視の骨折りがあった」と正親町三条実愛が明治時代に回想していますが、これは密勅の作成のことであって宮廷工作は蟄居中の岩倉には当然できません。
「そうなっては面白くないと考えた岩倉具視を代表とする討幕派の公家や薩摩藩は…」「慶喜派の公家を締め出し…『王政復古の大号令』を発した。」(P270)
と、ありますが、岩倉具視は、慶喜派の公家が締め出された後、ようやく宮中に参内しています。五年ぶりの宮中回帰です。岩倉具視が宮中にいて指示していたわけではありません。
ところで、
「同じ日(1867年12月9日の王政復古の大号令が出された日)、新たに設置された三職(有栖川宮熾仁親王、中山忠能、岩倉具視、大久保利通、松平慶永、山内豊信、後藤象二郎、徳川慶勝)の間で小御所会議が開かれた。」(P270)
と説明されていますが、小御所会議での三職は「有栖川宮熾仁親王、中山忠能、岩倉具視、大久保利通、松平慶永、山内豊信、後藤象二郎、徳川慶勝」の8名だけではありません。
この時、小御所会議に参加した三職は、総裁は1名で有栖川宮熾仁ですが、議定だけでも10人参加しています。参与は16(あるいは15)名です。
「山内豊信(前土佐藩主)・松平慶永(前越前藩主)・徳川慶勝(前尾張藩主)は慶喜の『辞官・納地』に断固反対していたが、それを知った討幕派の西郷隆盛(薩摩藩士で当日は御所の警備をしていた)が三人の暗殺を示唆したところから、会議の空気が変わったという。西郷は『短刀一つあれば済む』と言ったといわれる。山内豊信らは暗殺を恐れたのか、自説を引っ込めた。」(P270)
まず、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なのですが…
徳川慶勝は「前尾張藩主」ではなく「元尾張藩主」です。14代が慶勝で、安政の大獄で弟の茂徳に藩主の座を譲ります。1863年に茂徳が隠居し、実子の義宜が16代藩主になりました。
実は、小御所会議では、「藩士でありながら特に参加をゆるされた者」として薩摩藩から西郷隆盛、大久保利通、岩下方平の3人が参加していて末席に座っています。西郷が警備担当でその場にいなかった、ということはありません。
ですから、「短刀一つあれば済む」云々の話は俗説で、小説や大河ドラマでの演出でよくみられるものです。
『丁卯日記』『大久保利通日記』『嵯峨実愛手記』『徳川慶喜公伝』『明治天皇紀』などには一切記述がありませんし、それを臭わすような記載もありません。
(出所は1937年に記された『浅野長勲自叙伝』の中のエピソードです。『岩倉公実記』を読むと、休憩中に岩倉具視と岩下方平がずいぶん根回ししていたことがわかります。この「根回し」で武力を薩摩藩が使用する、ということをほのめかしたようです。短刀一つどころか藩兵一軍、だったようです。)
岩倉具視の「活躍」はまさにこの時から。
蟄居中の「暗躍」は少々割り引いて考えたほうがよいようです。