【95】水野忠徳による「小笠原領有をめぐる外交」を誤解している。
P260で、水野忠徳が取り上げられていてちょっとうれしかったです。
幕府の「良吏」は、もっと多くとりあげられてもよいな、と、個人的には思っています。
水野忠徳は「屏風の忠徳」と呼ばれていました。
屏風の後ろから「ささやいて」上役を支える…
なんだか大臣の答弁の後ろで、メモを渡す官僚みたいな感じで、この点、いつの時代でもよく似ているのかもしれません。
「彼は領土・領海の持つ価値と重要性を十分理解していた。だからこそ島に乗り込み、領有権を確保したのだ。」(P260)
と、説明されていますが、ちょっと「後世の近代的領土観」から彼の行動を説明しすぎだと思います。
まず、水野忠徳は「命じられて」小笠原に行きました。彼の意思で「島に乗り込んだ」わけではありません。
意思がないからやる気がなかったわけではありません。勘定奉行も経験していた水野は、「探検」はすなわち「検地」、つまりは測量ということをよく理解していました。そして小笠原の地図を作成します。
このことは領有を主張していたはずの他国がやっていなかったことで、これが後にたいへん大きな意味を持つことになります。
「…イギリス、ロシア、フランスの間を巧みに渡り歩き、列強同士の居住していた島だったにもかかわらず、その領有権を欧米諸国に認めさせたのは超一流の外交手腕である。この時、したたかな交渉を支えたのが通訳のジョン万次郎だった。」
とありますが、不正確な説明です。
ロシアは1828年にリュトケがセニャービン号で父島に来航しましたが、領有を宣言していませんし、居住もしていません。1853年にはプゥチャーチンが小笠原に立ち寄っていますが、「興味を示した」という感じです。
フランスは遙か前、1817年に、林子平の著した『三国通覧図説』の記載にある「無人(ぶにん)島」の地図をフランス・アカデミーに提出していますが、領土獲得の野心をみせてはいません。
「一八五〇年代には、ペリーが寄港してアメリカ人住民の一人を小笠原の植民地代表に任命している。同じ頃、イギリス、ロシアが諸島の領有権を主張、アメリカもフランスも領有権を主張する。」(P260~P261)
と説明されていますが、ロシアとフランスは関係がありません。明治時代の話と混同されているようです。
当時の小笠原領有の問題の関係国は、イギリスとアメリカでした。イギリス人が南洋諸島の人々を連れて入植し、その後、「入植者」間の争いがあって、アメリカ人がリーダー的な存在になっていました。
ペリーが浦賀に来航する前に実は小笠原に寄っているんですが、ここに石炭供給基地などを設け、「島民」であったアメリカ人のリーダーを植民地代表に任命しました。
さて、この時、イギリスと一悶着がありました。
イギリスが小笠原の領有を主張したのです。ところがペリーは、平然と、「いや、ここは日本の領土だ。」と説明し、なんと林子平の『三国通覧図説』を示して国際法上、イギリスのものでもアメリカのものでもない、と主張してイギリスの領有権を退けたのです(このことは、ペリー自身が『遠征記』に記しています)。
イギリスは、案外あっさりと引き下がりました。
実はアヘン戦争前は、イギリスは小笠原を対中国貿易拠点としようと計画したのですが、アヘン戦争で1842年に勝利してホンコンを手に入れてからは、その戦略的価値を感じなくなっていたんです。
一方、ペリーは、小笠原領有を本国に打診しているのですが、アメリカでは政権交代が起こっていました。
ペリーを派遣し、国書を持たせた共和党のアメリカ大統領フィルモアは、大統領選挙で民主党のブキャナンに敗れたのです。
対外進出に積極的なフィルモアから、内政重視のブキャナンに政権が交代してしまい、この段階ではアメリカも小笠原諸島に興味を無くしていました。
1850年代、小笠原は「外交的空白地帯」となって、どの国も「実効支配」に至らなかったのです。
それが、クローズアップされるのは、通商条約の締結後です。
さて、水野忠徳は、小笠原へ出発する前に、イギリスとアメリカに小笠原を開拓する、という通告をしました。
イギリスの場合…
対応したのは公使オールコックでした。
当時、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬の芋崎を占領する、という事件が発生していました。幕府は小栗忠順を派遣して対応させるとともに、イギリス側も軍艦を派遣して威圧し、ロシアを撤去させる、ということをして協力しました。
