明治維新を生んだもの… 徳川慶喜の逃亡(前編) | こはにわ歴史堂のブログ

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徳川慶喜率いる幕府軍は、大坂城に入っていました。
大坂城は、もともとは豊臣秀吉が建てた城ですが、大坂の役の後、再建されました。
江戸時代には大坂城代が座し、西国の要として重要な位置にあったことは、豊臣時代とは変わっていませんでした。

この大坂城に幕府軍が入った、ということは、淀川をのぼり、京都へ軍をのぼらせることが可能になるわけで、新政府に対しては大きな圧力となります。
そして実際、幕府軍は鳥羽・伏見で新政府軍で激闘することになったのですが、新政府軍が「錦の御旗」(天皇が認めたことの証。新政府軍が官軍で、幕府軍が賊軍となったという意味。)を掲げたことで、徳川慶喜は「賊軍」になることをおそれ、撤退を命じることになりました。
「錦の御旗」効果か、諸藩も寝返り始め、橋本と八幡での戦闘で敗れ、じりじりと退きながら枚方を防衛ラインとして踏みとどまっていました。

戦術的には、ここでさらに大坂城から、さらなる兵力を投入(後詰の兵の投入)すれば、十分押し返すことも可能だったかもしれないのですが、徳川慶喜の「撤退命令」が出されました。

ただ、これも、別に悪い作戦でも実はありません。
いっそ大坂城にまで撤退して態勢を立て直し、温存されている日本最大の海軍を大阪湾に展開させる、ということも可能です。
事実、慶喜は全兵に対して「徹底抗戦」を発令したのですが、なんと、その夜…

慶喜は大坂城から“逃亡”

してしまいました…

小説やドラマなどでは、

「うえさま! なぜでございますか! 今ここで戦えば、かならず逆転できまするぞ!」
「むりだっ しょせん新政府軍には勝てぬ!」
「どうしてでございますかっ われらには難攻不落の大坂城、最強の海軍があるではございませぬかっ!」
「何をいう。われらには大久保や西郷のようなものがおらぬわっ」

という場面が演じられるところです。

これが果たしてほんとうだったかどうかはわかりません。

とりのこされた、会津・桑名・大垣などの諸藩兵、新撰組や陸軍伝習隊は呆然としてしまいます。
慶喜は、大阪湾に停泊していた開陽丸に乗り込んで、たった一隻でさっさと江戸城に帰ってしまい、その他の幕府の役人たちも、残された艦艇に乗り込んで引き揚げます。

こんなばかなことがあるか!!

と、怒りがおさまらなかったのが榎本武揚…
というか、彼は「あきれかえって」しまったのかもしれません。大坂城には、武器はもちろん、文化財とでもいえるべきさまざまなものが放置されていただけでなく、20万両近い御用金がそのまま残されていたからです。

榎本武揚は、これらをすべて運びだし、富士丸に乗って大坂から出ます。
(ちなみにこの船には新撰組の近藤勇と土方歳三が乗船していました。)

大阪の人でも、あんがい知らない人が多いのですが、玉造口に「残念さん」と呼ばれたお墓があります。
幕府や諸隊が引き上げた後、新政府軍に大坂城を奪われるのは口惜しい、と、大坂城に残って火を放って切腹した武士たちがいました。
逃亡した多くの幕府・諸藩の兵に比べて、なんと立派な者たちだ、ということで、新政府軍によって彼らは丁重に葬られることになります。
(「城中焼亡埋骨墳」と記されているので、豊臣滅亡の大坂夏の陣のときの墓かな? と誤解している方もおられると思うので、ちょっと書いてみました。)

この徳川慶喜の“逃亡”によって、新政府側に大きく時流が変わることになりました。
様子見をしていた諸藩はもちろん、商人たちも「新政府は買いだっ」となり、新政府は財政援助も得やすくなったといいます。

それだけではありません。徳川慶喜自身が、幕府の中での(というか徳川一族の中の徳川宗家としての)精神的な求心力を落としてしまう、重大な失態をしでかしてしまいました。

『金扇馬標』

を、大坂城に「置き忘れて」きてしまったのです。
これこそ、神君家康公以来受け継がれてきた馬標(大将の位置を本陣に示すもの)なのです。
小牧長久手の戦いでも、関ヶ原の戦いでも使用され、徳川ここにあり、と、諸大名を睥睨してきた「権威の象徴」です。

これはまずい… こんなものが新政府軍の手にわたったら、もはや終わり…

「やろうども! 徳川さまの一大事だっ おめぇたちの命、このおれにくれ!」

と、『金扇馬標』奪回のミッションを引き受けたのが、町火消の親方、

新門の辰五郎

でした。

(次回に続く)