『日本国紀』読書ノート(94) | こはにわ歴史堂のブログ

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94】徳川慶喜の行動に一貫性が無い、勇気と決断力に欠ける、とは言えない。

 

P276P278にかけて「徳川慶喜という男」という項があります。

 

ここでも、「事実」よりも「想像」を優先された説明がみられ、いずれも明治維新期につくられた「幕府無能論」の枠組みの一つである「慶喜無能論」の影響を強く受けられていて、1980年代ころのドラマや小説に描かれた「慶喜像」で語られています。

 

「幕末の一連の事件の中での行動を見る限り、保身を第一とし、勇気と決断力に欠けた男に思える。」(P276)

 

あくまでも百田氏の「感想」です。ただ、前にも申しましたように、「否定」する場合は、やはり具体的な例を示された上でそう説明すべきで、

 

どのような時に、どのように「保身を第一」としたか

どのような時に、どのような「勇気と判断力に欠けた」行動をしたか

 

を、説明してほしかったところです。

こう言われてしまうと、ついつい「歴史弁護士」のようにふるまっちゃうのがぼくの悪いクセなのですが…

 

「天下を取り候て後、仕損じ候よりは、天下を取らざる方、大いに勝るかと存じ奉り候。」(『徳川諸家系譜』「水戸様系譜」より、父斉昭への手紙)

 

ありゃ… やっぱり保身の人なのか…

 

松平春嶽はこんな説明をしています。

 

「衆人に勝れたる人才なり。しかれども自ら才能あるを知りて、家定公の嗣とならん事を、ひそかに望めり。」(『逸事史補』)

 

どうなんでしょうか。慶喜さんご本人は、案外と将軍はしたくなかったのかも知れません。

 

「将軍職を固持したのも、火中の栗を拾いたくなかったからだ…」(P276)

 

と説明されていますが、これは実は史料がほとんどなく、固持した理由は現在のところ不明です。よってこのように断定してしまうのは誤解をまねきかねません。

 

「勇気と決断力に欠けた」というのも、1864年7月に起こった禁門の変(蛤御門の変)の戦いぶりをみると、明らかに不当な評価です。

御所守護軍を直接指揮し、長州がたてこもった鷹司邸への攻撃では、自ら白兵戦を

展開しています(その時、狙撃されて負傷しています)。

以後、尊王攘夷派に対する姿勢を改め、桑名藩・会津藩との連携を深めていきます。

これを背景として、「通商条約の勅許」を朝廷に迫りました。

長州藩に代表される安易な「攘夷」は、かえって「国体」を危地に陥れるものである、という、むしろ慶喜の尊王の強い意志を感じるところです(申し出が受け入れられない場合は「切腹」を示唆していました)

慶喜の「一貫性の無さ」を非難するなら、長州藩の「右往左往」ぶり、薩摩藩の「公武合体」から「倒幕」への「変節」も同程度に非難すべきでしょう。

 

慶喜の「敵前逃亡」は、確かによく言われることです。しかし、鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩軍に「錦の御旗」があがった段階で、諸藩の裏切りが続きました。

大坂城に立てこもっていても「次」の展開が見えないばかりか、包囲の危機にさらされます。幕府軍といっても、現状は諸藩の連合軍でしたから、むしろ「勇気と検断力」が必要な行動だったともいえます。

 

「大政奉還をあっさり受け入れたかと思えば、その後、家臣たちに押されて『討薩の表』を出したり…」(P276)

 

と説明されていますが、「大政奉還」は、「大政奉還」だけのプロジェクトではありませんでした。その後に、諸藩の連合をつくり、慶喜はその議長となってその後の政治も主導していく、という意図があっての、言わば「幕府の発展的解消」のはずでした。

それが「慶喜」抜きのクーデターともいえる「王政復古の大号令」によって覆されたのです。

「討薩の表」は漢文ですが、お読みになられたことがあるのでしょうか。

「朝廷の命を受けて上洛し、薩摩藩の非道を糺します。帝をとりまく奸臣どもを引き渡してください。誅戮を加えたいと思います。」というものです。

「大政奉還」と「討薩の表」は何も矛盾したものではありません。

 