これが日本の小笠原への開拓を有利にする結果になったのです。
国際的に当時日本への領土的進出を控えようという空気が列強にありました。極東の対立が国際的対立へ発展することを避けて現状維持をしようという空気があったからです。(当時、ヨーロッパではクリミア戦争が終わり、アメリカでは南北戦争が起こり、中国ではアロー戦争後の進出を列強は模索しているところでした。)
対馬へのロシア進出を牽制しているのに、小笠原諸島にイギリスが進出するのは外交的に矛盾がありました。
ですから、オールコックは、水野に「イギリスは小笠原に領土的野心は無い」と回答したのです。
それからアメリカの場合…
対応したのはハリスでした。
当時、南北戦争中でもあり、本国に報告するから、回答は後日にする、と伝え、小笠原にいる住民の保護を要請しました。
つまり、「うまいタイミング」で小笠原に水野は行くことができたのです。
「イギリス、ロシア、フランスの間を巧みに渡り歩き、列強同士の対立を利用しながら、小笠原諸島の領有権が日本にあることを認めさせたのだ。」
というのは、誇張しすぎで不正確です。とくに「渡り歩いて」いませんし、「対立を利用して」もいませんし、「認めさせて」もいません。投げたボールをイギリスもアメリカもちゃんと返せなかっただけです。
ですから、「したたかな外交を支えたのが通訳のジョン万次郎だった。」と説明されていますが、ジョン万次郎の活躍の場は、列強との外交ではなく、現地での「住民への説明」でした。
アメリカは南北戦争中でしたし、イギリスも領土的野心は無い(つまり住民を保護しない)という状況です。
「幕府が責任を持って居住民を保護する」と、親身に友好的に説明した水野忠徳とジョン万次郎を、代表ナサニエル=セラヴァリーや住民たちがたのもしく思い、信用したのも当然でした。
とくに水野忠徳と同行した小花作助は住民たちと親しく交流し、その後も父島に残り、住民の世話を続けています。
この後、同じような開拓通告(領有通告)を、フランス・ロシア・ドイツなど駐日ヨーロッパ諸国の代表にもしたのですが各国は黙認することになりました(当時、外交で無回答は承認を意味します)。
こうして、列強に軍事力で劣る日本がとった「住民友好外交の手法」は、明治時代に、再びイギリスが小笠原の領有を主張したときにも有効に機能します。
生麦事件でイギリスとの関係が悪化し、幕府も内政問題(安藤信正の失脚や尊王攘夷運動の激化)などから小笠原開拓を中止し、日本人移民も全員引き上げてしまいました。
こうして明治維新をむかえてしまうのですが、島民がアメリカへの帰属を本国に要請し、イギリス公使パークスも、明治政府が小笠原を放置するならイギリス領とする、と通達してきました。
これはまずい、と考えた明治政府は迅速に反応します。
しかし、明治政府がとった方式は、イギリスのような軍艦派遣ではありませんでした。
小笠原「回収」のために派遣されたのは、「明治丸」という高性能灯台巡視船。
これに武器ではなく、ワイン・ウィスキー・ジンという酒類、それに大量の砂糖を積み込み、小笠原に出航させました。
明治丸を迎えたのはナサニエル=セイヴァリーの息子ホレースでした。
そして、明治丸に乗り込み、酒と食料を用意したのが、なんとあの小花作助でした。
彼は明治新政府で工部省の役人となっており、再び小笠原の地を訪れたのです。
ホレースは小花に父の死を伝え、「小笠原の恩人」を歓迎し、日本人との再会を喜びます。
その二日後、イギリスが軍艦で小笠原に乗り込んだのですが、住民の意思は日本への帰属でした。
こうしてイギリスは国際法にのっとり、「住民の意思」に基づく小笠原の日本領有を承認しました。
「奇跡の二日間」と呼ばれている逸話です。
水野忠徳・ジョン万次郎・小花作助が蒔いた平和外交のタネが開花した結果でした。
「彼は領土・領海の持つ価値と重要性を十分に理解していた。だからこそ島に乗り込み、領有権を確保したのだ。」という勇ましい説明は「水野外交」にはふさわしくありません。
小笠原の人々は、領土・領海ばかりに気をとられて軍事力にモノを言わせたイギリスよりも、そこに住む人々のことを親身に考えてくれた日本を選択してくれたのだと思います。