『日本国紀』読書ノート(96) | こはにわ歴史堂のブログ

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96】条約の勅許を得たとき、一橋慶喜は将軍後見職ではない。

 

「いずれにしても、この二つの賠償金によって、幕府の財政はさらに苦しいものとなった。欧米列強はそんな幕府の混乱に乗じ、条約に書かれた兵庫開港の遅れを理由に、慶応二年(一八六六)、幕府に改税約書に調印させる。」(P262)

 

まず、改税約書の経緯については、前にお話しいたしましたので、添付しておきますのでよければお読みください。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12435563481.html

 

さて、ちょっと不思議な説明がみられました。

 

「条約は安政五年(一八五八)に結ばれていたが、朝廷の勅許がなく、幕府はイギリスなどから勅許を求められていた。兵庫は京都に近いということで、朝廷が開港を認めなかったのだ。将軍後見職の一橋慶喜は、『朝廷が勅許を出さなければ、欧米列強が京都に攻めこんでくる。』と半ば脅しのような言辞で、勅許を取った。」(P263)

 

これ、いったい何の話でしょうか…

 

日米修好通商条約では、5つの港が開かれました。

そりゃ貿易をするんですから貿易港は必要です。しかも、やる以上は日本中でやりたい。よってグルっと日本を囲むように、北海道に一つ、日本海側に一つ、九州に一つ、瀬戸内に一つ、太平洋側に一つ…

条約では、「下田・箱()館に加えて、新潟・長崎・兵庫(神戸)・神奈川(横浜)、を開港する」と定められました。

小・中学生くらいだと、ついついこの条約締結と同時にこれらが開港されたと思いがちなんですが、開港時期は後年に設定されていました。

神奈川(開港後半年後に下田は閉鎖)・長崎は1859年。新潟は1860年。兵庫は1863年。

しかし、孝明天皇が、京都に近い兵庫の開港を断固として認めず、幕府は開港・開市の一部延期を求めて使節団を派遣しました(文久遣欧使節団)

イギリスは、これに応えてくれました。

覚書が交わされ、兵庫は1868年1月1日開港と決定されます。

 

ところが1863年に長州藩が無謀な砲撃事件を起こし、さらに翌年、下関戦争となってしまいました。多額の賠償金を支払うことになり、外交的に四ヵ国(米・英・仏・蘭)がいろいろな要求ができる環境ができてしまうのです。

イギリスは、賠償金よりも貿易の拡大のほうが、はるかに利益が大きいとソロバンを弾き、開港の2年前倒しを要求しました。

 

1865年、列強は艦隊を兵庫沖に派遣し、大坂城にいた将軍家茂に圧力をかけます。

これに対応したのが老中阿部正外と松前崇広でした。

列強の強い要求(直接京都に乗り込んで朝廷と交渉するという)に二人は屈して、無勅許で開港を決めようとしました。

これに待ったをかけたのが、京都から急ぎ駆けつけた一橋慶喜です。

 

「無勅許での開港は断じてならん!」

 

将軍家茂の前で、老中たちとの激論になりました。

 

「そんなことになれば、諸外国が京都に直接乗り込みますぞ!」

 

と、「半ば脅しのような言辞」を述べたのは老中たちです。

 

そして、このケンカを沈静したのは、なんと家茂。

老中たちと慶喜の激論に圧倒されて泣き出したそうです。

 

こうして慶喜が、とにかく勅許を得るまでの間、交渉を延期するべきだ、と主張し、若年寄を派遣して諸外国を説得させました。

こうして10日間の猶予を得て、この間、朝廷との交渉を進めることに成功します。

慶喜はこの間、孝明天皇の怒りをしずめるために苦労しています(孝明天皇は二人の老中の切腹まで要求しました)。

結局、将軍家茂の将軍辞職願と江戸への帰還の姿勢に驚いた孝明天皇が、条約の勅許と、以後の幕政への口出しをしないことを約束することになります。

勅許を得たものの、兵庫開港の前倒しだけは、孝明天皇は認めませんでした。

こうして、この見返りとして、改税約書を調印させられることになるのです。

(結局、兵庫開港の前倒しの話は無くなりました。)

 

これらの経緯は、

『幕末の将軍』(久住真也・講談社選書メチエ)

『長州戦争』(野口武彦・中公新書)

に詳しくて、おもしろいです。

また史料としては、

「陸奥国棚倉藩主・華族阿部家資料」(学習院大学史料館収蔵)

『白河市史・近世』(白河市)

などがあります。

 

「将軍後見職の一橋慶喜は、『朝廷が勅許を出さなければ、欧米列強が京都に攻めこんでくる。』と半ば脅しのような言辞で、勅許を取った。」

 

と説明されていますが…

そもそもこの時、一橋慶喜は将軍後見職ではありません。

 

1862年の文久の改革で、一橋慶喜は将軍後見職に任命されましたが、1864年、慶喜は「禁裏守衛総督」に任命され、同時に将軍後見職は廃止されています。

どうやら百田氏は、家茂が死去するまで一橋慶喜が将軍後見職だったと思い込まれていたようで、交渉は老中がおこなっていることをご存知なかったようです。

また、慶喜は「朝廷が勅許を出さなければ、欧米列強が京都に攻めこんでくる。」などという「脅し」を朝廷にかけたことはなく、老中阿部正外の言葉と混同されているのでしょう。慶喜は一貫して「兵庫の無勅許開港は認めない」という姿勢でした。

(ちなみに、慶喜が兵庫開港の勅許をとったのは15代将軍に就任してからの1867年6月で、このときは、孝明天皇はすでに崩御されています。)

 

「このことに薩摩藩は怒り、反幕府の意思を固める。」(P263)

 

という付加説明については意味不明です。

「このこと」とは、「勅許をとった」ことに対してでしょうか、それとも朝廷を「脅し」たことでしょうか。

ちなみに慶喜が兵庫開港の勅許を得たのは1867年6月ですから、薩長同盟もすでに成立していますし、とっくの昔に薩摩藩は反幕府の意思を固めていました。

1865年の条約勅許の話だとしても、第2次長州征討の前年ですから、すでに薩摩藩は密かに長州藩を支持する態度をとっていました。

 

徳川慶喜に対するお話しを以前させていただいたので添付しておきます。よければお読みください。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11833645521.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11834032316.html

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11834862320.html