【98】「四侯会議」を誤解している。
「長州征伐の最中に急死した将軍の家茂には子供がなかったため、将軍後見職の一橋慶喜が将軍に推された。」(P265)
と、ありますが、誤りです。
まず、後継は実は田安家の亀之助が指名遺言されていました。単純に子供がなかったから慶喜が将軍に推されたのではありません。大奥などの勢力は慶喜就任に反対し、なにより水戸藩(慶喜の実家といってもよい)からも慶喜就任の反対の声が出ていました。
これが慶喜将軍就任を固辞した背景でもあります。
それから前にも説明しましたが、「将軍後見職の一橋慶喜が将軍に推された」というのは誤りです。
1862年の文久の改革で将軍後見職となりましたが、1864年に禁裏御守衛総督に任じられてから将軍後見職を辞任しています。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12437223019.html
「長州征伐で敗れた後、多くの藩が離反していく中…」(P265)
と、ありますが、これも誤っています。
まず、第2次長州征討を停戦したのは孝明天皇でした。「停戦」の和議が結ばれたものの、長州藩は「朝敵」のままです。
後年、明治新政府が、「この第2次長州征討の失敗で、多くの藩が幕府から離れた」と説明するようになったために流布された考え方で、実際は長州藩と薩摩藩に幕府が干渉できなくなったということ、幕府の軍事力が前近代的な状況にあることが露呈したこと、この征討で明らかになったことでした。
朝廷における幕府の影響力はまだ強く、薩摩藩と岩倉具視(洛北の岩倉村に蟄居謹慎中)は、これをきっかけに朝廷内での反幕府派公家を復権しようと画策し、さらに朝廷の主導力を示そうと、24の諸侯に参内を呼び掛けたにもかかわらず集まったのは藩主代理を含めても9名だけで、むしろ幕府の力を実感することになってしまいました。
それどころか慶喜が公卿の会議に参列するようになり、親長州・薩摩の公家のほうが処罰されたのです。
1866年の「薩長同盟」の目的の一つであった「長州藩の朝敵指定を解除する」というのはとても実現できるような状況ではなくなりました。
長州征討には負けましたが朝廷内の主導権争いは慶喜が勝ちました。
「…(慶喜が)二十九歳で徳川十五代将軍となった。その二十日後、攘夷論者ではあったが公武合体派で親幕府でもあった孝明天皇が三十五歳の若さで急死する。これにより幕府は大きな後ろ盾を失い、朝廷では倒幕派が台頭していく。」(P265~P266)
「孝明天皇の死」で、幕府の後ろ盾が無くなった、というも現在では断言的に説明しません。「四侯会議」が開催されたのも明治天皇の時ですし、この会議では慶喜が主導権を握りました。さて、その「四侯会議」ですが…
「翌年五月、京都において、『四侯会議』が開かれた。これは将軍の徳川慶喜と島津久光(前薩摩藩主)・山内豊信(容堂・前戸津藩主)・松平慶永(前越前藩主)・伊達宗城(前宇和島藩主)の四つの雄藩の指導者による国政会議である。しかし会議が始まると同時に、慶喜と久光が長州の処分について真っ向から対立し、会議そのものが成り立たなくなった。これ以降、薩摩は武力による倒幕に舵を切ったといわれる。」(P266)
「四侯会議」を誤って理解されている、というか、小説や大河ドラマの演出に惑わされていると思います。
まず、明確な誤りが一つあり、島津久光は、藩主になったことはありません。前藩主斉彬の弟で現藩主の父。ですから「前薩摩藩主」ではなく「現薩摩藩主の父」です。
それから「四侯会議」は徳川慶喜と摂政二条斉敬の諮問会議で、「2+4」で構成されているので、メンバーが一人抜けています。
さて、この会議は全部で8回開催されています。
「会議が始まると同時に」徳川慶喜と島津久光が対立した、と説明されていますが、ありえません。
第1回会議の5月4日の会議には慶喜は出席しておらず、島津・松平・伊達・山内の4人だけだからです。
第2回は5月6日で、二条斉敬の邸宅で行われました。やはり慶喜はいません。
今回は摂政二条斉敬との面談。今回「会議が始まると同時に」ケンカとなったのは摂政二条斉敬と島津久光です。
朝廷の人事で、薩摩派の公家の復活を要求するのですが二条が反対し、激論となりました。
第3回は5月10日。やはり二条邸でおこなわれましたが容堂が欠席しました。
そして第4回は5月13日、土佐藩邸で開催され、次回は慶喜をまじえて二条城で開きましょう、と決まりました。
第5回が5月14日。小説や大河ドラマ、そして百田氏がイメージされている慶喜と久光の「対立」の会議はおそらくこの日の会議だと思われます。
この日は、慶喜が四侯を引見する形で会議が進められました。
いまだ朝敵のままである長州藩を許すか許さないか、兵庫開港の問題、どちらを優先するか、が議論となります。
久光は長州問題を、慶喜は兵庫開港問題を、それぞれ優先課題として主張します。
結局、折り合いがつかず懸案事項となって持ち越されますが、この時、「記念撮影」がおこなわれているんですよ。実際は、わりと穏やかな会議だったかもしれません。
第6回は土佐藩邸で開催され、第7回が二条邸で開催されています。
第8回は、5月21日。二条城で開催されました。兵庫開港の期限が迫っていたこともあり、慶喜は天皇の勅許を得ることに全力をつくしました。そして慶喜がこの会議で長州藩の朝敵解除も天皇に進言することを求めたのです。
こうして慶喜主導で、すべてが決まり、薩摩藩は主導権を失ったために「武力による討伐に舵を切った」のです。
さて、以下は蛇足ですが…
「…孝明天皇の死は討幕派勢力による暗殺ではないかという説も根強い。」(P266)
と説明されていますが、孝明天皇暗殺説が否定されて久しいことをご存知なかったようです。
もともと天皇など、やんごとなきお方の病状や死の原因は、「あいまい」にされるもので、「表向き」の発表が通常です。しかし、これが、政治などが混迷している時期や権力争いの時期に重なると、ついつい「陰謀説」の温床になりやすい…
明治天皇の母で孝明天皇の典侍慶子へ容態を詳しく記した手紙がみつかり、暗殺説は終息しています(というかもともと「説」でもなかったのですが)。
幕府にとってタイミングが悪い、と、よく言われますが、長州系や薩摩系の主な公家がいない段階で天皇が崩御して幼帝が立つと、摂関など主要公家のほとんどが幕府派でしたから、ますます朝廷における幕府方の主導権が強まります(事実、四侯会議など慶喜が主導できました)。
つまり、倒幕派のほうが、タイミングが悪かった、とも言えます。
足利義満、島津斉彬、孝明天皇…
「暗殺説が根強い」と百田氏はよくコメントされていますが、いずれも「説」でも「陰謀」でもなく、戦前くらいから続く「噂話」にすぎません。