『日本国紀』読書ノート(93) | こはにわ歴史堂のブログ

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。


テーマ:

93】鍋島直正が近代化を図ったのはフェートン号事件で味わった屈辱からではない。

 

「直正がこれほどの情熱を持って西洋の技術導入を図ったのは、文化五年(一八〇八)のフェートン号事件で味わった屈辱からだった。軍事力がないばかりにむざむざとイギリス船に鼻であしらわれ、藩の家老が何人も切腹させられたことから、西洋に対抗するには近代的な科学技術が不可欠だと考えたのだ。」(P253)

 

「事実」よりも「想像」を優先させた説明です。

鍋島直正は、1815年生まれで、フェートン号事件が起こった時(1808)はまだ生まれていませんので、そもそもフェートン号事件で屈辱を味わえません。

鍋島直正の近代化は、「軍事力がないばかりにむざむざとイギリス船に鼻であしらわれたこと」がきっかけではもちろんありませんでした。

 

鍋島直正の近代化は、はるか後年の話。

それまでは、「軍事力」どころか「経済力」の立て直しに力を注いでいました。

 

少年藩主に影響を与えた人物がいます。それが、

 

古賀穀堂

 

です。穀堂は儒学者古賀精里の息子で、直正が6歳の時から御側頭として学問を教えました。

穀堂はとくに医学と蘭学の大切さを直正に説きました。直正が西洋技術に興味を持つことになったのは穀堂の影響です。

 

「文政十三年(一八三〇)、十五歳の若さで藩主となった直正は、まず破綻していた財政を立て直すため、役人を五分の一に削減し、磁器・茶・石炭などの産業振興に力を注ぎ、農民には小作料の支払いを免除し、農村を復興させた。」(P253)

 

と書かれていますが、十五歳の若さでこれらの改革を進めたのではありません。

 

「役人を五分の一に削減し…」とありますが、これはインターネット上の説明(Wikipedia)などではよくみられますが誤りです。

直正が整理した人員は400人ほどですから、全体の3分の1「を」削減しました。

「五分の一『に』削減」ではなく「五分の一『の』削減」ならまだわかるのですが…

 

「農民の小作料の支払い免除」(免除ではなく実は10年間の猶予)は、藩主になってから12年後の改革です。農村の復興は1850年代に成果が出ます。

 

「そして苦労の末についに西洋の最新式の大砲、アームストロング砲を日本人の手だけで完成させた。」(P253)

 

これ… 実はちょっと微妙なんです。司馬遼太郎の小説『アームストロング砲』を始め、『花神』の影響でこの話が広く流布されてしまいましたが、この時の大砲は、アームストロング砲というよりも、アームストロング砲から学んだ「佐賀砲」ともいうべき大砲なんです。

1860年代以降、アメリカでの南北戦争で武器がだぶつくようになると、中古武器が日本に大量に出回るようになりました。最新式の武器輸出は制限されていましたが、中古のアームストロング砲は、日本にも輸入されます。

佐賀藩は「独自の」大砲技術の開発を進めていたため、アームストロング砲の扱いにどの藩よりも習熟していました。

また、オランダ陸軍少将ヒュニンゲンの著書『大砲鋳造法』を入手して翻訳させています。

うまいぐあいに、直正の妹は、松江藩に嫁いでいて、松江藩は当時砂鉄の産地…

大砲製造の鉄もうまく融通してもらえるネットワークも確立していました。

 

幕末のアームストロング砲については、司馬遼太郎が説明しているようなものではありませんので「アームストロング砲を日本人の手だけで完成させた」とあまり強調しすぎないほうがよいところなのですが、大砲技術については、佐賀藩が秀でていたことは確かで、実際に当時の最新式の大砲が佐賀には装備されていました。

(ペリーを浦賀から長崎へ回航させようとした理由に「長崎に回して佐賀に打ち払わす」という計画もあったくらいです。)

 

「西洋の蒸気機関は同じ頃のアジアやアフリカの諸国民も見ているが、これを作り上げた国などどこにもない。」(P254)

こういう説明、百田氏はお好きなようですが、やはりこういう比較は、それぞれの発展段階をふまえて理解すべきだと思います。

「鎖国」を通じて、日本は国内産業が発達し、西洋の技術を再現する能力・経済力に達していたからこそできたことです。当時の職人や学者の努力には敬意を払えますが、平安時代や鎌倉時代に蒸気船を見ていても造ることはできませんでした。

その発達段階に無い国や地域の人々と比較するのは、あまり誇れる話ではありません。

 

「慶応元年(一八六五)、ついに日本で初の実用蒸気船『凌風丸』を完成させている。実際の蒸気機関を見たこともないのに、本と図面だけで同じものを作り上げたのだ。」(P253)

 

佐賀藩は、長崎の警備もしていますし、直正自身も、長崎に入港していた外国の蒸気船に乗っています。1853年のプゥチャーチンの長崎来航も佐賀藩士たちは知っています。学者や職人たちも長崎にはよく訪れていますし、「実際の蒸気船を見たことも無い」のに作り上げたわけではありません。

 

ところで、鍋島直正の近代化に必要な「資金」はどこから得ていたのでしょうか。

藩の財政を回復して、反射炉や大砲、蒸気船の製造ができたのでしょうか。

 

「この精錬方の事業には、膨大な費用がかかり、藩の重臣は経費節減のため廃止を主張し始めるが、直正は『これは自分の道楽だから制限するな』と言って、諦めずに研究開発を続けさせた。」(P243)

 

これは、史料的には確認しにくい逸話です。

実は、直正は、「打ち出の小槌」を持っていました。

鍋島直正は、当時の名前は、「直正」ではなく、「斉正」です。

これ、11代将軍家斉から一字を賜った名前…

彼の妻は、家斉の娘で、直正は妻の実家からお金を借りて、改革の費用としたのです。

徳川家から借りた金がなんと10万両。

つまり、幕府が「資金を出すから佐賀藩に長崎の海防は任せるね」、て、海防業務を委託されていたのです。

直正はけっして「道楽」で改革を進めていたのではありませんでした。

 

それにしても、カネとコネ、うまく直正は活用していました。

 

実は、わたし、鍋島直正のこと、けっこう好きなんです。

以前に直島の話をまとめたので、添付しておきます。よければこちらもお読みください。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-11827417457.html