【97】イギリスとフランスは幕末、共同歩調をとっていて対立はしていない。
これ、「幕末誤解」の一つなんですが…
イギリスとフランスが、日本を植民地化しようとしていた。
イギリスとフランスが、どちらが日本を支配するかで争っていた。
イギリスは薩長を支援して、フランスは幕府を支援して、それぞれ対立していた。
え? そうじゃないの? 教科書にも書いているよ!
て、言う人は、よ~く教科書を読んでみてください。そんな話は出てこないんです。
「この頃からイギリス公使パークスは、幕府の無力を見抜き、天皇を中心とする雄藩連合政権の実現に期待するようになった。薩摩藩は、薩英戦争の経験からかえってイギリスに接近する開明政策に転じ、西郷隆盛・大久保利通ら下級武士の革新派が藩政を掌握した。一方、フランス公使ロッシュは、あくまでも幕府支持の立場をとり、財政的・軍事的支援を続けた。」(『詳説日本史B』・山川出版P256~P257)
いやいや、フランスは幕府支援、イギリスは薩長支援、みたいな感じで書いているやんっ
と、ツッコミ入れられそうですが…
「この頃から」、が実はポイントなんです。1866年以降、つまり最後の約1年間の話…
まず、イギリスもフランスも、日本を植民地化することはまったく考えていませんでした。これはイギリスやフランス側に残されている史料(議会・政府の資料)から明かなことです。
日本側が勝手にそう思い込んでいただけでした。
イギリスは、「相手をみて」外交政策を展開しています。
産業革命を成功して、「世界の工場」となっていたイギリスは、世界を原料供給地と市場に世界を色分けしています。
日本は、鎖国によって国内産業が発達し、また購買力の高い住民、消費生活を謳歌する文化を持っている国でした。当然、列強の色分けは「市場」でした。
ですから、「不平等条約」を結び、さらなる有利な条件として「改税約書」に調印させたのです。
イギリスとフランスは、「どちらが日本での主導権を狙うかで争っていた」というのも、実は錯覚です。
イギリス本国は、1850年代~1860年代にかけて、明確に「内政不干渉」の原則を日本に適用していました。
1863年、下関で長州藩が砲撃事件を起こしたときも、「日本との全面戦争」が起こることを極力回避しようとしています。翌年の下関戦争に関しても、実はイギリスは公使オールコックに中止命令を出していました。その命令が届く前に戦争が始まり、オールコックはその責任をとる形で、パークスと公使の交代を命じられています。
イギリスとフランスの1950・60年代は、世界史では「共同歩調の時代」なんです。
1853年のクリミア戦争で、イギリス・フランスは、オスマン帝国をめぐるロシアの南下政策に対抗していて、いわば同盟国。
むしろ当時、ロシアがイギリス・フランスの敵対国で、ロシアの使節プゥチャーチンは、日本でロシア艦船が英仏に捕縛されたり争ったりすることを恐れていました。
下関戦争の「四ヵ国」、関税率改定要求での「四ヵ国」に、ロシアが入っていない所以です。
世界史の知識があれば、この幕末のイギリス・フランスの行動は、なんの不思議もなく説明がつきます。
フランス公使ロッシュの前任者はベルクールで、彼は日仏修好通商条約(1858年)調印以来、総領事などを歴任しています。61年から公使に昇格し、以来、イギリスの公使オールコックは常に共同歩調をとってきてました。
ヒュースケン殺害事件でも、イギリスとともに抗議行動をしていますし、薩英戦争の時の鹿児島攻撃もベルクールは支持しています。
イギリス人を殺傷した生麦事件の賠償交渉は、実はフランス海軍の軍艦セミラレス内でおこなわれていて、イギリス公使代理ニール・イギリス海軍提督キューパーの他、フランス公使ベルクール、フランス海軍提督ジョレスも同席しています。
日本史の教科書で、イギリスが、フランスが、と記されていても、ほとんどが単独ではなく、「英・仏」はもちろん「米・蘭」が加わった共同歩調が原則でした。
