『日本国紀』読書ノート(99) | こはにわ歴史堂のブログ

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99】「大政奉還」は14日だが諸藩が知ったのは13日。

 

「薩摩藩の大久保利通は、公家の岩倉具視と組んで、天皇に『討幕の密勅』を出させることに成功した。…薩摩藩に出されたのが慶応三年(一八六七)十月十三日(新暦十一月八日、長州藩に出されたのが十月十四日(十一月九日))である。」(P267)

「ところが薩長にとって思いがけないことが起こる。慶応三年(一八六七)十月十四日(新暦年十一月九日)に、徳川慶喜が大政奉還をすると上表(天皇に対して書を奉ること)したのだ。つまりこの日を以て、二百六十五年続いた江戸幕府の統治が突然終わりを告げた。」(P267)

「ところで、偽勅旨が出た翌日に慶喜が大政奉還を言い出したというのはあまりにタイミングが良すぎる。私の想像だが、朝廷か薩長に徳川の内通者がいたものと思われる。」(P267P268)

 

まず、江戸幕府の統治は突然終わりませんでした。

 

これ、よく間違うんです。

大政奉還を申し出ても慶喜は征夷大将軍をやめていませんし幕府も無くなっていません。引き続き政治をおこなっています。なにより24日には天皇が改めて各藩への軍事指揮権を持つ将軍および幕府を勅許しているんです。

だからこそ、薩長は王政復古の大号令というクーデターを実施しなくてはならなかったんじゃないですか。大政奉還で幕府が滅びて徳川の政治が終わっていたなら王政復古の大号令は不要です。

なんのことはない、慶喜が大政奉還したら、すぐにまた大政委任されたわけで、実際、諸外国に対しても江戸の開市、新潟開港の延期通知を幕府として実行していますし、ロシアとの改税約書調印も幕府がおこなっています。

 

それから、「討幕の密勅」が出された(13)翌日14日に、大政奉還を言い出したというのはあまりにタイミングがよすぎる、とおっしゃっていますが、誤っています。

 

慶喜が大政奉還を言い出したのは13日です。

まさか、百田氏は、教科書によく出ている絵(二条城に大名が集まっている絵)が「大政奉還」で、1014日の様子だと思っているのではないとは思うのですが…

「あの絵」は大政奉還の絵ではなく、大政奉還をするので諸藩の意見を聞きたい、と、申し渡している絵なんです(しかも実際は慶喜ではなく老中が文書を回覧しています)

 

あれが実は1013日。つまり「討幕の密勅」と同じ日…

その翌日に「大政奉還」しているのです。

 

朝廷か薩長に幕府の内通者がいたかも知れませんが、この段階では何の役目も果たしていません。なぜなら13日の段階で大政奉還するよ、ということは40の諸藩に知れ渡っていますし、それどころか薩摩藩も土佐藩も、その場にいました。

薩摩藩の代表は小松清廉(帯刀)

文書回覧後、慶喜に面会してすぐに大政奉還するべきです、と訴えています。

タイミングが良すぎると考えた百田氏の想像は、残念ながら、このことを知らないことからくる勘違いにすぎません。