幕末の歴史をふりかえって思うことは…
走り出してから考える長州藩
走りながら考える薩摩藩
考えてから走る肥前藩
という印象です。
その肥前佐賀藩の中心人物が藩主鍋島直正でした。
授業をしていても、子どもたちにとって、肥前は印象が薄いことがわかります。
明治政府で活躍した人で、肥前出身は誰だろう???
と、なるようです。
よく“佐賀の七賢人”という言い方があるのですが… 一人は鍋島直正。あとの六人は、
島義勇
佐野常民
副島種臣
大木喬任
江藤新平
大隈重信
なのですが…
小学生ならば大隈重信は知っています。中学生になると江藤新平を習い、高校生になると副島種臣が教科書に出てきます。でも、あとはちょっと知らないなぁ~ となる生徒が多いようです。
そもそも副島種臣が肥前出身、ということを知らない高校生もいます。
さて、その「七賢人」の一人、大隈重信は、鍋島直正に対しては“批判的”で、
「かの御仁は、やらねばならぬときに動かず、やらずともよいときに動いた。」
と、後年、述懐しています。
大隈重信の記憶で、「やらねばならぬとき」とはいつだったのでしょうか。
おそらく、薩摩と長州が倒幕の姿勢を鮮明にし、同盟を結んで手を携えて行動を開始したときだったのだと思います。
もし、あのときいっしょに行動していれば、明治新政府の中で、佐賀出身者はもっと重要な地位を得ていて政治に深く参画できた、という思いがあったのでしょう。
大隈重信の記憶で、「やらずともよいとき」とはいつだったのでしょうか。
おそらく、戊辰戦争が始まり、ほぼ態勢が決まってから官軍として参加し、肥前藩が参加しなくても新政府側の勝利が確定しているタイミングで、上野の彰義隊などを撃滅させたことでしょうか…
そんなときに参加するなら、もっと早くに旗幟を鮮明にしておいてよっ!
という思いが大隈重信にはあったのかもしれません。
偉大な大隈公にたてつくつもりはありませんが、この認識は正しくないと思います。
肥前藩は、「薩長土肥」の雄藩の中で、ちょっと(というかかなり)異質な存在でした。
それはまさしく鍋島直正の個性そのもののあらわれだったともいえます。
鍋島直正にしてみれば、薩摩も長州も、
「おまえらそんなんでよう外国と戦うって言うてんなぁ~」
という嘲笑の対象だったのかもしれません。
鍋島直正は、佐賀一国を、完全武装の“独立王国”に鍛え上げた人物なのです。
肥前藩は、長崎を領域内に持ち、隔年でその警固を担ってきた藩です。フェートン号事件も目の当たりにし、長州のような観念論的な“夷狄”ではなく、実体的・現実的な“外国”を認識していました。
すぐれた外国文化・技術に早くから接し、それを積極的に(ごくごく自然に)吸収してきました。
反射炉(製鉄のための炉)の設置
アームストロング砲などの西洋軍事技術の国産化
蒸気機関・蒸気船の完成
教育にも力を入れ、「弘道館」はもちろん、日本で最初の医学校とでもいうべき「医学館」も設立しています。(そのカリキュラムは、近代の教育制度のものとよく似ていました。)
案外と知られていませんが、天然痘に有効な「種痘」技術を最初に輸入したのは肥前藩で、大坂の緒方洪庵に提供しているんです。
肥前藩の医療技術と緒方洪庵の頭脳が出会わなければ、天然痘で亡くなる人の数は倍増していました。
幕末、諸外国が日本に来航しはじめたころ、長崎にはすでに肥前藩が用意した鉄製大砲が大小の島に200門近く配備されていて、長崎に来航した外国船もその威容に驚いています。
(開国をもとめて来航したロシアのプゥチャーチンとの交渉を有利に進められたのも、背後にこの大砲たちがチラついていたことも大きかったのですよ。)
幕府へも、その大砲の技術を惜しみなく技術提供していて、江戸湾に砲台が作られた(台場のこと)のですが、それらは肥前藩が調えたものでした。
鍋島直正は、ペリーの砲艦外交に強く憤り、攘夷を唱えたことで有名です。
しかし、肥前の“攘夷”は、長州のような空想的“攘夷”てはなく、強力な軍事力に裏付けられた科学的“攘夷”だったのです。
内政においても、窮乏していた小作人を自作農にする均田制を導入し、砂糖・茶・ろうなどの専売と殖産興業を進めて成功していました。
そして鍋島直正の肥前藩では、薩摩藩や長州藩、土佐藩で起こっていたような、藩内の血で血を洗う抗争はまったく起こっていません。
鍋島直正を“啓蒙専制君主”とする一つの国家が成立していたようなものでした。
少し大げさな表現ですが、後に実現する「明治国家」の縮小版を、すでに20年ほど前に前倒しでつくりあげていたのです。
いったい佐幕なのか、倒幕なのか…
そのどっちつかずな、とらえどころのない態度から、鍋島直正は“妖怪”と呼ばれますが、「どっちつかず」でもなければ「佐幕」「倒幕」でもないのです。
“独立”国家として、幕末の混迷期に、肥前藩は屹立していました。
戊辰戦争開始時、薩摩と長州の中では、態度不明な肥前藩を征伐すべしっ という意見が出たのですが、木戸孝允も西郷隆盛も、けっきょく佐賀征伐をおこないませんでした。というより、手出しができなかったのです。
まるで鋼鉄の塊のように不動で、独立が維持できたのは、すなわち近代化された軍事力でした。
かつて、鍋島直正は、「京都守護職をわたしに命じなさい。なんだか300人くらいで都を守っているようだが、近代化した佐賀兵ならば、50人で十分だ」と豪語しています。
佐賀の軍備に比べれば、薩摩・長州のそれは、まだ中世・戦国時代と変わらない貧粗なものに見えたことでしょう。
ドタバタ、ドタバタと動き始めた薩摩・長州に対して、ゆっくりむつくりと肥前は動き始めます。
明治の軍事制度は、長州の大村益次郎の頭脳と、肥前の技術の“出会い”で開花しました。
上野での彰義隊との戦いにおいて、大村益次郎の指揮の下、肥前のアームストロング砲が火を噴いた瞬間、日本の近代が始まった、と、言えば言い過ぎでしょうか…
薩摩・長州が、維新の「頭」と「体」なら、肥前は「道具」。三つそろって明治近代国家は作り始められたのです。