「勝の非戦論は日本の将来を見据えたものだが、慶喜の場合は単なる怯懦であろう。」(P276)

 

という説明も、あまりに一方的です。

勝海舟の「評価」は、史実に基づいて、以前とは異なる評価がされるようになっています。

勝海舟についての「評価」は以前にまとめたことがあるので添付しておきます。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11940400921.html

 

さて、不思議なのは徳川慶喜に対する百田氏の評価の低さです。いや、それは百田氏の勝手だ、というのはわかっているのですが、「不思議」というのは次の点です。

 

「しかし忘れてならないのは、小栗を重用し、存分に力をふるわせたのが徳川幕府であったということだ。近代化を成功させた明治政府に対して、『徳川幕府は頑迷固陋の体質を持っていた』と語られることが少ないが、必ずしもそうではない。徳川幕府もまた押し寄せる欧米列強の脅威を前に、懸命に近代化を進めていたのだ。」(P259)

 

と、説明されているところです。

この「小栗を重用し、存分に力をふるわせた」のは徳川慶喜だ、ということです。

百田氏が小栗忠順の「業績」として説明されている、横須賀製鉄所の設立、軍制の改革、「幕藩体制を改めて中央集権体制へ移行」(P259)することなど、一連の「慶応の改革」は、徳川慶喜が進めさせた「改革」なんです。

「小栗を重用し、存分に力をふるわせたのは『徳川慶喜』であった」と説明できる部分なんですよ。なのにどうして慶喜の評価が低いのか… 少し矛盾を感じました。

 

「勝の非戦論は日本の将来を見据えたものだが、慶喜の場合は単なる怯懦であろう。」(P277)

 

という説明がされていますが、 むしろ慶喜の「非戦論」によって、幕府の近代化の成果が温存された、と考えるならば、慶喜の非戦論は「単なる怯懦」とはいえず、むしろ「日本の将来を見据えた」決断であったともいえるはずです。

 

さて、「水戸家」について、も誤解に基づいて説明されています。

 

「水戸家」は御三家でありながら、尊王思想の強い藩であった、とありますが、実は徳川の御三家は、比較的朝廷との関係が良好で、水戸家にかぎらず「尊王」「親朝廷」の傾向がありました(尾張徳川家の徳川宗春のことは以前にお話ししました)

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12432652195.html

 

「また水戸家は幕府にとっても特別な家で、三百諸藩のうち、水戸藩士だけが定府(国許に帰らず、常に江戸屋敷に滞在)を命じられてきた。もしかしたら、幕府は水戸家の謀反を恐れていたのかもしれない。」(P276)

 

というのは完全に誤解です。

江戸定府を命じられていた藩は水戸藩だけではありません。「御三家の中では」と言うべきでした。(江戸定府大名は実はけっこうたくさんあります。)

「謀反を恐れていた」ということに関してはまったくの誤りです。

藩祖の頼房は、1603年に伏見城で生まれ、なんと3歳で大名になっちゃいますが、まだ幼少、家康が駿府からしばらく手放さなかったこともあり、領地はあるけど、就藩しない、という時期が長く続きました。しかも1636年まで、「徳川」姓は与えられていません。

そして2代秀忠は、子の家光に歳が近い頼房を、言わば家光の「ご学友」として近くにおいたことにより、これが慣例となって江戸定府となっただけです。

 

ところで、「水戸学」というのは、尊王思想ではありますが、幕府は天皇から大権を委任されている、という思想で、よって幕府の執政を正当なものとする、という思想なのです。

「徳川本家と朝廷が争うならば、朝廷に味方する」(P277)というのはネット上でよくみられる説明ですが、原文にもとづいた説明ではありません。

 

出典は『昔夢会筆記』だと思うのですが、

 

「…もし一朝事起こりて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。」

 

が原文です。「朝廷に味方する」ではなく「幕府の命に反しても朝廷とは戦わない」という意味だと思います。

 

幕府は朝廷から大権を委任されている、幕府の命に反しても朝廷とは戦わない…

「大政奉還」も「新政府に恭順」も、水戸学の思想及び父斉昭の遺訓に即した行動で、その意味では慶喜の「行動にまるで一貫性がない」(P276)、どころか、むしろ「頑なまでの一貫性」があったと思います。