明治維新を生んだもの… 徳川慶喜の逃亡(後編) | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。


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西郷隆盛を実質的な司令官とする官軍が江戸にせまってくることになります。
武力で「前時代」を一掃して、はじめて新しい国家の建設ができる… 世に言う“革命家”たちは「破壊」無くして「創造」なし、と、考えがちです。

ただ、日本の近代国家をつくった“内乱”戊辰戦争は、世界史的にみると、あんがいとスケールの小さい「戦い」でした。

アメリカを二分した南北戦争… あれ、600万人が死んでいるんですよね… 太平洋戦争、第一次世界大戦で戦死した人たちの合計より、実は多いんです。
19世紀後半の普仏戦争(プロイセン・フランス戦争)でフランスは敗退したのですが、その後、フランスは徹底抗戦派と即時停戦派に分かれて対立し、“パリコミューン事件”という市街戦が起こります。これでも、20万人が死んでいます…

でも… 戊辰戦争では1500人ほどなんですよ… これ、「戦争」と言っていいのか…

戊辰戦争の、「最小犠牲の最大効果」をもたらしたことが、

「江戸城無血開城」

です。

謀(はかりごと)

というのは「陰陽」二つの裏表を使い分けてこそ、成功します。「陰謀」だけでは失敗が多い…

西郷隆盛を動かしたものは、複数あり、けっして勝海舟一人だけの“交渉”だけではない、ということです。
(後世の記録が勝海舟によるものが多いために、ちょっと勝海舟が「盛った」話も多い、ということをある程度ふまえて理解しておいたほうがよいと思います。)

かつて将軍家茂の夫人としてむかえられていた人物は、孝明天皇の妹の和宮。
そして官軍の総大将とでもいうべき人物は、熾仁親王… この人物は、和宮と恋愛関係にあった元許嫁で、公武合体政策によって二人の仲がひきさかれた、といいます。
和宮の“手紙”もまた、西郷隆盛が江戸総攻撃を躊躇する要因になった可能性もあります。

いわゆる“大奥外交”と呼ばれるもので、将軍家定夫人の天璋院(篤姫)は、薩摩出身(島津斉彬の養女)であったことから、薩摩に対して「徳川家への寛大な処置」を嘆願しています。

そして、「幕府の三舟」とよばれる三人が活躍します。
一人は勝海舟、もう一人は高橋泥舟、そして山岡鉄舟です。

徳川慶喜は、とにかく新政府にはさからわないっ と、決めてひたすら恭順の意を示すべく寛永寺に謹慎し、高橋泥舟が護衛していました。

勝海舟は幕府の陸軍総裁として実質的な「交渉」を全権委任されており、まず山岡鉄舟が西郷との交渉に派遣されます。
そして、「停戦」条件を西郷から引き出すことに成功しました。

一 慶喜を備前藩にあずける
一 江戸城を明け渡す
一 軍艦はすべて新政府がすべて接収する
一 武装解除
一 江戸城内の家臣の移動
一 慶喜を補佐した人物で新政府にさからった者を処分する
一 停戦後、官軍にさからう行動をした者たちは官軍が鎮定する

6項目はいわゆる戊辰戦争の戦争犯罪人の処罰、ということになるのでしょうか。3項目も幕府の「軍事力」の中心が海軍にあったことがわかる項目です。

鉄舟は、第1項をのぞいてすべて受諾するということを明言しました。

西郷は「無条件降伏」を繰り返し要求します。
鉄舟は説きました。

「立場を変えて考えられよ。もし、島津公を他藩にあずけよ、と言われれば、貴公はこれを承知するのか!」

西郷は物事の核心を理解することができる人物でした。
幕府側も、強硬派と恭順派の二派に分かれているはず… もし、この第1項を押し通してしまうと、この二派を「再統合」してしまうおそれがある…
西郷は、この第1項だけを「未決事項」としました。

そしてこの間、勝海舟の“作戦”が密かに進行します。

いや、作戦、というより「ハッタリ」です。
謀は陰陽複数によって張り巡らされたものでなければなりません。

新門辰五郎を呼び、「秘事」を打ち明けたといいます。

官軍との講和が敗れた場合、江戸の町人たちを避難させたうえで、官軍を退き込み、江戸の各所に火を放つ、というもの… 火消し、とび職、博徒の元締めたちの家に、江戸の町の実力者、新門辰五郎の案内で、勝海舟自ら嘆願に回る…

