江戸時代の読み物などでは、エライさんと庶民の交流、ということを中心に描いたものがけっこうあります。
徳川家光-大久保彦左衛門-一心太助
徳川吉宗-大岡越前-「め組」の辰五郎
でも、これらの話は基本的にフィクションです。
庶民はときに政治家を悪として思い描きがちですが、同時にそれは為政者に対する“期待”の裏返しで、「良き政治家」「庶民の味方」というのを心の中で待望し歓迎しているんですよね。
大衆迎合だ、民衆は飽きっぽい、とかいう政治家もおられますが、民衆の期待を裏切るのはたいていは政治家のほうです。
さてさて、実は幕末、“水戸家ブーム”が起こったことがあるんです。
将軍継嗣問題をきっかけに、井伊直弼と徳川斉昭(徳川御三家の一つ水戸家)が対立し、井伊直弼が大老となって、井伊が推す徳川慶福(後の家茂)が将軍となりました。
しかし、井伊の安政の大獄の弾圧、開国による経済の混乱などから、江戸の庶民は井伊直弼が嫌いで、それと対立して隠居させられた徳川斉昭を持ち上げる、という空気が出るようになります。
『水戸黄門漫遊記』
という舞台のお芝居が流行し、「世直し」していく偉い人、ということがもてはやされるようになりました。
江戸の庶民は、斉昭の息子、一橋家に養子に出ていて次期将軍候補の一橋慶喜(後の15代将軍)のことが嫌いではありませんでした。
新門辰五郎は、火消し「を組」の親分で、浅草寺一帯に“顔”がきく町の実力者。
上野大慈院の別当(長官というかお寺の一番えらい人)覚王院義親は、管轄下にある浅草寺の「掃除方」を彼にまかせます。
え? お掃除当番??
と、思うなかれ。「清掃方」とは、寺の衛生、転じて風紀、その寺に関係する人々の生活なども「取り締まる」という役で、門前などには、多くの店や出店が並ぶのですが、そういうことをすべて取り仕切る、というもの。
江戸の町政は、たいていは町の有力者の自治にまかせていましたから、「民衆」というのは、「お上」が「民衆の中から選んだ代表」を仲介して、やわらか~く、「間接統治」されていました。
江戸の衆たちは、上方に対抗する意識も手伝って、「徳川贔屓」である者も多くいます。そういう“空気”をたっぷりと吸っていたのが、江戸の防火をまかされていた町火消たちで、
「おれたちゃ、お上から見込まれて、江戸の町を守っているんだっ」
という心意気が強い。新門辰五郎はそういう意識がとくに強い人物だったようで、この覚王院義親が、将軍になる前の一橋家の慶喜に、新門辰五郎を紹介したようです。
「未来の将軍さまだ。近づきになっておけ。」と辰五郎に紹介した…
「江戸の町のことならこの者を…」と慶喜に紹介した…
まあ、そういうことはありそうです。
そんな縁で、慶喜は辰五郎と親しくなり、なんとその娘と知り合い、恋に落ちる… というちょっとドラマティックな話もあり(辰五郎の娘が奥女中をつとめていたときに慶喜が見初めたという話もあり)、いっそう「辰五郎と慶喜」のつながりは深くなりました。
この慶喜が大坂城から脱出したものの、『金扇馬標』を忘れてしまった…
おおげさに兵を派遣するわけにもいかず、さりとて「忘れちゃったから返して」と新政府に言えるわけもない…
そこで新門辰五郎が、手下を30人ほど連れて大坂城にリターン!
『金扇馬標』を見事に奪還して、大急ぎで、大坂湾に待っている慶喜のもとへ走る走る!
あ、あれ?? 開陽丸は??
なんと慶喜は、辰五郎の帰りを待たずに出港していたのです…
そんなことでめげる辰五郎ではありません。
「慶喜さまの無事のためなら先に帰られるのは当然だっ」とばかりに、東海道を走って走って江戸までかえりました…
すげぇやつがいるじゃねぇ~か!
おれの“作戦”に必要なのは、こういう漢(おとこ)だっ
と、辰五郎に目をつけたのが、勝海舟でした。
(次回に続く)