この時期、フランスもイギリスと同様、本国政府は、中国やヨーロッパでの紛争・外交(アロー戦争後の処理・イタリア統一の動き)から、極東アジアでの国際紛争をのぞんでおらず、本国政府はベルクールの日本での活動を抑制しようとしていました。そして、それが原因の一つとなって、ロッシュと交代になります。
つまり、イギリスもフランスも「共同歩調」・「内政不干渉」が本国政府の外交基調で、その方針を徹底するためにイギリスはパークス、フランスはロッシュを公使に派遣したのです。
「弱体化する幕府に援助を申し出てきたのはフランスだった。その理由は、イギリスが反幕府路線をとる薩摩藩や長州藩と接近したことによる。」(P264)
というのは、百田氏の想像でしかありません。
そもそも、援助を願い出たのはフランスではなく幕府のほうでした。
1864年12月8日、幕府はロッシュに製鉄所と造船所の建設協力を願い出ています。
翌年には横須賀造船所が着工されました。また、1865年には横浜仏語伝習所も設立しています。
ロッシュの幕府への接近は、知日家の通訳カションとその弟子で幕府側の役人塩田三郎の影響があったと思います。(カションは琉球や蝦夷地でのキリスト教布教の経験があり、箱館奉行とも良好な関係を築いていました。)
日仏修好通商条約の日本側の全権大使であった外国奉行水野忠徳とも面識を持ち、水野も日本語が流暢なカションに驚いています。
幕府側にけっこうコネを持っていたんですよね。
そのカションが帰国してしまった後は、フランス語の通訳が塩田三郎しかいなくなってしまい、どうしても幕府側とのつながりが深くなってしまいました。
「両国は『日本を開国させるという目的』では共通していたが、植民地獲得競争では常に対立していた。そのため日本での利権をめぐって水面下で争っていたのだ。」(P264)
という説明も、イギリス・フランスに対する百田氏の誤ったイメージでの説明にすぎません。
1858年の開国後、1864年の下関戦争を経て、改税約書調印、1866年まで、イギリス・フランスは共同歩調をとり、両国とも現地公使には不干渉・戦争回避を要求しつづけ、それにふみこむような態度を公使がとった場合は、オールコックもベルクールも交代させているのです。
「植民地獲得競争では常に対立していた」というのは、18世紀から19世紀初めのナポレオン戦争期、19世紀後半の帝国主義時代の話で、1850~1860年代はこれに該当しない時代です。
この時期、イギリスとフランスは「日本での利権をめぐって水面下で争っていた」という事実はありません。
さて、改めて、教科書の説明を見てください。
「この頃からイギリス公使パークスは、幕府の無力を見抜き、天皇を中心とする雄藩連合政権の実現に期待するようになった。薩摩藩は、薩英戦争の経験からかえってイギリスに接近する開明政策に転じ、西郷隆盛・大久保利通ら下級武士の革新派が藩政を掌握した。一方、フランス公使ロッシュは、あくまでも幕府支持の立場をとり、財政的・軍事的支援を続けた。」
パークスの説明では、「~期待するようになった」という表現、ロッシュの説明では、「あくまでも…」という表現が使われていますよね?
そうなんです。イギリスは、不干渉・局外中立を保ち、パークスは「期待していた」ことは当時の史料からわかりますが、具体的な肩入れはしていません。「期待していた」だけ。
「あくまでも」という表現は、実は1850年代以来のイギリス・フランス・オランダ・アメリカの姿勢、つまり「政府はあくまで幕府」、「外交交渉の対象はあくまでも幕府」という「従来の姿勢」を崩していない、という意味なんです。
いや、フランスは1866年に600万ドルの対日借款、さらに1867年に軍事顧問団も幕府につけているぞ、と指摘される方もおられると思います。
そうなんです。これは実は、ベルクールと同じく、ロッシュ個人のフランス政府の意向に反した「肩入れ」だったんです。よって、フランス本国政府は、600万ドルの借款を停止し、ロッシュを解任しているんですよ。
ただ、その解任の命令が届いたときには、鳥羽・伏見の戦いがすでに始まっていたときでした。
教科書の「意味ありげな」表現の理由には、それなりに意味があることなんです。