ただ、この「事実」はなく、そういう“決意”を勝海舟がおこない、実際に交渉がとん挫したなら、「そうしてやらぁ!」という、江戸っ子的な、けつまくりで西郷との会談にのぞむ、というものだった可能性のほうがはるかに高いですし『勝海舟日記』にもそのような記述がみられます。

しかし、あるいは、この“うわさ”を流布させた、ということを勝海舟はしたかもしれません。
実は、新政府を後援していたイギリスは、新政府成立後の日本との「貿易」振興、利権の拡大を当然企図しており、最大人口都市で世界的マーケットの江戸が戦闘によって損なわれるマイナスを危惧していたといわれています。

幕府は降伏するのか、戦争をするのか、情報を集めなくてはなりませんでした。イギリス公使のパークスは、アーネスト・サトウを江戸に派遣して情勢を探らせているんです。

江戸の町では、勝海舟の「決意」の噂でもちきりでした。

「新門辰五郎が勝安房守さまに呼ばれて、なにやらご相談なされたらしい」

実際、江戸の町の実力者たちには勝海舟は、自分の決意を語っていたかもしれないのです。

「おめぇたちには迷惑かけるかもしれねぇぜ」
「でも、おれっちが話し合いでなんとかしてやる」
「だめだったときは、すまねぇが助けてほしいことがある」

官軍が江戸に攻め込んでくるかもしれないわけですから、町の実力者に事情も説明しておく必要はあります。パニックを避けるためにも、「こういう秘策があるから安心しな」という話の一つもしたかもしれません。

パークスは、驚きました。「これはまずい…」

「守る旧幕府側」も強硬派と恭順派に分かれているのですが、「攻める新政府側」も強硬派と穏健派に分かれていました。
西郷と勝の会談がおこなわれ、江戸の無血開城がきまったものの、当然、強硬派たちは怒ります!
とくに土佐の板垣退助は、軍を八王子まで進めており、「何をここまできてっ あとは攻撃あるのみじゃないか!」と息巻きますが、

「イギリスが怒っている。」

と、西郷が「説得」して鎮静化させたといいます。
西郷は、この「パークスの怒り」をフル活用して強硬派を説得しました。

むろん、幕府側も、強硬派たちが暴発します。いわゆる「彰義隊」。
江戸無血開城後、流血の江戸での最終決戦がおこなわれました。

上野あたりで出た火は、周囲に広がろうとしましたが、ここで新門辰五郎引きる火消したちが活動を開始しました。
新たな旧幕府軍の出現かっ と、官軍に緊張が走り、実際、前線の部隊と火消したちの衝突も起こりましたが

「ばかやろぅめ こちとら火消しだっ てめぇらなんかに興味はねぇぜ!」

その気迫に圧倒された官軍は、道をゆずって、しばし、彼らのあざやかな「活動」を眺めていた部隊もあったといいます。
新門辰五郎も東叡山への類焼を防ごうと、必死で「防火活動」をおこないました。

あんがいと…
勝海舟が火消したちや町の実力者たちに「お願い」していたことはこれだったのかもしれません。

「すまねぇが、戦争になっちまっても、おめぇらの手で江戸を守ってくんねぇか?」

町火消たちが江戸を焦土にする作戦に手を貸すともおもえませんし、勝海舟もそんなことを新門辰五郎に依頼するわけもないと思います。

世界史的にみて、フランスとイギリスが、植民地にしようと企んでいる地域の内紛に干渉して分割してしまう、ということはいくらでもありました。
もし、戊辰戦争が長引けば、インドなどのように、フランスとイギリスの介入を受けて、幕府はフランスの傀儡、薩長土肥はイギリスの傀儡となって、やがて日本は植民地になっていたかもしれません。

また、戊辰戦争が1年という短期間で終わったことも重要です。

1860年末、ヨーロッパではプロイセンが台頭し、ヨーロッパで大きく力を伸ばしつつある時代でした。
アメリカは南北戦争の直後ですし、フランス、イギリスなどはヨーロッパの情勢から目を離せず、日本に対して本腰を入れて干渉する余力を割きにくい状況にありました。

1867年に大政奉還がおこなわれ、68年には新政府の基礎つくり、69年には版籍奉還、70年代にいっきに近代化を進めます。そして71年には廃藩置県…
ヨーロッパでは、1870年に入ってフランスとプロイセンが対立して戦争を始めてしまい、71年にドイツ帝国が成立して、さぁ、本腰入れて日本に干渉しようか、と、思ったら、そのわずかな隙をついて「近代化」して明治新国家が動き始めていました…

うわっ 早っ

明治維新の最大の功労は、徳川慶喜の逃亡にあった、といっても言い過ぎではないような気がしてきました。