幕末史の中で、勝海舟が果たした役割、というのは、たいへん重要なものです。
教科書レベルでは、勝海舟がとりあげられるのは二つで、一つは
咸臨丸
でのアメリカへの渡航。
そしてもう一つが
江戸城無血開城
です。
ただ…
『勝海舟日記』『氷川清話』
は、ちょっと“割り引いて”読んだほうがよい史料です。
幕末・維新の偉人たちの日記などは、あきらかに後世に読んでもらうことを意識して書いたものや、日記と称して後年に述懐しているものが多く、ちょっと「まゆつば」なものが多いのです。
まず、咸臨丸についての説明ですが、とかく「日本人の手で太平洋を渡った」ということが強調されがちですが、ここはちょっと「三割引き」が必要なところです。
『氷川清話』の中の勝海舟の
「おれが咸臨丸に乗って、外国人の手をまったく借りないでアメリカに行った」
という記述をもとに教科書で説明されていたことがあり、ついつい「勝海舟の指揮で」「日本人だけの手で太平洋横断をやってのけた」と思い込みがちですが、実際は違いました。
咸臨丸には11人のアメリカ人船員が乗っていて、とくにブルック大尉の活躍がなければ嵐の中で咸臨丸は航行不能になっていたんです。
とても日本人だけ、というわけにはいきませんでした。
勝海舟は「艦長」のつもりで乗ったものの、実際は「教授方取扱」という操船アドバイザーみたいな役だったので、終始、ご不満…
海軍奉木村摂津守のとりはからいでなんとか艦長的な扱いとなったものの、不満で文句ばかりで、挙句の果てにはふてくされて船室からほとんど出てこない、という始末…
(このあたりのことから“船酔い”して部屋で寝ていた、という話になったと思われます。)
「アメリカに行った」と豪語し、あたかもアメリカを視察したかのような話になっていますが、実際はサンフランシスコのみ。
ポーハタン号に乗っていた新見正興を正使とする「遣米使節団」の、護衛という名目の船が咸臨丸にすぎず、ワシントンに行ったのはこの遣米使節団でした。(ある意味あたりまえ)
教科書では、ポーハタン号と咸臨丸があたかも同格のように掲載されていて、勝海舟が大きくクローズアップして説明されていますが、ちょっとこの説明は“誇張”だと思います。
むしろ遣米使節の目付であった、小栗忠順のほうを大きく取り上げてほしいところです。
それから、江戸城無血開城ですが、これは勝海舟の活躍と役割は間違いないところで、これは否定できない事実です。
ただ、やはりこれも勝海舟側の記録が中心で、西郷側のほうに詳細な話がない…(西郷は後に西南戦争を起こしてしまうので…)
たとえば、勝海舟と西郷隆盛の会談は二回おこなわれており、しかも、ドラマや小説のように、けっして「二人だけ」の話し合いで決めたわけではありません。
大久保一翁・勝海舟・山岡鉄舟
西郷隆盛・桐野利秋・村田新八
という会談であったと考えられています。
勝海舟の「ロシアがナポレオンにやったように、江戸の町に火をかけてやるつもりだった」云々の話は、後世の勝海舟のホラ話と考えてもよいと思います。
勝海舟が幕末・維新で重要な役割を果たし、彼抜きでは明治維新は実現しなかった、ということは否定しませんが、それにまつわるさまざまな逸話は、「三割引き」にしておいたほうがよいと思います。
そういう虚構がかえって勝海舟のほんとうの業績をゆがめたりかすませたりしてしまう…
勝海舟に限らず、幕末・維新の“偉人”たちの業績は、これからどんどん再評価されていくことでしょう。